インド映画を観ました
先月、なにやらウチの上の子が仕事休みの日に、「今日が上映最終日」と仙台市内のシネマコンプレックスに映画を観に行きました。
帰ってきてから何を慌てて観に行ったのかと尋ねましたら、『バーフバリ 王の凱旋』の答え。
「いきなり前作のあらすじって始まって、パート2だった」
「はああ」
「一作目を観たいなぁ」
「ほほう」
そんな会話をしていたら、仙台市内の別のミニシアターで、二月から『バーフバリ 伝説誕生』と『バーフバリ 王の凱旋』を上映すると情報が入りました。二月四日の日曜日の上映に限り発声可能上映とかありまして、なに、そんなに盛り上がるの? と、長男にまた訊きました。
「そりゃ『バーフバリ! バーフバリ!』と掛け声を一斉に叫んだり、大地の怒りをと地面をドンドンしたりする場面があるから。なんかインドの神話を基にしてる話みたい」
単に歌って踊ってのアクションあーんどラブコメではなさそう。
大昔、『ラジュー、出世する』と『カーマスートラ』の二本のインド映画を(映画館ではなく、ビデオレンタルで)観ました。
『ラジュー、出世する』は『踊るマハラジャ』がヒットした頃、ビデオレンタル店で見付けた映画です。地方都市のエリート青年ラジューが都会に出て、働いて社長令嬢に才能を認められて大企業で頭角を現していくのですが、社内での陰謀に巻き込まれて……、という内容です。社長令嬢は単なるトロフィー的な位置づけではなく、社長の後継にも相応しい才色兼備の(エリザベス・テーラーをインド的にしたような女優さんでした)女性ですが、映画のメインヒロインは主人公の近所に住む可愛い女性。ラジューと近所に住む女性はすぐに相思相愛になりますが、社長令嬢もラジューに恋して、そして会社の重役の息子は欲も絡めて社長令嬢を射止めようと狙っています。
これを観た時は、「読める展開」とかビデオレンタル店のパッケージに付いていました。確かに展開は読めるんですが、そのお決まりのお話が面白かったですね。
その後何年かして『カーマスートラ』を観ました。タイトルはインドの性愛を説いた古典から採られていますし、その愛の技術がどうのこうのの場面は出ていますが、ハウツーもののポルノではなく、お子ちゃまは観られませんが、かなり正統派の古典恋愛ものでございました。
領主の娘タラとその乳母の姪マヤは一緒に育てられます。乳姉妹の二人は美しく成長していきますが、友情のほかに別の感情も育っていきます。乳姉妹とはいえ使用人と扱われるマヤはお姫様のタラのお古の服を恩賜される立場にもやもやしており、タラはマヤの美しさや華やかさと胸に潜む情熱や自尊心の高さに気付いて、穏やかに対せなくなっています。タラの兄は、日常生活や領主の務めに支障はないですが、背骨や四肢に障害があります。お兄さんは妹の乳姉妹のマヤを愛しています。タラは藩王の妃になると決まり、お城まで藩王が迎えに来て、婚礼の儀式が行われます。マヤはタラへの意趣返しに藩王と床を共にします。藩王が寝床にマヤを連れていくのをタラの兄に目撃されます。
そんなマヤなのに、お兄さんは自分の妻にしたいと願うのですが、マヤは断り、兄は領主としてマヤがタラを差し置いて藩王の相手をしたと知らしめて、マヤは城から追放されます。
マヤはさすらい、丁度房中術というか、「カーマスートラ」の秘術の塾を行っている女性の許に身を寄せます。そこで彫刻家の青年と恋に落ちます。ところが彫刻家の青年は「君がいると仕事に集中できない」と、別れを言われます。マヤは姿を現さなくなり、彫刻家は後悔しながら、マヤをモデルにした彫像を彫り上げます。
藩王は彫刻家が彫った彫像の見事さにモデルの女性を連れてこいと国中にお触れを出します。マヤは、「愛する人の心を得られないのなら、自分を試してみたい」と、藩王の許に行き、側室になります。
また、奇妙な形でタラとマヤは一緒に宮廷で暮らすのです。
「やはり君を愛している。君がいないと駄目だ」と、彫刻家の青年がマヤを宮廷まで追っ掛けてくるし、お兄ちゃんはお兄ちゃんで、「藩王は妃である妹を軽んじ、不品行です。私を侮辱しました」とよその国の藩王と通じようとします。
マヤの彫像を彫るようにと命じられた彫刻家の青年は、結局密通がバレて捕らえられます。マヤは愛する人を助けようとタラに「カーマスートラ」の秘術を伝授して、藩王の心を動かすように願います。
藩王の寝所にタラが現れ、「貴方の妻よ」と、迫ってみせるのですが、「マヤに教えてもらったのか?」の余計な一言でタラは付け爪で思いっ切り引っかきます。
「私を憎んでいるのか?」
「憎む? 憎むほどわたしは貴方を愛していません」
タラは妻になったからには夫の関心を得ようとする気持ちが消え失せて、それまでの苦悩とはおさらばできました。
マヤはマヤで彫刻家の青年を助けようと、自分で藩王に縋ろうと寝所に行きます。
「俺が欲しいのは体じゃない、心だ!」
今の今まで放蕩の限りとアヘンの常用をしてきた藩王が、この期に及んでこの台詞かい? しかし、藩王は怒りに任せて彫刻家の青年を死刑にすると決定します。
青年は象に踏ませる形での死刑、そんな時に、隣国が攻めてきます。城が落ちようとする混乱の中、マヤは「わたしは解放された」と歩いていきます。タラのお兄ちゃんがマヤに気付いたので、今後は保護を受けられるかも知れない可能性を示唆して、映画は終わります。
愛する男性の死で解放されたと感じる女性の心情は共感しました。あらゆるしがらみの中で、マヤにとってそれが一番大きな軛だったのですから。あとは野垂れ死にを恐れることなく、根無し草のように生きられるのです。
先日ビデオレンタル店に行って『バーフバリ 伝説誕生』がありましたので、借りてきました。ほかの作品も何作か借りたのですが、上の子がさっさと『バーフバリ』をデッキにセットしていました。
観ていて「バーフバリ!」と掛け声を掛けたくなるのが解るような作品でした。途中、シュワ○チ! あーれー! ありえねぇ! とつい声が出ちゃうというかなんというか。こうなると、『カーマスートラ』はインド映画としては異色だったのかしら?




