物言えば唇寒し秋の風って松尾芭蕉?
成長期の或る時、「尋ねられたら、曖昧に言葉を濁すのではなく、はっきりと返答すること。そうしないと相手にも迷惑である」と教えられました。その後、お出掛けの誘いか何かよく覚えていないのですが、何か言われて、はっきりと「嫌だ」と返答したことがありました。
そうしたら、言い返されました。
「女の子がそんな刺々しい言い方をするものじゃない」
曖昧な態度は良くないけれど、はっきり断るのも良くないのか、同一人物からの矛盾する言葉に大いに戸惑いました。
今になれば、わたしがあなたの期待と違う答えを言ったからって不機嫌にならないで欲しいと言い返せたかも知れません。
言葉の遣り取りは、幾つになっても、どこでも、難しいです。
わたしの持っている辞書は、三省堂の『新明解国語辞典』(第四版)です。
「ひひょう【批評】」にあるのは、「物事の良い点・悪い点などを取り上げて、そのものの価値を論じること。また、そのもの。」とあります。
「ひはん【批判】」は、「物事のいい点については正当に評価・顕彰する一方、成立の基盤に関する欠陥については徹底的に指摘・検討し、本来どうあるべきか論じること。」です。
「ちゅうこく【忠告】」は心から相手のことを思い、早く悪い所を治す・(危険なことはしない)ようにと、個人的な立場から言い聞かせること。また、その言葉。」です。
「かんそう【感想】」は、「ある事柄について感じた事(が発表出来る程度にまとまったもの)。」。
「ぶじょく【侮辱】は、「相手を・見下し(ばかにし)て、ひどい扱いをすること。」とあります。
「ひぼう【誹謗】」は「他人の悪口を言うこと。」。
「ちゅうしょう【中傷】」は「根拠のない悪口などを言って、他人の名誉を傷つけること。」。
ついでに調べると、「わるくち【悪口】」は、「他人の言行に対し、マイナスの批評をくだす・こと(言葉)。」とあります。(じゃあ悪い点についての批評をしたら悪口になるのかな?)
どうしてつらつらと抜き出してみたかというと、言葉は生き物であると改めて考えなおしてみたいからです。
ここのサイトの感想欄で、感想というより、批評になってしまう場合があります。的外れなこともありましょうし、当の作者さんには一寸の興味もない、どうしてわたしがこのような考えに至ったかなんて身の上話付きで、うんざりさせてしまったこともあったでしょう。そのような意図は全くないのですが、悪く言っている、誹謗していると感じ取られた方もいらっしゃるでしょう。
面白い、良作と思った作品にだけポイントを付ける、感想を送るものだと言われればその通りです。発言者がどう思って言ったか、書いたかではなくて、受け止める側がどう感じたかが重要と意見をいただいた経験があります。受け止めた側が傷付いたのなら、謝罪し、誤りを正さなくてはならないでしょう。(もう関わりたくないから返信を寄越すなと明言されていたり、ユーザーブロックとか、ミュートされていたらどうしようもないんですが)
プロの評論家でもないのに、素人が批評なんてするなという人もいるでしょう。
その論理で行くと、「総理大臣の経験がないのに、総理大臣の重責も知らずに政治批判をするなになってしまうじゃないか」ということを、哲学者の内田樹がブログで書いていました。これは極論で一概に肯けるものではありません。
自分の作品で、「展開に必然性を感じない」、「いささか雑」、「誤用がある」など感想をいただいたことがあります。きちんとした批評なら一時的に落ち込みはしても、物語の組み立て方や文章の工夫など、改めて考えなおす機会と捉えます。それでも自分と同じようには感じず、悪く言われた、傷付いたと受け止める方がいるのだと、感受性は千差万別と恥じる経験は多いです。
「物言えば唇寒し秋の風」、松尾芭蕉の言葉らしいけれど、言葉は文字通り、木の葉のようにひらひらと飛び去って行きますが、聞いた人の記憶に残ります。文字も書き記した人の手を離れていきます。廃棄、削除したつもりでも、目にした人の記憶に残ります。現代は容易に複製できます。
思想・言論の自由は守らなければなりませんし、権利を守る為の不断の努力や公権力への監視だって怠れません。
権利を濫用していないか、幼稚な対応をしてはいないか、それだけは省みなくてはならないでしょう。