『沈黙』
二月中は家族の仕事面でのサポートを含めてプライベート面で忙しく、今月も年度末の家族の仕事のサポートや諸手続きでせわしく過しています。
それでようやく一息ついてはっと気づいたのが、マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙――サイレンス――』を観そびれたこと。いや、片道約一時間越えの仙台市内ミニシアターではまだ上映中なのですが、割と交通の便のいいシネマコンプレックスではもう終了しています。ミニシアターもぼやぼやしていると上映終了してしまいます。
ああ、アカデミー賞で何か賞を獲得していれば、凱旋上映と銘打ってシネコンでまた上映してくれたかも知れないのに、と呟きつつ、ひとさまにはどうでもいいことで考え込んでいます。
遠藤周作の『沈黙』自体は十代の頃に何回か読んでいます。信仰と、その信仰を捨てよと執拗に迫ってくる現実の中で、神は見守っていてくださるのだろうかとの揺らぎと、人の心の弱さとそれでも捨てきれない何か。
初めて読んだ年齢の時には難しかったけれども、読み返した時や、いまこうやって内容を反芻していて、信仰のあり方に深く考えされられています。
新聞記事で、スコセッシ監督は以前キリスト教を題材にした作品に『最後の誘惑』があると載っていました。
あ、なんだ、あの作品の監督でもあるんだ、観た観た、とそちらの作品を思い出しました。当時アメリカ合衆国でかなりの物議を醸し、上映館に抗議の放火まであったとかいう問題作。イエス・キリストとユダの関係や、マグダラのマリアを含めての女性との関わり方がよろしくない、いや、神格化された姿ではなく、人としての苦悩を描いていると話題になっていました。
今回は日本でキリスト教が迫害されていた歴史を描いたのですが、様々な意味で、アカデミー賞の話題はほかの面に向いていたのでしょう。日本で期待されていただけだったみたいです。
どうしたものでしょう。映画『沈黙――サイレンス――』は娯楽作品ではありません。気を強く持って心して観なければならない、メッセージ性の強い過酷な内容の作品。さて、姑を放っておいて(字幕やマンガの映画は観にいかないと言っているし、内容的に嫌がりそうだから)、往復に時間を掛けて映画館に行くべきか、自宅でまた原作小説を読むに留めておくべきか。悩ましいです。