『最後の誘惑』
マーティン・スコセッシ監督の映画の『沈黙――サイレンス――』で、同監督の作品『最後の誘惑』を学生時代に観たのを思い出しての文章です。今と違って、学生の頃は映画や本についてきっちりノートに書きつけていたので、埃まみれのノートを出してきて読み返しました。
宗教はあらゆる思想・信念の中でも難しい問題があります。神は神聖であり、唯一無二の存在であると信仰のある人々に、信仰の対象を一個の人間として描けば、冒瀆であると捉える可能性が出てきます。
わたしはキリスト教徒ではないのですが、キリスト教の信仰を持つ人を身近に知っていましたので、信仰はなくても、キリストを尊び、敬い祈る気持ちを多少なりとも知っています。
ですが、そこは多神教で、自然や祖先を信仰対象とする日本人です。唯一無二の絶対的な一神教を完全に理解しているとは言えないでしょう。
『最後の誘惑』で、わたしが観たイエスは運命に泣き、悩む人間でした。ナザレの大工の青年は神の声を聞き、神から自分に従い教えを説けと言われているのに苦しんでいました。その苦しみを神に示そうと、ローマ人の法の裁きに従って、ローマに叛逆するユダヤ人を磔にする十字架を作っていました。ユダヤを裏切る行為と、人から恨まれ、刺客のユダから狙われています。
イエスはユダに万人、万物に憐みを感じる、人々に愛を説きたいと伝えます。
マグダラのマリアとは古くからの知り合いでお互いの好き合っているのに、神の声の為に結婚せず、マグダラのマリアは娼婦になっています。
安息日に客を取ったと、マグダラのマリアは石打ちの刑にされそうになるところにイエスは行き合わせます。
「まず罪のない者から石を投げなさい」
マグダラのマリアは救出されました。しかし、イエスが愛を説いてもなかなか理解されません。それでも弟子は出てきましたし、ユダはイエスに心酔していきます。
洗礼者ヨハネから洗礼をうけ、イエスは沙漠で断食の荒行をします。天使を装う炎の姿をした悪魔が出てきて誘惑します。悪魔を退けますが、悪魔は「また会おう」と消えていきました。
沙漠での行を終え、イエスはカナの婚礼やラザロの復活の奇跡を行います。
ですが、イエスは自分の運命を神に伝えられます。
「私は死ななければならない。十字架に掛けられて死ぬ」
「愛を説き、斧を持てと言い、今度は死ぬという。何故主張が変わるのだ」
ユダの問にイエスは答えます。
「神は少しずつしか示してくれない。全部教えてくれないんだ」
神の声を聞きたいのはユダの方なのに。そしてイエスはユダに密告を頼みます。最後の晩餐の後、ユダはローマ兵を連れてきました。イエスとユダの別れのキス。
D・ボウイ演じるピラトとの白々しい会話の後、イエスは磔刑にされます。
「我が父よ、我が父よ、何故私をお見捨てになる!」
一瞬音が無くなります。
イエスの側に一人の(みそっ歯の)美少女がいます。
「わたしはあなたの守護天使。あなたを救いに来たの。神はあなたをお試しになったのよ」
そういって美少女はイエスを十字架から下ろします。
「あなたは神の試練を見事に果たしました。これからはあなたの為に生きるのです」
そうしてイエスはマグダラのマリアと結婚します。ここから先が、物議をかもした場面です。マグダラのマリアは子を宿しますが、出産前に亡くなり、悲しむイエスに美少女はベタニアのマリアとの結婚を仲立ちします。
イエスは普通の男として家族を持ち、年老いていきます。
聖パウロと思しき男性がイエス・キリストの教えを説いている姿を見ます。
「私がイエスだ、私はそんな教えを説いていない」
相手は怯みませんでした。
「私のイエスはあんたより偉大だ」
やがてペテロとユダがイエスの前に現れて、イエスを詰ります。
「裏切り者だ」
「神は私を試されたのだ。私は天使に救われてここで生きている」
「こいつは悪魔だ」
そうすると天使を名乗っていた美少女は炎に姿を変えて消えていきます。
「また会うって言っただろう」
イエスは誘惑に乗ってしまったのか。
「神よ、父よ、もう一度戻してください。私はあなたの息子になります」
一瞬。
イエスは十字架に掛けられている自分に気付きます。
「これで成就できる。成就できる」
満足げにイエスは微笑みながら、死んでいきました。
イエスが神の教えを説き始めた時は誰からも相手にされず、「長いこと嫁さんをもらわず一人でいるからおかしくなった」だの言われていました。愛を言えば、愛の意味をわざと取り違えた男性たちからからかわれ、気の毒なくらいでした。
生母のマリアは、紫外線や乾燥の強い地域に長年暮らしていたおばちゃんといった感じで出ていました。イエスは母に済まないと感じつつも、「私にとっての家族とは信仰を同じくする人たちのことである」と無視するような態度を取っていました。肉親だから特別扱いしないよ、信仰が大事なんだということを言動で示しています。それでも生母のマリア、マグダラのマリア、ベタニアのマリラとマリアの姉妹は女弟子として最後までついていきました。
神に選ばれる苦悩を、時に負けそうになる弱さを見せつつ、折れない信仰の強さを見せてくださったイエスの映画。決して冒瀆ではなく、イエスの苦しみながらも前進しようとする姿を描いたのだと感想を抱いています。
『最後の誘惑』は『沈黙――サイレンス――』同様、原作となる小説が存在しています。
自分のノートのほかに、『百禁書』(ニコラス・J,・キャロライズ マーガレット・ボールド ドーン・B・ソーヴァ 著 ケン・ワチェスバーガー編 藤井留美 野坂史枝訳 青山出版)を一部参考にしました。
「政治的理由」、「宗教的理由」、「性的理由」、「社会的理由」によって弾圧された作品を二十五ずつ紹介しています。ほかの宗教的理由で弾圧された作品の紹介の中で、「信仰のないところに、冒瀆はない」と説明されていました。
信仰のないほかの宗教をいくら捻って解釈しても、カリカチュアして描いても、表現している側は冒瀆と感じないでしょう。しかし、信仰している側が冒瀆と感じたら、どう対処するのか、これは難しい問題でしょう。汚れなく、神聖な存在が異教徒に冒瀆されたと感じた時の怒り、これは測り難い。そして信仰を持ちながら、既存の在り方に疑問を呈する形で戯画を示す表現者もいるでしょう。
思想と信念は自由です。冒瀆されたと感じた方に対しても、それは同じです。
恫喝や暴力で返されないよう、向き合わなければならないとしか、わたしには言えません。
『悪魔の詩』を日本語に翻訳した学者さんが勤務先の大学構内で殺害されたのが平成三年で、時効どころか四半世紀経過していたのかと、時の流れの早さに驚きました。