フェルディナント・フォン・シーラッハの『カールの降誕祭』と『刑罰』
五月頃からしばらく執筆を休んでいました。熱を出したりなんだりかんだり、精神的にも上向かず、文章を綴る気にならないでいました。筆を執る気にならなくても本は読もうと、自宅の積読、史料になる本を読んでいましたが、気分転換にと、図書館にも行って、目に留まった本を借りて、読んでいました。
それから、去年映画で観て以来、クイーン熱がまた出てきて、音楽を聞くだけじゃなくて関連本を探して、一部購入した本もありますが、全部揃えるには場所もお金もないし、もし熱が冷めたら困るじゃないのと図書館のレファレンスサービスを利用して、地元以外の図書館の所蔵本を取り寄せてもらって読んでいました。
フェルディナント・フォン・シーラッハの新刊もあったはず、と海外文学の棚に行って、新刊の『刑罰』と、少し前に購入したらしい『カールの降誕祭』を見付けて借りました。(どちらも東京創元社、酒寄進一訳)
相変わらず、淡々として、心理描写の極端に少ない小説です。しかし、事実を積み上げていく筆致は、読者に自然と行間を読ませるようにできています。
『刑罰』の中の一節『青く晴れた日』は怖い。我が子である乳児を虐待し、脳挫傷で死なせたと逮捕された女性は裁判で三年半の禁固刑の判決が出ました。女性は刑務所で真面目に木工加工などの作業をし、刑期を終えて出所します。夫には出所を知らせる手紙を出していましたが、夫は出迎えには来ていませんでした。
子どもを死なせた妻だから?
いいえ。
女性は家に着きました。夫へ出した手紙は放り出されたまま、ビール瓶の跡が付いていました。
夫は刑務所に面会に来ませんでした。女性が三十分ばかり買い物に出掛けていた間に、留守番していた夫は赤ん坊を死なせていました。手が滑った、前科があるから今度捕まったら終身刑になる、お前が罪を背負えばいい、女性はそれを信じました。
しかし、検死の結果、赤ん坊は四回も壁に頭を打ち付けられていたと聞かされました。
夫は女性が刑務所でどう過してきたか、やっと家に帰ってきてどんな気持ちでいるか、全く関心がないよう。
出所に対するねぎらいや、感謝も無く、テレビアンテナの調子が悪いとベランダに椅子を出し、その上に乗って、不安定な恰好で修理さえ始めます。
女性は果たして……。
ラブドールに名前を付けてまるで恋人か配偶者のように扱っている男性の巻き起こした一騒動を描いた『リュディア』。女性の検察官と裁判長は精神鑑定の結果を聞いて、納得したのかしないのか、異常であっても危険はない性的嗜好、フェティシズムと説明に沿って審判しなくてはならないのです。
何が人を良くない行動に駆り立てていくのか、それに見合う罰とは何か。それがシーラッハの作品に通ずるテーマでもあります。
真面目にこつこつと働いてきた人が定年退職して生き甲斐を失ったと感じたり、新進気鋭の女性弁護士が弁護すべき容疑者(男性)を弁護できないと限界を感じたり(非人道的な容疑もさることながら心証真っ黒なんです)、魔が差すとしか表現しようのない一瞬、或いは人間の無力さを実感して沈み込む。
『カールの降誕祭』、キリスト教圏では、日本でいうお盆や年末年始みたいな時期、会いたくもない疎遠な家族や親類縁者と顔を合わせて、和やかにしていなければならないクリスマス。そこで昔から変わらぬ独善的というか、カールから見たら時代錯誤な偏見ばかりの母親、読者は綴られている出来事からカールは彼の女から抑圧ばかり受けてきたと感じています。どうにも良くないアクシデントも重なって……。
それぞれの作品は神の視点ともいうべき三人称か、時に作者を思わせる「私」によって語られていきます。
後味の悪い作品、人間の心理の不思議さ、複雑さを見せる作品、光明を感じさせる作品。多くを語りませんが、多くを想像させる本です。