仕掛け
京極夏彦の『ヒトごろし』、斜め読みというか、走り読みで、読み終わりました。それでも三日掛かりました。もう早く続きは、次はと急かされる気分で、残り何ページ、いや何センチってはらはらしどおしでした。熟読するのはこれからで、またまたどれくらい時間が掛かるのかしら。
大沢在昌、京極夏彦、宮部みゆきの共通公式ホームページの『大極宮』で『山形小説家・ライター講座』で京極夏彦が講師をした記事が載せられました。詳しいことはいずれピクシブ文芸さんの『山形小説家・ライター講座』に掲載されると思います。
司会役の黒木あるじや京極夏彦が引き連れてきた複数の編集者はほとんど発言無しでした。黒木あるじは司会としてあれこれ進行を考えてきたのに、使う必要が無かったと言うくらい、京極夏彦は二時間ほとんど一人で喋りっぱなし。この講座は、参加者の中からテキストとして、作品を何作か出して、寸評とともに、こう書けばいいとか、長所はこうだから伸ばしてみてとの話の後、休憩が入って、フリートークや質疑応答があるのですが、それが今回ありませんでした。
京極夏彦は自分のペースやスタイルを崩すのが嫌なのかな、とその時感じました。今の時点では、それにプラスして小説家京極夏彦の仮面を外さないでいようと決めているのか、と。
京極夏彦は、「プロットと粗筋は違いますよ、解りますか」と解説していました。粗筋は物語の短縮、プロットは物語の構造。だからプロットは簡単に説明できないし、多面的である、と。
所謂『作者から読者への挑戦』は、なにもミステリに限ったものではないのです。仕掛け、伏線、なんでも呼びようはありますが、意外と表面的であり、きちんと読み通さないと見えてこない何本もの糸で折りこまれている織物のようであり、強固な建物のようでもある何か。それを読みこなせるか。はっきりと言葉にして評論できなくても、気付いて楽しめるか。
京極夏彦の小説はドストエフスキーのそれと同様にポリフォニックです。わたしは評論家ではないし、両者の良き読者でもないので、こんなふうにしか表現できません。主人公が行動している時、ほかの登場人物も世間も当然動いている、それが組み合わさっていって時間が経過し、いえ、別に時間が経過しようがしまいがいいのですが、絡まった中で物語が紡がれていきます。
これは自分の課題でもあります。語るのは主人公でも、語られるのは主人公だけであってはならず、薄っぺらい物語で満足していけない。
プロットとは何か、自分は小説で何を描き出したいのか、書き綴っていればお狐様が降りてくるのか、来ないのなら、冷静に、それとも神降ろしの巫女になったつもりで苦吟するのか、刃が付きつけられている気持ちになりました。




