『パンが無ければブリオーシュを』的な話
陳舜臣の『小説十八史略』(講談社文庫)を読んでいて、三国志の部分が終わり、曹氏から司馬氏、魏から西晋と移り変わって、西晋の恵帝に関して、こんな件が出てきます。
『新しい皇帝――恵帝は、父の武帝以上の暗君であった。凶作のとし、穀物がすくなくて貧乏人が食べられないときいて、
――それなら貧乏人は肉を食え。
と言った人物である。』
この逸話はほかの本でも目にしたことかあるので、陳舜臣の創作ではなく史書に載せられているのでしょう。西晋は乱れに乱れて終わった王朝なので、悪く書かれている可能性大ですが、上つ方は下々の暮らしを知らないので、こんな発言をする人もいると、洋の東西を問わず、出てくるものなのでしょう。
音楽の授業で、『夏は来ぬ』を習った記憶のある方は多いと思います。春の盛りから初夏の訪れを、卯の花が咲き、時鳥が鳴き、田植えをする風景の歌詞で描いています。
『枕草子』に『賀茂へ詣づる道に』と題された段があります。
『賀茂へ詣づる道に、女どもの、あたらしき折敷のやうなる物を笠に着て、いとおほく立てりて、歌をうたひ、起き伏すやうに見えて、ただ何すともなく、うしろざまに行くは、いかなるにかあらむ、をかしと見るほどに、郭公をいとなめくうたふ声ぞ心憂き。「郭公よ。おれよ。かやつよ。おれ鳴きてぞ、われは田に立つ」とうたふに、聞きも果てず。いかなりし人か、「いたく鳴きてぞ」と言ひけむ。仲忠が童生ひ言ひおとす人と、「鶯には郭公はおとれる」と言ふ人こそ、いとつらうにくけれ。鶯は夜鳴かぬ、いとわろし。すべて夜鳴くものはめでたし。
ちともそはめでたからぬ。』
引用は手持ちの小学館、「日本古典文学全集」の『枕草子』からです。これは筆者の清少納言が賀茂神社に詣でる時に田植えを目にしての感想です。
清少納言、田植えの風景を初めて見たのでしょうね。女性たちが沢山いて、起きたり伏したりしながら後ずさっていって、歌を歌っている姿がなんだろうと、興味深く眺めています。そして、女性たちが歌う歌に「心憂き」と言っています。聞いていられない、と。
「ほととぎすよ。おのれ、お前、お前が鳴くから、わたしたちは田に立つのだ」
田植えや、それまでに至る農作業の労苦を、たまたまほととぎすが鳴く頃と重なるので、八つ当たりのように、お前が鳴くから、田植えをしなくちゃならないよと、田植え唄にしているようです。
仲忠は当時の物語の中の登場人物なので気にしないでください。物語上の贔屓の人物と、「鶯よりほととぎすは劣る」と言う人は憎たらしいと、清少納言の美意識なのです。
あんた、毎日自分が何を食べて生きているか知らないのと言ったって、清少納言は一応貴族です。屋外での肉体労働とは無縁で暮らす女性でした。
早乙女たちの歌が理解できず、何の為に田植えをしているのかよく解らないけれど、春から初夏の鳥の鳴き声は、鶯よりもほととぎすが素晴らしいの、その情趣を解らずに罵るなんて酷い人たち、というのが清少納言の主張なのです。
別の段で、『八月のつごもりに、太秦に詣づとて』では、稲刈りの様子を見ています。ここでは、女性がおらず、男性たちが刃物で稲を刈っているのを「いとをかしう見ゆ。」とあります。田植えがあって稲刈りがあると、ここでは理解しているようです。どちらも重労働なのですが、稲刈りを簡単そうに感じているあたりが、お貴族サマなのです。
毎日食べるご飯、髪を手入れするのに使う泔(米の研ぎ汁)、全てお米関連で、こうやって栽培、収穫されていると、知識で知っているけれども、実際のところは何も知らないに等しい。
食べ物を金銭で贖って食べている生活と、平安時代の貴族の生活、どこか似通っているいるような気がします。