故郷の空
単身で山形市の実家に行って、二泊して、帰ってきました。久々に良人も子どもたちも連れずに行ったので、親元で娘気分になってましたね。たまには許してもらえるでしょう。
母と連れだってぶらぶらと昔からの商店街を歩きました。大分様子が変わりました。後藤又兵衛旅館が取り壊されたのは知っていたのですが、古くからの商店が別の店になっていたり、取り壊されて更地になっていたりと、自分がいた頃の風景とがらりと変わってきています。(通りかかる度に横溝的な耽美やミステリを想像していた)木造三階建ての古い豪邸もありません。
市街地の整備計画が関わっているので、古い建物の耐震補強をするか、建て壊すか、保存するかとなると、仕方ないのかも知れません。
翌日、また一人で公園まで散歩に行き、最上義光歴史館に寄りました。発掘調査で発見された時代ごとの瓦と、城下の地図が展示されていました。やはり最上氏時代の地図と、水野氏時代の地図は違います。字が細かくて読み取れなかったのですが、最上氏時代は三の丸まで家臣団の名前がびっしりと書きこまれています。水野氏の地図では三の丸は東側に書き込みが色々ありましたが、周囲が空欄。空き地ではなくて、記載すべき家臣がいなかったのでしょう。(田畑もあったでしょうが、商人や職人が住んでいました。町名が残っていて、それで偲ばれます)
以前のエッセイで書いておりまして繰り返しになりますが、五十七万石と五万石では家臣の人数が違いますから、これも仕方ないのでしょう。三の丸の中に旅籠町があり、そこに後藤又兵衛旅館がありました。
明治になってから、陸奥宗光が山形刑務所に収監され、当時の山形刑務所は三の丸、現在の中央公園や最上義光歴史館あたりの場所でした。近くの後藤又兵衛旅館の主が陸奥の世話をしたとか、陸奥の知り合いだか、妻だかが泊りに来たとか聞いたことがあります。地元の人間でしたから、老舗の旅館と聞くだけで、中に入ったことはありませんでした。江戸時代から続く旅館と、知っている人は知っていたようですね。近すぎて何も知らないままだったと、喪われてから気付く類のものです。
実家の周囲も変わっています。建築物で日々のうつろいか知れます。
雪が降って寒い冬の空でございました。




