すゑの松山浪越さじ
以前、NHK仙台に和田政宗というアナウンサーがいました。NHKは全国に転勤するので、所属先が仙台とは限らなかったでしょうが、まあ最終の勤務地が仙台だったので、お許しください。「いました」と過去形なのは、NHKを退職して、現在は参議院議員をしているからです。
夕方からのローカルニュース枠の中で、『政宗がゆく』なる地方の歴史小ネタを紹介するミニコーナーを担当していました。三日月の兜を被ってのオープニングがご愛敬。江戸時代、太平洋側沿岸を行く船が風や波で流され、異国船に救助されて帰国した漁師は宮城県にもいたんだよとか、そういった逸話を紹介していました。
震災後のコーナーで、「末の松山」が出てきていました。わたしは何故か「末の松山」を宮城県塩竃市にあるのだと思い込んでいましたが、宮城県多賀城市でした。「末の松山」は今でもある歌枕で、多賀城市のお寺さんの裏にあるそうです。東日本大震災の時、宝国寺の門前まで波が来ましたが、「末の松山」には到達しなかったとのお話でした。「末の松山」を目標にして避難した方へのインタビューもありました。
山と言われていますが、標高何メートルとかの高い山ではなく、テレビの映像でも、『歌枕とうほく紀行』(田口昌樹+無明舎出版編 無明舎出版)に掲載された写真を見ても、お寺さんの裏手の小高くなった場所にそびえる松の木です。
『歌枕とうほく紀行』によれば、「末の松山」と呼ばれる場所は多賀城市だけでなく、岩手県の一戸町の浪打峠にもあるそうです。
「阿古耶の松」が山形県山形市と宮城県の川崎町の両方にあるようなものでしょうか?
仙台市若林区霞目の浪分神社のように、ここまで波が来た、ここまでは来なかったと伝承される場所があるのは、古い地名の由来を知る上で重要なことなのだと、改めて思います。




