Lady Godiva
チョコレートやゴダイヴァ夫人の話ではありません。
元日の昼を過ぎてから山形の実家に行きました。翌日の昼間、初売りがどうと家電量販店に良人と二男が行ってみると言うので、わたしはわたしでお参りと散歩に出掛けてくると一人外出しました。両親たちはのんびりモードなのでどちらにも一緒に行くとは言いませんでした。
それで一人でてくてくと山形城跡――霞城公園の近くの最上義光歴史館の側を通って豊烈神社をお参りしました。
先にも別のエッセイでも紹介しましたが、山形の江戸時代初期の大名は最上氏で五十七万石でした。幕末は水野氏で五万石。江戸中期の秋元氏の頃には城を維持できなくて、大手門の東側、二の丸に別に屋敷を建てていましたし、武家屋敷として充てられていた土地に空きがあり、畠になったり、町人街が近かったりしていました。山形の霞ヶ城は天守閣のない平城でした。その城跡の霞城公園は、昔、野球場、体育館、テニスコート、市民プール、武道館、弓道場と冬のスポーツ以外のスポーツ施設、明治時代の県立病院を移築した郷土館(実相寺昭雄監督の映画『姑獲鳥の夏』の久遠寺病院の外観モデルになった建物)があり、そのほかに最上義光像のある広場、県立博物館、いくつかの公園としての広場やブランコや滑り台がある子ども用の遊戯場もありました。掘割の周りの土手は桜の名所です。
大学時代に城跡の発掘物の整理のアルバイトをしていた長男によると、山形城は広すぎるのだそうです。幼い頃から遊びに行ったり、見学したりと慣れ親しんだ場所なので、そんな風には少しも感じていませんでした。それに、宮城県の青葉城跡も岩出山城跡も充分広いです。しかし、長男は実際仕事で中を行ったり来たりしていて、移動距離が長いと感じることがあったのでしょう。旅行で他県の城跡を見学して、わたしが案外狭いと感じていると、長男はちょうどいいくらいの広さだと言っているので、家臣の一人として城内を歩き回るとしたら大きな城も考えものです。
二の丸の殿様のお屋敷のその近くであった場所に豊烈神社は位置しています。豊烈神社の祭神は水野忠元、水野忠邦、戊辰戦争犠牲者二十四柱、八坂大神、山の神、お稲荷様です。いわれを聞くと、どうも水野家が山形に国替えになった時に一緒に遷宮してきた家神様みたいです。
水野家は徳川家の譜代大名で、家康の生母於大の方の実家です。家康や秀忠を支えた当時の水野家の当主忠元が祀られているのですから、大きく間違ってはいないと思います。水野忠邦は天保の改革の失敗など幕政での失脚、浜松から山形への国替えとあって隠居して、嫡男の忠精が家督を継ぎました。忠精が水野氏で山形藩主一代目です。
元々唐津藩主だった忠邦は九州では海防の担当があるので国政に参加できないと知り、国替えを希望しました。石高が少ない浜松藩に転封されて、その後幕閣で老中になり、日本史の教科書の通りです。気候の暖かな唐津、浜松、江戸に比べたら山形は雪深く石高がますます少なくなると、政治家として失脚してやる気を失っているから忠邦としてもさっさと隠居したかったでしょう。
水野忠邦は、考え方や手段、結果はどうあれ、初心・志は立派だったと歴史の厳しさや皮肉を教える人物でもあります。そしてそういった人物は多い。
山形藩最後の藩主は水野忠邦の孫の忠弘です。忠邦が失脚したとはいえ、忠精も忠弘も譜代の重要な家臣として幕府で国政に係わり続けていて、京都や江戸に詰めていなくてはなりませんでした。また大政奉還から明治に移り変わる時は新政府から監視されていました。
山形では二十代半ばの国家老水野三郎右衛門 元宣が山形を護るために働きました。東北の藩同士で戦わねばならなくなり、諸藩に連絡をし、庄内藩との戦いでは戦う振りで留め、山形を戦火から守ろうと苦心しました。やがて奥羽越列藩同盟への加盟がありました。戊辰戦争後、新政府軍が戦争犯罪人の処罰を決定しました。藩主親子は無罪でした。しかし、水野三郎右衛門は斬首と決まりました。国家老なのに、切腹ではなく斬首です。現在最上義光歴史館のあるあたりが三郎右衛門の邸宅でした。
その邸宅から処刑場の七日町の長源寺まで連れていかれるのに、罪人の乗る竹籠のような籠に乗せられていくことになったそうです。
市井の人々は店を休業し、全ての扉・雨戸を締切り、山形を戦火から守った国家老の姿を見ないようにしました。
国家老の首を誰が斬るか。新政府で首切り役人を送ってこないので、水野藩の中から選ばなければなりませんでした。誰もが嫌がり、使い手と言われていた一人に押し付けられました。一刀では首が落とせなかったと伝わります。
大した腕ではなかったのかの声に、急に国家老の首をと言われて上手くいくものかと言った、後年別の時に罪人の首を刎ねるのに「これが首の斬り方だ」と一刀のもと斬り落としたとも伝わっています。
そしてまた、伝説。水野三郎右衛門の墓は罪人の墓所として土饅頭と石だけでした。しかし、或る夜に誰かが石材を持ち込み、あっという間に墓を組み立てていったというのです。それが現在長源寺に残る水野三郎右衛門とその家族の墓なのです。そして豊烈神社には水野三郎右衛門の像が立っています。
水野三郎右衛門の話をしてくれた亡き祖父の思い出とともに甦る郷里の歴史です。