フェルディナント・フォン・シーラッハの『テロ』
フェルディナント・フォン・シーラッハの『テロ』の内容に触れます。
フェルディナント・フォン・シーラッハの『テロ』は実に難しい問題を含んだ作品です。筋立ては簡単です。ドイツで旅客機がアル・カイーダ系のテログループにハイジャックされました。旅客機にはテロリストを除く乗客乗員164人が乗っていました。テロリストは7万人の観客が詰め掛けるサッカースタジアムにこの旅客機を墜落させる自爆テロを敢行するとメッセージを送ってきました。この旅客機に(状況確認や警告を発信する為)併行して飛行していた空軍機の少佐は旅客機を撃墜しました。空軍少佐は裁判にかけられます。果たして、少佐は有罪か、無罪か。
この粗筋だけで、どう思いますか?
新聞の書評欄でこの本について読んだ時は、少佐に罪の責任を問うのは重すぎる、無罪か、何か情状酌量した形の有罪なのではと感じました。
しかし、細部に神が宿ります。実際読んでみると、とても無罪とは言えない、何らかの責任を問うのが当然であろうと考えが変わりました。
法的に、緊急避難は認められていますが、これは当てはまるとはいえないのでしょうか?
9.11の後、ドイツで航空安全法が施行され、その中にはハイジャックなどで最悪の事態が予想される場合には旅客機を撃墜するのもやむなしの内容があったそうです。しかし、その条文は公布から一年後に連邦憲法裁判所は違憲だと判断されました。無辜の人々の生命の軽重は量れないからです。
検察側は言います。空軍は併走する空軍機に、ハイジャック機を撃墜してはいけないと命令していました。テロリストたちが声明を発してから撃墜されるまで約50分ありました、国際親善試合と盛り上がっていたとはいえ何故緊急事態だから試合を中止させて、観客を避難させなかったのか、すぐに決断していればテロリストが旅客機を墜落させるまでに避難を完了させられたはずだ、本当は空軍少佐がハイジャック機を撃墜するのを期待していたのでしょう。
弁護側は言います。空軍少佐は常に国民を守る為の行動を考えています。少佐はこの時、スタジアムの7万人の観客を守る為にはハイジャック機を撃墜しかないと判断したのです。同じ無辜の市民ですが、この決断を批難できますか。
検察側は、証拠品のブラックボックスによると乗客が旅客機のコックピットに侵入しようとしていたと述べますし、証人は――これは旅客機に乗っていた乗客の妻なのです――配偶者からのメールで、コックピットに乗りこもうとしている、大丈夫だと送信されてきていたと説明します。
検察側は少佐に尋ねます。もしあなたの家族が旅客機に乗っていたら、ミサイルを発射できましたか。少佐は答えられません、どう答えても嘘になると告げました。
審議の内容の後のページには、有罪と無罪の両方の判決が載せられています。つまりは読み手に結末は委ねられているのです。
人が人を裁くのはなんと難しいのでしょう。それでも罪の量刑を決めないまま放置すれば、現代社会の秩序や人権、私的財産が侵されます。
法律は人権と私的財産の保護と公権力の監視が必要と古代ローマからその精神が生まれました。
法律という枠組みとは別に宗教があります。ローマ法より後に生まれたキリスト教の聖書では、「人を裁いてはならない」とあります。
復讐は神の怒りに任せよ、自分の物差し、善悪の判断で人を裁けば、また自分も自分の物差しで行動の善悪を裁かれると、私的制裁・リンチの禁止を説いています。
神の裁きを待っていられないから、また原始的に占いでお湯に手を突っ込んだり、焼け火箸を掴んだり、火の上を歩いたり、決闘したりして白黒を決められないから、世の中の取り決めとして各種法律とそれによる保護があるのです。
シーラッハはドイツの法曹界の出身の作家です。心証真っ黒でも黙秘をされたらそれ以上問えなかった経験があったのでしょう。(そういう作品も書かれています)止むに止まれぬ事情を抱える者、無知ゆえの犯してしまった過失の量刑を求刑しなければならなかった経験があったのでしょう。
人を赦し、穏やかな心持ちで過せないものかといつも思います。どうして感情任せの言動を取ってしまうのか、そして勝手な思い込みで、また善意のつもりでも他人様の心を傷付けてしまうのか。
意思の表明は常に自他を傷付ける可能性を潜ませています。
世の中の善意、常識、法律だけでは成り立たない、情の部分はいつも算数のようにはいきません。




