『ホルケウ英雄伝』とケセン語のイエスの言葉
文春新書から山浦玄嗣の『イエスの言葉 ケセン語訳』が出ています。この方はお医者さんです。岩手県の大船渡市で開業なさっています。この方はお住いの気仙地方の方言で聖書を翻訳する作業をなさいました。(気仙沼市が宮城県で、気仙郡住田町が岩手県です。初代復興大臣が、東北の地名が解りにくいと岩手県知事に言って、批判されてましたなあ)
四大福音書を訳した『ガリラヤのイェシュー』はほかの聖書よりは読みやすいですが、キリスト者ではないわたしにはまだ全部読み通せていません。だからという訳ではありませんが、文春新書の『イエスの言葉 ケセン語訳』を読みました。
所々、チクリと来る部分があります。それは皮肉もあるかも知れませんが、作者が高みから全体を見通す視点を持ち、卑小な現代人のありのままを描き出しているのではと考えさせられる面もありました。そして人間は卑小であっても、大きく尊い心を持つことも可能であると、信仰に基づいて説いているのです。
『ナツェラットの男』は斜め読み程度で、熟読していません。しかし、この方は自分の思想だけでなく、想像した場面をも文章で綴れる人なのだと、改めて見直すことになりました。
最近KADOKAWAで、山浦玄嗣の『ホルケウ英雄伝 この国のいと小さき者』が出版されました。図書館で借りて読みました。初めから終わりまで、エミシの視点で描かれています。
巻頭に三陸の地図が載せられています。ピタカムイ大河が北上川、トヨマナイが登米、クリパルが栗原、ポロノシラトゥイが松島、ウォーシカが牡鹿だなとだいたいの舞台が解ります。ミヤンキが宮城(仙台平野あたり)でそこにある大和の鎮所は多賀城か、仙台市太白区の郡山のどっちかあたりかな、どうかなとページを捲っていきます。
古代音韻か、アイヌ語源か、そこらへんわたしは半可通の人間です。は行やた行、さ行の発音が現代と違っているところを上手く人名・地名に使って、ファンタジーの雰囲気を漂わせています。
ケセから見聞を広める為の旅に出た青年が歌を歌います。そこへ、大和から来た按察使にエミシから出挙の利子代わりに女奴隷として差し出される女性たちと役人と出会い、青年は、歌を歌った一人の女性と恋に落ちます。
ここから思いもよらない大冒険が始まります。
大和に従うエミシ、抗うエミシ、そして大和に服属した坂東の民、入り乱れ、そしてユーカラが落ち込む心を鼓舞しながら、物語は進んでいきます。
クリパルの長のウソミナは按察使の上毛野 朝臣 広人に語ります。
「我々はすべて神々の国 (カムイモシリ)から遣わされて、母の胎に宿るのですから、互いに対等です。人は分類できるものではありません。氏も姓もありません」
「野蛮だ。家系も君臣の別もないのか。帝に仕え、氏姓を賜るように」
と言う按察使にウソミナは言い返します。
「帝の氏はどのような。氏姓とは支配する為の区別でしょう」
また、主人公の青年は弓で鴨を射留めて、獲物に膝を付き拝礼をして感謝の歌を歌う。通りがかりの老人が、今どきの若い者にしては感心だと青年を褒めます。今どきの若い奴らは「エタリヤ」なんて言うんだ、恵みを与えてくれた神や自然に対しての感謝がないと嘆きます。「獲ったどー!」はよろしくないようです。
さて、エミシの叛乱があって史実通り上毛野朝臣広人は命を落とします。物語はここで終わり。エミシと大和朝廷との戦い、もしくは交渉や懐柔、そして他地域からの入植は、歴史の上ではまだまだ続いていきます。
それを知っている者としては、あれ? となります。青年の恋は本の中で一つの完結の形になっていますが、大叙事詩として続編の予定があるのかしら?
一つの冒険を読み終わっての満足と、続きの微かな期待を以て本を閉じました。
来るなを古語で、「ナァコソ」。エミシが大和の言葉を覚えて、アゼティにエミシのヒロインが言っていました。勿来。東北には誰にとって「来るな」なのかよく解らない地名として残っています。
ヤマトの帝の名前が諱を使って、アペー女帝、ピータカ女帝と呼ばれているのは作者の工夫で面白いのですが、果たしてエミシへ帝の諱を教えるものなのか、これは疑問でした。




