第一話 転任
辺境の空は今日も晴れ
The periphery’s sky is still fine
紫堂恭子と、
『辺境警備』の
隊長・サウル=カダフ
神官・ジェニアス=ローサイ
に捧ぐ。
転任(TRANSFER)
【1】
「まもなくダナウの港です。乗客の皆さんは、手荷物の点検をして下さい」
飛空艇の窓からダナウの街が見えたところで、乗客係の者が声高に告げた。商業都市オイトルーダの港を出たのが昨晩の五 時、今は朝の五時であるから、丸々十二 時間の船の旅であったのである。馬車と較べれば格段に乗り心地の良い飛空艇ではあるが、やはり空を飛ぶものであれば、突発的な揺れはまぬかれ得ない。船中泊をした客の顔は、一様に疲れを浮かばせている。しかも朝の五グンである。皆ブツブツと文句を言いながら、自分の手荷物を点検し出した。
大きく一つ欠伸をした商人風の男が、上の網棚から巨大な荷物を降ろした。その同じ列の席の一番窓側に、一人の軍人が座っていた。外出用の、マントのない簡略服を着け、濃緑のベレー帽をかぶっている。そのベレー帽の下から、燃えるような赤毛がのぞいている。
その軍人は、商人風の男が派手な音を立てて荷物の点検をしているのを尻目に、腕を組み、窓にもたれかかる様にして眠りこけている。
「兄ちゃん、兄ちゃん、もうダナウやで。起き」
おせっかいでは世に知られるオイトルーダの商人の本領を発揮して、男は軍人に声を掛けた。しかし、軍人は反応しない。
「な、兄ちゃん、兄ちゃん」とうとう男は、軍人の肩に手を掛けてゆすり出した。「トレカフまで行くんちゃうやろ。早よ起きな、あっち(トレカフ)までわざわざ連れていかれた上に、料金まできっちり取られてまうで。そんなんイヤやろ」
あまり強くゆすったお陰で軍人のベレー帽が飛び、後ろで束ねた赤毛が鮮やかに揺れた。
「判った、判りました」軍人が、仕方無さそうに答えた。「言われなくてもちゃんと起きるから、そんなに心配しないで。それに」
軍人はそこで顔を上げた。
「その“兄ちゃん”っていうの、やめてくれない?」
「あらま!」
男の目が丸くなった。その軍人は、女だった。
「あらー、女やったん。それもこないな別嬪さんやったとは…。えろうすんまへんなあ。それにしても、こないな別嬪さんが軍人やなんて、なんや勿体無い気ィするな」
「ありがとう」
彼女はそう言って笑った。心なしか彼女の周りが明るくなった様な、そんな魅力のある笑顔であった。
「あ、あのでんな」男は少々舞い上がって、右手を差し出した。「わし、オイトルーダの商人で、グワラン=プール言いますねん」
「ミラール=オルテールです」
彼女はそう言って、プールの手を握る。
「いやー、ホンマはわし、行商人やってんねん」プールは、誰も問いもせぬ内から喋り出した。「せやけど、オイトルーダで一軒店を持ってもうたら、なんや判らんうちにえらい商売が大きなってしもて、身動き取れんようになってしもたんですわ。二、三年はそれでもおとなしゅう街に籠って商売しとったんやけど、もうあきまへん、よう辛抱でけんようになったんですわ。じっと一つ所に腰を落ち着けるゆうの、あんまり好きやおまへんねん。で、番頭に店を任せて、ようやっとこうやって出て来たとこでんねん。やっぱりわしは、出歩かなうっぷんが溜まってしまうねんな。ウロウロすんのが一番や、ホンマ」
ミラールは、彼の長弁舌を半ば呆れて聞いていた。彼女が口を出すタイミングは全く無い。別に何か言いたい訳では無いが、会話の相手に一人講釈させておくほど、彼女は無口では無いつもりである。
そんなミラールの顔色を見て取ったのか、プールは話を彼女に振って来た。
「そうそう、ところで、わしは見ての通り行商に来ましてんけど、ねえさんは、ダナウに何しに来はってん?やっぱり東方師団の方へ配属になったんやろか?」
「ええ、一応」プールの長話を聞いている間に乾いてしまった唇を舐めて、ミラールは口を開いた。「東方師団第四中隊の第十四小隊に転属になったものだから…」
「第十四小隊!?」
プールの素っ頓狂な声が、ミラールの言葉を遮った。
「十四小隊いうたら、あのエイフ村にある部隊でっしゃろ?間違いおまへんな?」
「そ、そうだけど…」ミラールは目を丸くして答えた。「何か悪い事でもあるの?」
「悪い事って…。ねえさん、本隊から来たんやろ?一体何やらかしたん?貴族院のじじいと不倫でもしたんか?」
「はあっ??」
「はあってな、十四小隊いうたら、本隊で不始末した幹部連中の島流しの部隊いうて、城都ならずとも有名やねんで。ねえさん、知らんかってんか?」
「ああ、その事ね」ミラールは、やっと合点がいって、笑いながら答えた。「それくらいは知ってるわよ。――でも、そんなに有名なの、十四小隊って」
「有名も何も、公国で一番役に立たない部隊いうて、ダナウの本隊でも笑い者にされてんねんで」
「まあ、失礼な。本隊がそんな事言ってるの――よっぽどの所なのねぇ」
ミラールの言葉は、最後には感嘆に変わっていた。
「感心しとる場合ちゃうで」
プールが肩をすくめた。
二人がそんな話をしている間に、飛空艇はダナウの港に入港した。桟橋に接触して、船体に軽い揺れが来る。
ミラールは、軍隊色のズックのカバンを肩に掛けると、船を降りた。その後を、プールが巨大な荷を背負って続く。
桟橋を渡り切った所に手荷物の受け取り所があり、ミラールはそこで、船に乗る前に預けた物を受け取った。
それは、五十cm程の、くの字に曲がった短剣であった。非番の軍人は、船や馬車に乗る際には、剣を荷物係に預けなければならない。一般の旅客と一応同じ扱いなのだ。
「あ、その剣は…!」
ミラールが腰に戻した剣を見て、プールが声を上げた。
「プールさん、これを知ってるの?」
「そら、わしは行商人やさかい、普通の人間の三倍はモノを見とるよってに。――それ、ラトのあたりのグルカ族ってのが使てるクックリって奴やろ」
「そうよ、良く知ってるわね」
「それより、ねえさん、長剣持たんでええんか?」
プールが尋ねた。兵卒は、長剣は必ず帯びなければならない。短剣のみ、というのは軍規で認められていない。
「ええ」ミラールは笑顔で答えた。「だって、私は士官だもの」
士官は、本陣で剣を振り回す必要が無い、ということで短剣のみの携行が許されている。
「あらま、ねえさんは士官だったん。しかも、クックリなんか持っとるとこ見ると、白兵戦の専門家ってとこやな。こらお見それしましたわ」
プールは素直に感心して言った。プールは薀蓄だけで体は動かない人間であるから、そういった事が出来る、という事だけで彼には尊敬に価するのである。
「別にお見それする事は無いけど…」
「いやいや、わし、あんさんが気に入ってしもたわ。ちょっと待ってや、いいモンあげるさかい」
彼はそう言いながら背中の荷物を降ろすと、中を探り出した。探し物はすぐ見つかった。
「これや、これ。これは結構な値打ち物でっせ」
そう言われてミラールが受け取ったのは、くすんだ銀色の、楕円形をしたペンダントだった。
「これ、何?」
ミラールは尋ねた。ペンダントには、何の工夫も無い。ロケットの様に蓋が付いている訳でもない、ただの金属の塊である。
「これはやな、かの魔道の国、メスタからやって来た、聖銀製のお守りでんねん」
「聖銀製の?」
「そうやねん。これにはメスタの魔道師によって呪文が封じ込められておって、持ち主に幸運が舞い込むっちゅう、そらありがたいモンやねんで」
「そんな大事な物を私にくれるの?」
「ま、わしの事を忘れんといて貰う為の手段や」プールは幾分赤くなりながら言った。「あんたがもし軍隊を辞める事になったら、いつでもわしに連絡してや。わしの妾の座は、いつでも空けとくさかいにな。ほな、さいなら。達者でやっとくれやし」
プールは言いたいだけ言うと、素早く人混みの中に消えてしまった。
ミラールは手を伸ばして彼を呼び止めようとしたが、思い直して手を降ろした。その手の中にある“お守り”を見る。
ティアドロップ型、というには不格好なそれをためつすがめつ見つめたミラールは、思わず吹き出してしまった。
彼女は、貴金属に関してはかなり目が利く。いや、彼女ならずとも、このペンダントが聖銀製でない事だけは判るだろう。ペンダントは、錫と銅の合金で出来ていた。メスタがどうこう言う前に、これはただの屑である。
「変な人に見込まれちゃったなぁ」
ミラールは溜め息をついた。これは、何か良くない事が起こる前兆ではないのだろうか、という考えが頭をかすめた。
ダナウ東方警備師団本部に出頭したミラールは、そこで、案内人と馬一頭、そして路銀を手渡された。その路銀は、二人で馬を駆って四泊五日の旅をするのに足るものであった。さらに、蝋で封をして、その上からポルダインの印象を押した白ワインを渡された。それは、旅の安全を祈る縁起物である。
彼女の不吉な予感は、いやが上にも高められた。
【2】
ミラールの乗った白馬と、案内の兵士の乗った黒馬は、朝陽に向かって歩を進めていた。
ダナウを出て、既に四日目である。体力的には何の疲労も感じていない彼女だったが、毎日続く同じ景色に、いい加減うんざりとして来ていた。右を見れば、地平の彼方にへばり付いた原生林の緑と、その上に聳える雪を頂いたケナッド高地、左を見れば平地の向こうに輝く海、そして前には蒼々としたラウアー山脈が万年雪をきらめかせている。元々が都会育ちの彼女だが、見る風景全てに物珍しさを感じたのは、最初の一日だけである。その後は、ただひたすら退屈なだけであった。
あまりの退屈さに、ミラールは隣を歩く兵士に声を掛けた。
「ねえ、フィル曹長。あとどのくらいで兵営に着くの?」
「そうですね。今日の夕方頃には…」
「夕方には着けるのね?」
「いえ」曹長は笑ってミラールの言葉を否定した。「夕方に、エイフの街に着きますから、そこで一泊して…。そうですね、兵営に着くのは、明日の昼以降でしょう」
「明日?」
一瞬浮かんだ淡い希望が打ち砕かれて、ミラールは肩を落とした。大きく溜め息をつく。
「あなたは我慢強い方ですね」
曹長が笑いながら口を開いた。
「えっ??」
「自分は、第十四小隊の隊長をお送りするのはこれで三度目になるのですが、前の二人は、ダナウに来た時点で、既に事あるごとに溜め息をついていました。四日目までこの辺境の風景に耐えられたのは、あなたが初めてです」
「そう……」
ミラールは力無く笑った。実は二日目からは退屈で死にそうだったのだ。それを表面に出さなかったのは、彼に弱みを見せたくなかった、ただそれだけの事である。
「ところでオルテール殿、都の様子はどんな風でしょうか?自分はもう何年も、都へは帰ってないのです」
「あなたは都の生まれなの?」
「はい。ただ家が商売をやってまして、オイトルーダで数年商売をしているうちに、都へ帰るのが嫌になったらしくて、それでこちらへ越して来たんですよ」
「そう……」
ミラールは適当に返事をしておく事にした。ただの四方山話をしているように装ってはいるが、実は都で彼女が何をしでかしたのか、それを聞き出そうとしているのが曹長の目にありありと浮かんでいる。そもそも第十四小隊にやって来る隊長というのは、本隊で何か不祥事を起こした者、というのが常識になっている。彼女のような美人士官が、一体何をやって飛ばされて来たのか、これはこの曹長に限らずとも興味を引かれる所であろう。
別にゴシップになるような事をした訳じゃないんだけどね。
ミラールは心の中で呟いた。退屈をまぎらわすつもりで口を開いたはずが、彼女にとっては更に退屈な状況となってしまっていた。
曹長の言う通り、夕方にエイフの街に到着した。そこで一泊して、翌朝は八時から馬上の人となった。なだらかな丘陵地帯を馬に揺られる事四時間、ようやくミラールの目に、小高い丘の中腹に建つ、東方第一師団第一連隊第一大隊第四中隊第十四小隊の兵営が見えて来た。
「やっと着いた」
ミラールは大きく溜め息を付きながら呟いた。
既に太陽は頭の真上まで来ていたが、四月の辺境は、コートを着ずにはいられない程寒かった。
兵営に近付くと、その前には十六人の兵士がてんでにたむろしていたが、彼女らを認めたその内の一人が、脱兎の如く駆け出して来た。
「いやー、よく来てくれた!」
大尉の記章を着けたその男は、ミラールを馬から引きずり降ろした。
「わしはオイラックだ。今日までここの隊長をしていた。あんたが来てくれて本当に救かったよ」
オイラックはそう言うと、ミラールの手を振り回すように握手をした。その彼の名前と顔は、ミラールに二年前の事を思い出させた。
「まあ、あなたがオイラック大尉だったの
ミラールは思わず吹き出した。
「何じゃ、あんたはわしを知っとるのかね?いや、わしも、どっかであんたの顔を見た事がある気がしてたんだがね」
オイラックが鼻の下を伸ばして言った。
「オイラック大尉。前任首都圏 警備隊第十四中隊副隊長。中隊長の奥方との不倫が発覚して彼の怒りを買い、左遷されたのが二年半前。でも、ここに来ているとは把握してなかったわ」
ミラールは笑いながら、淀みなく言った。オイラックの顔色が、蒼く、次いで紅くなった。兵隊達は、噂の真相を初めて耳にして、笑い転げている。
「な、何であんたがそんな事を知ってるんだ?」
「だって、あなたの左遷書類に判を押したのは私だもの、オイラック大尉。私の顔を忘れた?」
そう言われて、オイラックはまじまじとミラールの顔を眺めた。ゆっくりと視線を落とす。その時、コートの下から、腰に下げたクックリがちらりと見えた。
女兵士でクックリを持つ者、それは城都の兵士数万の中でも、たった一人しかいない。
オイラックの目が点になった。慌てて敬礼をすると、大声で言った。
「どうも、失礼致しました!ようこそ第十四小隊へ、オルテール大佐殿!」
その場にいた一同は驚いた。ただ、その驚き方は人によって少々異なっていた。
オイラックとフィルは、息が止まるほど驚いた。第十四小隊の隊長職に、大佐がやって来るなどという事は考えられない事態である。特にフィルは、五泊六日に及ぶ旅程の中で、何か失礼がなかったか、目まぐるしく自らの記憶を手繰り寄せた。
第十四小隊の兵隊達の驚きは、上の二人とは少し違っていた。彼らは辺境で生まれ育ったので、戦争を全く知らない。しかも、戦争後入隊なので実戦経験も全くない。彼らにとって、戦争は机上の空論に他ならず、軍隊とは、放牧の間に勤める片手間のお遊びであった。つまり、彼らにとって階級は何の意味も持たず、上司はただ賃金をくれる有り難い存在以外の何者でもないのである。
彼らの驚きは、女が隊長として赴任して来た、ただそれだけである。この時代、女が男専門の仕事に着く、という事は大都市でも珍しい事であった。
オイラック大尉は、驚きはしたものの、流石に年の功である。直ぐに自分を取り戻した。何でもいいから早く都へ帰りたい、そういう意識が働いたからかも知れない。
「えー、オルテール大佐。ただ今より、第十四小隊・辺境警備の任を貴殿に引き継ぎ致します」
「ミラール=オルテール大佐、確かに引き継ぎました」
ミラールも 敬礼を返しながら復唱した。オイラックは、そんな彼女の耳許に顔を寄せて、囁くように言った。
「師団長殿、この部隊は軍隊ではありませんので、そのつもりでのんびりとやって下さい」
「どういう事?」
「いや実はですね、あそこにいる十五名の兵隊達は、これまで一度も軍事教練その他、軍隊教育一切を受けていないのです」
「一切って、何も?」
ミラールは目を丸くして尋ね直した。
「何も。縦列ひとつまともに作れません」
「まあ……」
ミラールは絶句して兵隊達を見た。なるほど、今こうして上司が任務引き継ぎを行っているにも関わらず、彼らは三々五々好きなように立ってこちらを見ている。これが本隊なら、今頃彼らは全員懲罰を受けた挙げ句に謹慎処分になるところである。
そこまで考えて、ミラールは小さく肩をすくめた。
どうせ私は骨休めに来たのだし、それもいいかな。
そう口の中で呟くと、オイラックに聞こえるように少し声を上げた
「判りました。そのつもりで行きましょう」
「そうですか」オイラックはそこまで小声で言うと、素早く離れて敬礼し直した。「それではオルテール隊長。以後の事はよろしくお願いします。私は、これにて失礼させて頂きます」
そう言い切ると、彼は側に繋いであった自分の馬に跨がり、フィル曹長を待たずに鞭を入れた。後も見ずに走り出す。
「あ、え?あ、そ、それでは大佐、私も失礼致します。では!」
フィルは馬上から敬礼すると、一目散に走り去るオイラックを追って馬に鞭を入れた。
それを見送ってから、ミラールは兵隊達に向き直った。ぴたりと敬礼をして、口を開いた。
「本日より、第十四小隊の隊長の任に着いた、ミラール=オルテールです。よろしく!」
兵隊達からは、敬礼の代わりに陽気な拍手が返って来た。
こういうのも悪くない、とミラールは内心微笑ましく思った。
【3】
案内された隊長用私室の椅子に座って、ミラールはぼんやりと窓の外を眺めていた。南向きのその窓からは、ラウアー山脈が天を衝いて聳えており、頂上の万年雪が茜色に染め上げられているのが見える。都から一足先に送られて来た彼女の荷物は木箱に入ったまま、封も解かず置きっ放しになっている。
扉がノックされる音に、物想いに沈んでいたミラールは飛び上がった。
「ど、どうぞ」
ミラールの応えに扉を開けて入って来たのは、隊の中で唯一の南方系の兵隊だった。ヒゲに埋もれた柔和な顔を心持ち引き締めて、敬礼をした。
「オルテール隊長。着任おめでとうございます。第十四小隊隊員一同を代表いたしまして、リスキン曹長、ご挨拶に参りました」
ミラールも椅子から立ち上がると、敬礼を返した。
「ご苦労様」そう言ってから、ふと小首をかしげた。「前任のオイラック隊長は、この小隊は軍事教練を受けていないって言っていたけど、あなたはそうでもないみたいね」
「はい。自分は、父親の代から軍人でありましたので。ダナウの本隊で、三年程訓練を受けてまいりました」
「そう……。でも、軍事教練もしないのなら、この小隊は毎日何をしているの?」
「こちらへ来て下さい」
リスキンはそれだけ言うと、北側の窓を開け放った。北側はなだらかな丘陵地帯が海まで続いており、放牧には絶好の環境であろうと思われた。
目を手前に持って来ると、眼下に赤い屋根の畜舎が横たわっていた。隊長室は三階の高さにあるので、辺りを一望の下に見渡せる。
今は畜舎の扉は開け放たれ、そこに山羊がぞろぞろと追い込まれていた。その作業をしているのは、先程この兵営前にたむろしていた兵隊達と、白い大きな一頭の犬であった。兵隊達が上手く山羊を導く道を作り、そこから外れてしまったものは、犬が軽く吠えながら道に追い戻す。のどかな、微笑ましい風景である。
我知らず微笑んだミラールの耳に、リスキンの言葉が滑り込んできた。
「あれが自分達の仕事です」
ミラールがその言葉に反応するまでに、ちょっとした間があった。
「えっ?」
顔をゆっくりとリスキンに向けながら、ミラールは問い直した。
「この小隊にとって、軍事行動はただ名目だけの物です。軍隊としての仕事が何一つ無いのですから、する事と言えば、入隊前と変わらず牧畜や畑作だけなのです」
「だってここは、休戦中とはいえオールルとの国境なのに……」
ミラールはそこまで言いかけて、口をつぐんだ。確かに、ここエイフ村はこのランカスター公国の東の国境であり、隣国ラフヌス共和国連邦内国家・オールルとの唯一の接点である。二千年もの昔に作られた“旧街道”が通っているのだが、この街道は標高千mの高みを貫いている細い路で、軍隊はおろか旅人でさえ滅多に通る事は無い。オールルとの国境は、三千ノース級の山々が連なる長大なラウアー山脈が横たわっており、その最北端であるエイフ村付近でさえ千ノースを越え、あまつさえその高さをほとんど変えずに海にまで伸びている。この地は、天然の要害に守られた言わば“隠れ里”なのである。
ミラールは、小さく溜め息をついた。
「つくづく凄い所に来ちゃったのねえ……」
彼女は心の中で呟いたつもりだったが、声となって出てしまったらしい。リスキンがそれを聞きつけて破顔した。
「そうです。ここは辺境なんです」
日が暮れた。街から二十 Km離れた兵営である。周りに灯りは無く、ほぼ円に近い十四日の月が煌々と輝いている。
一階の隊長室に降りて来たミラールは、椅子に腰掛けて荷物の中から取り出したブランデーの栓を抜いた。それをグラスに注ぐと、飲むでもなくぼんやりと見つめて、小さく息をついた。グラスの中で揺れる琥珀色の液体がランプの光を反射し、石の壁に不安定な影を映し出す。
辺りはしんと静まり返っている。聞こえて来るのは、兵隊達が厨房で食事の準備をしている音と、丘を吹き渡る風の音だけである。
「水の底にいるみたい……」
グラスを取り上げて、ミラールは呟いた。
「辺境へようこそ、人魚姫」
突然声を掛けられて、ミラールはグラスを取り落しかけた。慌てて扉の方に目をやると、そこに司祭服を着た大男が立っていた。
「驚かせてしまいましたか?一応ノックはしたんですがね」
大男はそう言いながら部屋に入って来ると、慣れた様子で応接用の椅子に腰を掛けた。椅子が小さく鳴る。
「どちら様ですか?」
目を丸くしたミラールの問いに、大男は笑って答えた。
「イグロウ=ローブマンです。こちらの教会で司祭をやっとります」
厳つい顔が、笑うと温和な表情になる。
「そうですか」驚きから回復したミラールは、顔をほころばせた。「私はミラール=オルテールです。今日からここの隊長になりましたので、よろしくお願いします」
そう言いながら、ミラールはグラスをイグロウの前に置き、ブランデーを注いだ。
「いやいや、忝い」イグロウは笑み崩れてグラスを取り上げた。「何しろ、教会の神殿では酒は呑めませんからね」
そしてブランデーに口をつけて、イグロウは目を丸くした。
「隊長、これは“ウィンズの吐息”じゃないですか。いいんですか、こんな良い酒をもらっちゃって」
「そんな事より、よくこのお酒が判りましたね」
ミラールが驚いて言った。高級ブランデーは、正規ルートでは都会でしか手に入れる事が出来ない。辺境で生まれ育った者には、一生口に入る事が無い、ということも有りうるのである。
「まあ、酒好きなもんで、舌は肥えとるんですよ」
イグロウは照れ臭そうに言った。
本来司祭というものは、禁欲を旨とし、質素な生活を送る事によって神に仕える身を潔白に保たなければならない、とミラールは聞いていた。
「司祭様がお酒なんか呑んでいいんですか?」
ミラールが意地悪く聞いた。自分で勧めておきながら、そこは不問である。
「なーに、俗世間を超越してしまっては、俗世間の事は理解出来ないって事ですよ。まあ、そういう事にしといて下さい」
イグロウは笑って、ブランデーを呑み干した。
ミラールは、イグロウが何となく気に入ってしまった。彼女は基本的に、超俗的な聖賢はあまり得意ではない。尊敬の対象としては良くても、友人としてはいかんせん退屈な相手である。そういう面で、イグロウはミラールの眼鏡にかなったという事か。
「ところで隊長」
ミラールにブランデーを注いで貰いながら、イグロウが口を開いた。
「はい?」
「隊長は、女性ながらに大佐だ、と聞きましたが……」
「はい」
ミラールは内心身構えた。転勤になるとその先々で必ず「女だてらに何故軍隊に入ったか」と尋ねられる。いちいち説明するのも面倒なので、毎回毎回相手が欲しがっている理由をつけて、適当に返事を返しているのである。
「隊長、失礼ですけど、おいくつ?」
イグロウの問いに、ミラールはずっこけた。
「はっ?」
「齢はいくつですか?好きな色は?好きな花は?好きな食べ物は?好きなタイプの男性は?」
ミラールはあっけにとられた。いかに人間的な司祭と言えども、少し行き過ぎではないか?
「ちょ、ちょっと待って下さい。なんですか突然」
「いやいや、これは毎度の事なので、あまり気にしないで、正直に答えてくれれば結構。新しい隊長が来るたびにこういった事は尋ねてるんですよ」
「男性にも、好きな花や男性のタイプを尋ねるの?」
「そりゃ勿論女の好みを尋ねますよ」
「――そうじゃなくて、司祭様がそんな男女の仲に興味なんか持ってもいいのかって事です」
「いけませんか?」
ムキになったミラールだったが、イグロウに涼しい顔で返されて、絶句してしまった。
ミラールが沈黙してしまったのを良い事に、イグロウは再度口を開いた。
「隊長、恋人はいるんですか?」
その問いに、ミラールの表情が動いた。心中の動揺が隠し切れずに顔に出てしまった、というような複雑な表情になる。それを隠すかのように、ミラールはうつ向いて首を振った。
イグロウは目ざとくその表情の変化に気付いた。そして、彼女の耳に光るオニキスのピアスを見た時、何か心に響くものがあった。
「もうー杯貰いますよ」
イグロウは沈黙が気まずい雰囲気になる前にロを開いた。ブランデーを自分のグラスに注ぐと、一気に呑み干して、満足そうに大きく息をつく。
「ところで隊長、どうです、辺境にやって来た感想は?」
「――あんまり田舎なもので驚きましたけど、良いところですね」
再び顔を上げたミラールには、先程の哀しげな表情はもう無かった。
その後は夜遅くまで、辺境についての四方山話で盛り上がった。ただ、先程の気まずい一瞬については互いに心中で冷や汗を拭っていた。
【4】
フラブ教会東方支殿は、エイフ村のような辺境にあるにしては、不釣合いに大きい。ダナウの中央神殿に匹敵する規模を誇っている。
かつてここエイフ村は、ラウアー山脈越えの最短にして最も楽な街道の宿場街であり、かなり栄えていたようである。人口も現在の五倍を遥かに超え、その数だけいる信者を収容出来るだけの神殿が建てられた。
その後、南街道の開発と、隣国との国交断絶とによって、旧ダナウ街道は次第に衰退して行き、エイフの宿場も現在のようなうらぶれた姿となったのである。
それほど広い神殿であるが、居るのはイグロウただ一人だけである。
だだっ広い本殿での勤行を終えたイグロウは、書斎に戻るとカップにガフィ(コーヒー)を注いで、それを啜りつつ椅子に腰を下ろした。
ぼんやりと窓の外に広がる森を眺めているうちに、昨夜の隊長の様子を思い出した。
彼女はオニキスのピアスを着けていたが、ピアスに限らずオニキスの宝飾品は俗に「未亡人の宝石」と呼ばれ、夫や子供を亡くした女性や、離婚した男女が身に着ける宝石とされている。悲しみを表す宝石である。
知らず、イグロウは腕を組んで考え込んでいた。
「今までの隊長さんとは、どうも違うみたいだな」
イグロウは思わず呟いた。ただ左遷されて来たにしては、隊長の哀しみはあまりに深いようだ。
一体、都で何があったのか?
イグロウがそう考えた時、ノックと共にリスキンと他二名の兵隊が入って来た。
「司祭さま、お早うございます」
「やあ曹長、それにカーツにロペル、お早うございます」
イグロウはガフィを三人分注ぐと、再度椅子に落ち着いた。
「あのう……」おずおずとロペルが口を開いた。「司祭さまは、昨日隊長と遅くまでお話してただら?どうしてこの小隊へ来たか、わかっただか?」
「どうして?」今までその事を考えていただけに、不意を突かれた気分になって、イグロウは尋ね直した。「どうしてって言うのは、どういう事ですか?」
「だでさあ」横からカーツが口を突っ込んだ。「今度の隊長、大佐っていったらがんこ偉いだら?そんなバカ偉い人が、何でこの小隊の隊長にさせられたかって事だに」
「本隊からは毎度の如く、様々な噂が流れて来ていますが、どれか真実に近いものがあるかと思いまして」
リスキンがそう切り出しておいて、ロペルがその噂話を並べ立てる。オイラック大尉の様に上司の妻と不倫した、数々の女遊びが発覚した、貴族院の奥方と不倫した、等々。出所不明な噂が辺境に伝わるまでに性別まで曖昧になっている。また、売春がばれたなど、明らかに眉唾な噂も含まれていた。
そんな噂話を聞かされながら、イグロウの脳裏には、ミラールのあの表情がちらついていた。
ロペルの話を聞き終わっても、イグロウはしばらく腕を組んだままで、黙っていた。
「うーん」しばらく後に、イグロウはようやく口を開いた。「どうも、どの噂もそれらしくないですねぇ」
イグロウは、ミラールの過去に何かありそうだとは思っていたが、その事は彼ら田舎純朴青年の集まりである兵隊達には言わない事にした。
「どうも、今まで来た隊長とは様子が違うようなんです」リスキンが首をかしげながら言った。「オイラック隊長なんかは、赴任してきたその日からぐうたらを決め込んでいましたが、オルテール隊長は、今日私が六時に起きた時にはもう起きていて、トレーニングをしていました」
「だもんで」横から今度はロペルが口を挟んだ。「今回の歓迎会はどういう風にしたらいいだいね?それを聞きに来ただよ」
「歓迎会ですか」
イグロウは大きく頷いた。隊長が赴任した時には、歓迎会をするのが恒例の事であった。いつもは、スキャンダルで左遷されて来た隊長相手であり、一刻も早く都へ帰りたがっているので、大体そちら方面の事を慰めながら呑んだくれる、というのがお決まりであった。そのパターンが今回はちょっと通らない感じである。兵隊達はそう言って来ているのだ。
「なるほど、確かにいつもの様には行きませんね」
イグロウがそう吐息交じりに呟くと、得たりとばかりにカーツが勢い込んで言った。
「そうだら?やっぱそう思うら?なにせ今度の隊長はどエラい位の高い人だし、真面目そうだし、それに女の人だで、それなりにキチンとした歓迎会にした方がいいら、司祭さま」
「何か良い考えは無いかいねぇ、司祭さま」
「何かありましたら、よろしくお願いします」
ロペルとリスキンも口を揃える。
「そうですねぇ……」
イグロウは目を伏せた。またもミラールの表情と、オニキスのピアスが脳裏に浮かんで来る。
隊長の傷心を慰めるには、どうすれば良いか?
そう考えて、イグロウの頭にふと閃くものがあった。まるでその考えがすぐにでも消え去ってしまうのではないか、というように素早く眼を壁の暦に走らせる。
「今年は確か、五年半振りにイリスの瞳が獅子の尾宮と交差する年だったよな……」
そう呟きながら本棚から歴表を取り出し、計算尺で何やら計算を始めた。
しばらく計算に没頭していたが、やがて頭を上げたイグロウは、興味津々といった態で彼の手元を覗き込んでいたリスキン達に微笑みかけた。
「丁度良かった。隊長はツイてますよ。曹長、後で何人か兵隊さんをここへ呼んで下さい」
「何か良い考えが浮かんだだか?」
ロペルの問いに、イグロウは大きく頷いた。
「ええ。素晴らしい歓迎会になると思いますよ」
ミラールはトール軍曹率いる分隊を連れて、兵営から一.五ディボノース先の国境線へと視察に出掛けた。
ただ、視察とはいえ軍事的緊張が全く無いこの辺境である。弁当持参でわいわいと出掛けて来たそれは、ピクニックと大差無い。
国境線には、恐ろしく古い時代に出来たと思われる石造りの物見の塔が建っており、その線に沿って、やはり恐ろしく古い時代に造られた土塁が連なっている。その土塁はあまりに古く、そのため既に背後の原始林と何ら変わらない状態となっていた。
国境であるラウアー山脈は、標高千ノース、厚さ三十ディボノースに及ぶ中立地帯であり、旧街道の路そのものを除いては全く人の手の及んでいない、圧倒的な原始の森である。
ミラールは分隊を解散させると、自らもぶらぶらと小高い丘の上まで登り、そこに腰を下ろした。
柔らかな春の陽射しがミラールの背中を優しく照らし、海からの微風は彼女の赤毛を冷ややかになぶる。なだらかな丘陵地帯に羊や山羊はのどかに草を食み、時はまるで過ぎ去るのを厭うかの様に緩やかに流れている。
都会の雑踏とは無縁の、膨大なまでの静けさがそこにあった。
眼下で子供の様にはしゃいでいる兵隊達を見ているうちに、ミラールは胸の内に過去の、というにはあまりに新しく、そして生々しい哀しみが甦って来た。大きく溜め息をつくと、濡れた瞳を青々と輝く水平線に遊ばせた。その瞳は、水平線を越えて、遥か遠くを眺めているようでもあった。
そんな彼女の横に、白い大きな犬が駆け寄って来た。そこに座り込み、ミラールの顔を覗き込む。
しばらくそのままで両者とも動かずにいたが、やがて犬の方が、鼻を鳴らしながらミラールの顔を舐めた。
「まあ、ノウラン、来てたの」
ミラールは、今初めてその犬の存在に気付いたようにそう言うと、その頭を抱き寄せた。そのまま黙り込む。ノウランも、身じろぎひとつするでも無く、ミラールに抱かれたまま、同じ様に水平線を眺めている。
「私はね」ミラールは、ノウランに話して聞かせるように口を開いた。「都で大きな傷を負ってしまったの。とても大きな傷をね。つい先頃のアルセア戦役では最前線に出て、何度も戦闘を繰り返して、敵の剣や矢玉を受けた事もあるけど、都で受けた傷は、それまで受けたどんな傷より大きく、そして苦しかった。都を離れて田舎でのんびりすれば、きっとその傷も癒えると思ったけれど、何だかここへ来てから、ずっとその事ばかり頭の中に浮かんで来るの。私、辺境に来たのは間違いだったのかな?都で忙しさにかまけて何もかも忘れていた方が良かったのかな?」
その言葉は、オイラック大尉が聞いたならば目をむいたであろう、首都圏警備隊第一師団長であり、大佐である都きっての女傑の口から発せられるにしては、あまりにか弱い、哀しげな言葉であった。
ノウランがそれに答えるように、低く鼻を鳴らしたので、ミラールは自嘲気味に微笑んだ。
「ごめんね、ノウラン、お前にこんな事話しても、しょうがなかったわね」
ノウランはミラールの腕から解放されると、自ら彼女の膝の上にあごを乗せて寝そべった。
一人と一頭はそうして、身じろぎもせずに水平線の彼方に目をやった。
そんな彼女達を下から見上げて、トールは呟いた。
「隊長、なんか寂しそうだいやぁ」
【5】
辺境にまた夜がやって来た。太陽神アグダの紅に輝く面が地平の陰に沈み、雲一つない夜空を、月の女神イリスの冷たく蒼白い光が満たした。
昼間のピクニックで何となく沈んだ気持ちになっていたミラールだったが、十九グンを回ったところで、兵営内がやけに静かである事に気付いた。昨日の同じ時間には、厨房で子供の様にはしゃぎ回って食事の準備をする音が聞こえていたのだが、今日はやけにひっそりとしている。隊長室の扉から頭だけ突き出して音を拾おうとするが、やはり何も聞こえない。
「おかしいな、皆どこへ行っちゃったのかしら?」
椅子に戻ったミラールが呟いた時、扉をノックしてトール軍曹が入って来た。彼の分隊であるネックとマーカスがその後ろに立っている。
「隊長、こんばんは」
「こんばんは、はいいけど」ミラールはトールに尋ねた。「ほかの兵隊達は、皆どこへ行ったの?もうこんなに遅いのに」
「実は、ぼくら十四小隊の兵隊一同で、隊長の歓迎会をする事にしたです。だで、皆はその準備に出てるです」
「歓迎会?――その気持ちは有り難いけど。でも、兵営でするんじゃないの?」
「はい。別に場所を設けてあるだで、隊長、ついて来て下さい」
トールはそう言うと、隊長室を出た。暗い廊下でカンテラに火を灯して、ミラールを待っている。ミラールは首をひねりつつ腰を上げた。
トールと兵隊二人は、兵営を出ると街に向かって歩き出した。アローン小川を渡って、尚も街へ、西へと向かう。十ディボノースほど街道を歩いた所で、左の牧草地を登り始めた。その先には、地元の人々が「森の離れ」と呼ぶ、牧草地のただ中にあるこんもりとした小さな森があった。どうやら目的地はそこらしい。
「こんな所で宴会やるの?」
底冷えに身を震わせつつ、ミラールはトールの背に問い掛けた。
「そうです」トールは振り返って、朗らかに言った。「だいぶ探いて、この場所になったです」
「サガイテって、一体何を探したの?」
そう尋ねたところ、トールは黙り込んでしまった。ミラールもそれ以上は何も聞かず、黙って彼の後に着いて歩いた。
森の中の道無き路を少し歩くと、先の空間が少し開けた。その空き地の入口にリスキンが立っていて、ミラールに向かって敬礼をした。
「隊長、我々の歓迎会へようこそ」
リスキンはそう言うと、ミラールに毛糸のストールを渡して、半歩下がってミラールを促した。ミラールは促されるまま、ストールで肩を包みながら、その空き地へと足を踏み入れた。
そこは、まるで作られたかのようにまん丸の空き地であった。針葉樹の森の中で、そこだけ円形に樹木が無く、下生えさえも無い。牧草地と同じような丈の低い草が生えているだけで、そのほぼ中央に、やはり円形に木の実が並べられている。こちらの円はさほどきれいでは無く、まるで小鳥や虫が、そこに木の実をため込んでいるうちに円になってしまった、とでも言うかのような様子であった。そして、それら全てを十五日の満月が蒼白く浮かび上がらせていた。
その光の中に、イグロウの巨体もまた蒼白く浮かび上がっていた。
「隊長、ようこそいらっしゃいました」
イグロウは慇懃に頭を下げた。
「司祭様、こんな所で、一体何をするんです?」
「ご覧の通り、宴会ですよ」
イグロウはそう言うと、肩ごしに後ろを見た。街から買って来たビールとワインの樽を、兵隊達がやっとの思いでここまで持って来たところであった。
「司祭さま、持って来たに」
「丁度良かった。」イグロウは月を見上げながら言った。「良い時間に、皆揃いましたね。では、兵隊さんも隊長さんも、輪になって座って下さい」
その言葉に兵隊達も、まだ納得のいかないミラールも、とりあえず座った。そのミラールの隣に、イグロウが腰を下ろした。
「一体何があるの?」
その場の雰囲気に呑まれて、思わずささやき声でミラールは尋ねた。そんなミラールに、イグロウもやはり小声で答えた。
「月蝕ですよ」
「月蝕?」
ミラールは問い直したが、イグロウは黙って空を指差した。ミラールも兵隊達も、空を、月を見上げた。
月は、空き地の真上に位置していた。雲一つない夜空に、冴えた光を放って、鮮やかに照り映えていた。
ふと気が付くと、月の右端が欠けていた。
樽の近くにいた兵隊が、ジョッキにビールを注いでは隣に回し始めた。そのビールが全員にいき渡るまでに、月は半分以上欠けていた。周りがそれと判るほど暗くなって来た。
ミラールは、心に淡い感動を抱いて月を、そして周りを見た。都に居た時にも月蝕は見た事はある。しかし、明るい街の中では、月が欠ける事にはさしたる感動も変化も無かった。明るい地上の上で、ただ黙って月が欠け、そして満ちる、それだけの事であったのだ。ミラールは改めて、この大自然の生み出すショーに見惚れた。
二杯目のビールが手元に回って来た時、月はか細い弓の様な光の弧が輝くのみとなった。
「さあ皆、耳を澄ませて」
イグロウが小声で言った。ミラールは何が起こるのか尋ねようと彼の顔を見たが、イグロウは黙って指を口に当てた。仕方なく、ミラールは沈黙を守る事にした。
今や、月は完全に見えなくなった。皆既月蝕である。兵隊達の持って来たランタンは、既に火は消してあったので、辺りは薄暗い闇に包まれた。
何か、虫の声が聞こえた気がして、ミラールは振り返った。そこに、何かぼんやりと光るものがあった。ミラールは目を凝らした。
それは、小さな女の形をしていた。薄緑の光に包まれたそれは、光と同じ色、あるいは白の、体が透けて見える衣服をまとい、プラチナ色に輝く長い髪と、蒼く濡れた瞳を持ち、その背中には蝶の様な羽根がついていた。
「妖…精…?」
思わずミラールは口に出して呟いた。
「そうです、妖精です。この辺りでは『舞い翔ぶ者』と呼ばれていますけど」
横からイグロウが囁くように説明した。
その時、ミラールの目の前にいた妖精が、か細い声を上げた。いや、どうやら唄のようである。その唄に呼応して、空き地の四方から、同じような声が唱和した。そして、森の中からいくつかの薄緑の光が飛び出して来た。それらは、空き地の真ん中の、木の実の輪の上にゆるやかにたゆとうた。
それらは全て妖精であった。男もいれば、女もいる。だが、光と背中の羽根は共通していた。
四人ほどの妖精が、その輪の外に浮かんでいた。彼らの手にはそれぞれ笛・太鼓・ハープ・鈴が持たれていた。楽隊が演奏を始めると、輪になった妖精達は唄を歌いながらダンスを始めた。その唄と音楽は、春の小川のせせらぎの様であり、また秋の虫の声の様であった。そのダンスは、蝶が花々を翔び渡る様であり、また落ち葉が風に舞っている様でもあった。
まるでそのダンスを見ようとするかの様に、月の右側に光が戻って来た。イリスの蒼い光が、妖精のダンスを幻想的に照らし出した。
おとぎ話の世界が、ミラール達の目前で展開していた。辺境に生まれ育った兵隊達も初めて目の当たりに見たのだろう、驚きと感動がないまぜになった表情で、そのダンスを見つめた。
知らず、ミラールの瞳に涙があふれた。圧倒的な感動の波が、ミラールの胸に打ち寄せた。
そんなミラールを見た一人の妖精が、ついと彼女の側まで翔んで来ると、その肩にちょこんと座った。長い髪と愛くるしい顔の少女の様な妖精は、ミラールの頬におずおずと手を伸ばすと、その涙をぬぐった。何か、ミラールには解らない言葉で囁いた。
「『泣いてはいけない』そう言ってます」
イグロウが、妖精の言葉を訳した。
「司祭様、妖精の言葉が解るんですか?」
ミラールは目を丸くした。
「一応。妖精の言葉は、太古の神聖語ですから。司祭になるには、神聖語を勉強しなければいけないんですよ」
イグロウが笑って答えた。その時、また妖精が囁いた。
「今度は何て?」
ミラールの問いに、イグロウは一寸沈黙して、頭の中で整理してから口を開いた。
「『哀しみに溺るるは心に陰を創る源なり。哀しみ、怒りは心の陰にして、陰を捨つるを肝要とす』と言ったようです。上手く訳せませんでしたが」
「私には」ミラールは弱々しく微笑んだ。「哀しみも怒りも、捨てられそうもありません。生まれつき情がこわいものですから」
「いやいや、喜怒哀楽は人の心を動かす原動力ですよ。我々は、魂を持たない妖精とは違いますからね。心の働きを捨てようったって、そうは行きませんよ。そんな無駄な事はする必要はありません」
「また、司祭様がそんな事を言う」
「いや、本当の事ですよ。喜びも楽しみも無ければ、人は生きてはいけません。そして、哀しみや怒りは、喜び楽しみをより強く味わう為の材料にすぎません。喜びがあるからこそ哀しみはより深く、哀しみが深いほど喜びは大きいのですよ。喜びも哀しみも、反対の感情を増幅させる手段なのです。手段そのものに囚われず、結果に目を向けるべきです。哀しみを知った者だけが出来る成長をした、と受け止める事です」
その言葉に、ミラールはイグロウの顔をまじまじと見た。その視線に気付いたイグロウは、照れ隠しに顔をほころばせた。
「ま、私は、都で隊長の身に何が起こったかを知りたいとは特に思いません。ただ…」
「ただ?ただ、何です?」
不意に言葉を切ったイグロウに、ミラールは尋ねた。
「ただ」ちょっと長めの間を置いて、イグロウは再び口を開いた。「ここは辺境です。時の流れは私達人間の手の中にまだあるのですから、その時間を存分に使って、心を癒して下さい」
イグロウはそう言い終えて、照れ臭そうに額を太い指で掻いた。
暫くの沈黙の後、ミラールはゆっくりと口を開いた。
「司祭様、ありがとう。お陰で心の整理がつきました」
そしてイグロウに笑顔で頷いた。それは、彼女が辺境に来て初めて見せた、彩やかな輝くような笑顔であった。
「隊長!」
ロペルに声を掛けられて、ミラールとイグロウは声の方を見た。兵隊達は、ブランデーを片手に妖精と共にダンスの輪を作っていた。
「一緒に踊りまい」
トールや他の兵隊達も口を揃える。
ミラールは、まだ彼女の肩に腰を掛けている妖精に目を向けた。彼女は笑って頷いた。
ミラールは踊りの輪の中に文字通り踊り込んで行った。
いつしかイリスの蒼白い面は、その全体を再び宙に現していた。水底の様な静けさの中、ミラールや他の兵隊達の笑い声がいつまでも楽しげに聞こえていた。
おわり
1991年11月30日了
2017年1月24日改訂




