アン・シャーリーは沙翁の戯曲の台詞に疑問を呈した
わたしが『赤毛のアン』を読んだのは小学生の二年生の時でした。村岡花子の翻訳ではなく、子ども向けにリライトされた本でした。アンに夢中になりました。
当時の同じクラスで席が近かった女の子は現実的な思考の持ち主なのか、わたしが気に入らなかったのか、わたしが面白い本だよと話をしても本の話ばかりして莫迦みたいとあしらいました。その後その子がある程度成長してから『赤毛のアン』を読んだかは知りません。その二、三年後にはアニメ名作劇場で『赤毛のアン』を放送していましたから、全く知らないままではなかったでしょう。
そして学生時代には『赤毛のアン』の実写映画が日本で公開されました。上映館や日によっては並んでいたとか、立ち見だったとかかなり好評でした。
村岡花子訳の『アンの青春』は読んでいましたが、一作目の『赤毛のアン』、子ども向けでない翻訳ものを読んだのは大人になってからでした。村岡花子ではなく、松本侑子訳です。翻訳者が違えば、訳注や、注目する点も違ってきます。
表題に持ってきた部分については、シェイクスピアよりもアンの考え方に賛同派もいらっしゃるようです。何かのコラムで大御所作家もそのように書いていました。松本侑子はほかの部分にも注目して“Anne of Green Gables”の解題の本を何冊か出していますが、まず表題部分の解説をしていました。
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の中で、バルコニーの場面、ジュリエットはロミオに対する恋情を訴えます。たしか、ゼッフィレッリ監督の映画でオリビア・ハッセー演じるジュリエットは(勿論日本語吹き替えでテレビで観たのでしたが)、「ロミオ、どうしてロミオなの」とあれこれ喋った後に、「たとえ名前は変わっても薔薇は同じく香るはず」と述べます。名前を変えても本質は変わらないから、モンタギューの名を捨ててくれればという内容です。
その原文が、“……We call a rose by any other name would smell as sweet.”
それに対してアンは違うと思うとマリラに自分の考えを言うのです。薔薇が違う名前だったらいい香りはしないと思うと。
アンは名前について楽しい遣り取りをしています。マシュー・カスバートと緑の切妻屋根の家に連れられてきて、マリラから名前を問われ、「コーデリア」と呼んでほしいと答えます。こちらの方が優雅ですものとの言い分は無視されて、本当の名前を答えるように促されます。
「アン・シャーリー」と答え、「Annではなく、eを付けてAnneと呼んでほしい」と付け加えます。発音は変わらないんじゃない? とは言いっこなしです。
皆様は親から付けてもらった名前に疑問や不満はなかったですか?
どうせ「惠美子」と名付けられるなら、絵のように美しい「絵美子」だったらいいのになぁとか。(そこ、笑わないでください)女性名の「えみこ」は「笑み」や「咲う」からの派生らしいので、今となっては気にしていませんが、大人になるまでの間は親に反抗するようなことばっかり考えるんですね。
戸籍名が地味だから、筆名は作家として成功したいと願いを込めて付けた、という方もいらっしゃるでしょう。
「名は体を表す」とも言いますので、名前は大切です。
薔薇が薔薇の名前を失くしたら、なんと呼ばれるのが相応しいのでしょう。ロミオはロミオだから素敵なのです。こればっかりは父と敵対する家の男性でなかったらいいのにとのジュリエットの苦しい立場の台詞であり、シェイクスピアよりモンゴメリの作中の台詞の方が正しいような気がします。
松本侑子は『赤毛のアン』について、シェイクスピアやほかの文学、聖書からの引用、モチーフがあると指摘し、先にも書いたようにその著作が出されています。例えば、カスバート兄妹のマシューはイエス・キリストの十二人の弟子の一人のマタイ、マリラはベタニヤのマリアの姉で、イエスの説教を聞くよりももてなすための家事に一生懸命になっていた女性と同名です。そして、アンは聖母マリアの母、聖アンナに由来する名前です。
アンが読書家で、あちこちで物語の台詞や詩句を呟き、自ら詩的な言葉を発して夢見る少女を体現しているのは指摘するまでもありません。
沙翁はシェイクスピアの漢字表記の一つです。
参考
『赤毛のアン』 L・M・モンゴメリ 松本侑子訳 集英社
『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』 松本侑子 集英社