命の光
そこは、荒廃し、放置された村。
その村の裏には、林よりは多少深いと言える程度の森がある。
鬱蒼と茂る、という言葉から連想される薄暗さはほとんどない。
昼間は日の光が地面まで届くし、夜には月の光が獣の道を照らす。そんな場所。
人口が限界まで減り、終わった村には、
今や一人として、人間は住んでいなかった。
だからその森にも人の手が入らず、
森の中にひっそりと流れる小川は清く澄み切っていた。
そして、その年も、あっという間に春が過ぎ、夏が来ようとしていたころ。
『――ふぅ』
一匹の、セミの幼虫が、殻を抜け出て羽を先まで伸ばし、
一息ついたところだった。
『あとは、この羽が乾くのを待つだけ、か……』
落ち着いてなどはいられない、むしろここからが勝負。
それはわかっているが、とりあえず一番の面倒をクリアしたのだ。
あとはひたすら、本能任せに鳴き続けるだけ。
それで目標をクリアできたならラッキーと言ったところか。
とにかく、今は待機だ。
『――よう。新入り』
不意に下から、声が聞こえてきた。
見下ろすと、そこにはぴかぴか光る、何かの光がある。
自分が土から出て、最初に見る光は、星か月の光だと思っていたのだが。
『光が喋った……?』
『馬鹿…… お前、俺を知らないのか?』
『……たった今しがた土から出てきたばかりなのに、知るわけないよ』
『チッ。まったく、しょうがねぇ新入りだ。世話の焼ける……』
なんだろう、この上から目線の光は。
何だかガラが悪そうだ。そんなことを考えていると、
『うわっ!?』
急に目の前が眩しくなって、目がくらんだ。
『なっ、何!? まぶし……っ!』
『おいおい、このくらいの光でくらくらしてるなよ。
そんなんじゃ、お天道様見られねぇぞ?』
『っ、……キミ、は、……一体、何なの?』
『何、とは失礼な奴だな。
俺の方がお前より長くここに住んでるんだ。敬語使えよ、敬語』
意味が分からない。
すると光がふらりと離れて、
しばらくしてからようやく目が見えるようになると、
光は少し離れたところの葉っぱに止まっていた。
『見えるようになったみたいだな。
俺は見ての通り、蛍、だよ』
『ホタル?』
『あぁ。……まさか、ホタル知らないとか言うんじゃないだろうな』
『……じゃあ逆に訊くけど、
生まれてこの方ずっと土の中にいて、どうやってホタルのことが分かるの?』
『……新入りのクセに、言うじゃねぇか。
わかった、説明してやるよ――』
こうして、ホタルと会った。
長いようで、あまりにも短い夏。
最初で最後のともだちと、会った。
『だぁああああっ!!』
ホタルと会ってから、二日が過ぎた。
ようやく慣れたお日さまの光の中、本能のままにひたすら鳴いていると、
急にホタルが叫んで、思わず鳴くのを止めてしまった。
『ちょっ、急に何!?』
『うるっせぇぇえええっ!!
畜生、三日前まで静かなとこだったつぅのに、何だこのやかましさは!』
『そんなこと言ったって、仕方ないでしょ。
これ、本能なんだから。やらなきゃ子孫、残せないし』
『……いいか? 俺、夜行性なわけ』
『うん。二日前に聞いたよ』
『つまりな、昼間は寝てるわけ。
……もう少し静かに鳴けねぇか?』
『そんなこと言ったって、夜行性にはなれないし。
昼間に鳴くしかないじゃない?
音量大きくしなきゃ意味がないし、っていうか調節できないし』
『どうでもいいわ!! 安眠妨害だって言ってんだよ俺は!』
『そんなこと言われたってなぁ……』
『せめて昼間だけはどっかいけ! 遠くで鳴け! それでいいだろ!!』
『昼間だけ遠くに行って夜に帰ってくるの?
わざわざそんな風にしてどうするのさ』
『だああぁあっ、分からないやつだな!
……いや待て。わかった上でやってるんだろう! 違うか! あぁ!?』
どうしてホタルは、こんなに口が悪いんだろう。
わからない。
夜に光っている間は、あんなにきれいな光を灯すのに。
あんなにきれいで、――儚い光を。
ホタルはいつも、夜に元気になって光りだす。
時に夜遅くまで喋ったりもした。
そうしていつの間にか、ホタルに会って、五日が過ぎた。
ホタルは急に、神妙そうに言った。
『なぁ。……お前、土の中に七年ぐらいいて、
地上に出てきたら、……七日ぐらいしか生きられないって、本当なのか?』
しばらく答えを返せなかった。
『お前が昼間、鳴きに行ってる間に、
この辺に住んでる奴らが噂してるのを聞いたんだ。
七日しか生きられないのに、あんなに一生懸命になって、って』
戸惑うような気持ちが大きかったけれど、
とりあえず何かを言わなきゃと思って、言った。
『ニンゲンに捕まれば、ね』
『……』
『捕まらなければ、一月ぐらいは、生きられるかもしれないけど』
『……何だ。そうなのか』
ホタルが、ふっ、と笑ったような気がした。
『一月も生きられりゃ、御の字だな』
とりあえず、まずい答えではなかったみたいで安心した。
同時に、ホタルの命も気になって、訊いてみた。
『ホタルは? どのくらい生きるの?』
返事は、しばらく返ってこなかった。
寝ちゃったのかと思ったけれど、夜行性のホタルに限ってそれはない。
返事を急かそうかと思ったとき、
『……卵から生まれてから数えるなら、一年』
『……凄いじゃない! 一年も生きていられるんだね!』
『一年も、って、お前だって卵から数えりゃ七年じゃねぇか。……けど』
けど、と、ホタルは言った。
『大人になって、光れるようになったら、正味七日。
長くて、……十四日だな』
『えっ……』
言葉を失う、という状況を、初めて味わった。
全然味が無くて、むしろ苦かった。
『何をボーゼンとしてんだよ、お前は。眠いのか?』
『ちが、……って、じゃあホタル、今は……』
『……十二日目だ』
今この場で自分死ぬのかと思った。死因はショック死で。
けれど、ホタルはそんな自分よりも長く、
生きるか死ぬかの狭間にいたということを、初めて知った。
『……じゃあ、……あと、二日?』
あとたった二日。
別れの実感が、全然湧いてこない。
すると、急にホタルが、
『あと二日だ?
けっ、んなもんで死ぬかよ。
……俺は、あと二日でなんか、絶対に死なねぇ』
威勢よく、誰かに言い聞かせるように、言った。
その言葉に、少なくとも安心はできた気がした。
『……そっか。ホタル、死なないんだね?』
『死なない。絶対に死んでやらない。
……俺は生きるって決めたんだ。
この夏を、生き切ってやるって決めたんだよ』
『……生き切る?』
ホタルは、いくらか深呼吸したようだった。
『……お前に、五日前には言わなかったことを教えてやる』
『うん』
『俺な。……っつか、蛍ってやつはな。
最初生まれてから九か月ぐらいは、ずぅっと水の中にいて、
巻き貝食ってんだよ。
お前は何食ってた、ちなみに』
『んと、……地面に潜ってる木の根っこから、樹液を吸ってたかな』
『思ったよりお前のがハードだな。
樹液だ? 栄養あんのか、それは』
『さぁ。栄養とか考えたことないけど、
……それくらいしか、食べるものがないから』
『……そうか。
話戻すぞ。
ホタルの幼虫時代、皆巻き貝食うんだ。
それはもう一心不乱にな。俺なんか五か月目ぐらいで味に飽きたし』
『……ほかに食べ物は?』
『あるにはあるが、……魚なんか食べられないしな。
むしろ逃げてた。食われると死ぬから』
『……そうなんだ』
『そんで、……好き嫌いとかしてたせいかは知らねぇが、
俺、他の奴らと比べて、成長が遅くてよ。
皆水から出て行って、さなぎになったらしくて、
しばらく見なくなったと思うと、……もう大人になっててよ。
ぴかぴか光りながら、自由にふらふら川の上飛び回りながら、
お前も早く来いよ、って言うんだ。
……皆自由に飛んでいくのに、……俺だけずっとカワニナ食ってんの。
馬鹿みたいじゃねぇ? ……あ、カワニナってのは巻貝の一種な』
『うーん……。好き嫌いをしなければよかったと思うけど』
『ま、いまさら言っても仕方ねぇ。問題はそこからなんだ。
……俺以外の奴ら、みんな大人になってよ。
すげぇなあ、って思ってたら、……ある時気がつくと、
一番最初に大人になったやつが、どこにもいねぇんだ』
『……』
『そのうち、一匹、三匹と減って行ってよ。
……俺がようやく水から上がるころには、もう全滅してた。
こんな早く、……何でだろうなぁ、って思ってたよ。
何で誰も、……カワニナ、食いに来ないんだろう、って。
……俺もさなぎになってよ。大人になって、……わかった。
口がさ、ねぇの。……食べるどころじゃなかったんだ』
『ホタル、……それって』
『新たに栄養は取れねぇ。
幼虫時代のたくわえで生きていくしかねぇんだ。
オスなんかメスより体小さくて、最初からあんま食べれないって酷くねぇ?
光れる代わりに、……あっという間に死ぬしかなくなるんだ。
それを自覚した時、……もう俺、絶望しかなくってよ』
わかる気がした。わからないのに、境遇が少しでも似ているせいだろうか、
絶望の気持ちが、少しだけ伝わってきた。
『メスも皆死んじまって、俺一匹。
本能が光れっていうから光ってるけど、意味はもうないんだよな。
俺はただ、生きているだけだ。
子孫を残せない今、生きている意味すらない。
ただ、死を待つだけだった』
けど、と、ホタルはもう一度言った。
どこか笑ったような声だった。
『絶望してても、自分から死にたくはなくってな。
それなら、……いっそ、誰よりも長く生きていてやろうかなって、
なんか開き直っちまってよ。
俺、成長遅かった分、カワニナ大量に食ったからな。
飽きた味でも、食えないとなると寂しいもんだけど、
でも、貯めといた分、使い切るまで、……いや、使い切ってからも、
ずっと生きてやるって決めた』
『……ホタル』
こんなこと、正直言いたくなかったけれど。
『それは、……無茶だよ。いくら何でも』
『わかってるっての。……わかってて、それでもやるんだ。
やるって決めた。正直に言えば今だって、すげぇ腹減ってるし、今にも死にそうだ。
けど、俺、絶対この夏を生き切ってやるって、心に決めたんだよ』
無茶で、無謀なことだと思った。
だけど、先がないからこそ、やり切ろうと思えるのかな、とも思った。
けれど。
次の日の夕暮れ、散々鳴いてから戻ってくると、
『……ホタル?』
ホタルの光が、これまでより一層弱々しくなっていた。
『……あぁ、お前か。……わりぃな』
『なに? どう、……したの?』
『……腹、減った。水だけで耐えてきたけど、正直もう、限界だ。
……俺、……もしかしたら』
『駄目だよ! ホタル昨日、生き切るって言ってたじゃない!
二日でなんて死んでやらないって、言ってたのに!』
『ははっ、お前、……普通に叫んでもやかましいのな。
……ほんと、お前追い出したこと、後悔するぜ。
お前の鳴き声聞いてりゃ、もうちょっとは、元気でいられたかも、……な』
言っている間に、どんどんホタルの光が小さくなっていく。
本当に、マズイ状況なのかもしれない。
なのに、
――なにも、できない。
こういう時どうしたらいいか、何も知らないせいで。
『何かしてくれようとか、思わなくていいからな。
これが、自然の摂理、……ってやつだから、……な』
気遣ってくれるホタルに申し訳なくて、泣きたくなった。
涙、と言うものを、未だかつて見たことも流したこともないけれど、
今だったら流せそうな気がした。
『……そんな。ホタル、……寂しいよ。せっかく、……仲良く、なれたのに』
『仲良く、ね……』
すると、ホタルの光が、ふらりと飛んだ。
あちらへこちらへと漂うような光は、今にも落ちて消えてしまいそうだ。
光は、最初に会ったときと同じように、こちらのすぐ近くにまで上がってきた。
『そういえば、お前、前言ってたよな。
俺の、光について、……何か、聞いてる方が恥ずかしくなるようなセリフ……』
『……こんな時に、何?』
『俺の光が、……星みたいだって』
言っただろうか。
言ったような気がするが、あまり記憶にない。
『あれ、地味に嬉しかったんだよな。
蛍の光は、星によく例えられる。
けど、お前、……蛍が群れでいるところ、見たこともねぇのに、
俺の光だけ見て、そうやって言ってくれたから、な……』
だから、と、ホタルは、切れ切れの声で、言った。
『お前に、……星の光を、見せてやるよ』
『ホタル、……何、言ってるの?』
『よぉく見ておけよ。俺の、……最後の、勇姿だ。
これまで何だかんだ言って、お前といて、それなりに楽しかったしな。
全身全霊かけて、……外で生きてる時間の先輩として、
お前に、……俺の生き様ってやつを、見せつけてやるよ』
不意に、ホタルの光が、今まで見たこともないほど強く輝いた。
辺りの木の幹まではっきり見えるくらい、眩い輝きに、
そんな場合じゃないはずなのに見惚れてしまった。
すると、光が急速に、空へと上がり始めた。
『……待って、……待ってよ、ホタル! まだ、たくさん話したいことが……!』
『――じゃあな、蝉。お前は俺より生きる。
精一杯生きろよ。話したいことがあるなら、それからだ。
まずは、この夏を生き抜いて見せろ。
そうしたら、……聞いてやらないこともないぜ』
それきり、ホタルの声は聞こえなくなった。
光は、多少のふらつきはありながらも、まっすぐに空へと昇って行って、
やがて、星の光の中に混ざって、どれがホタルの光なのか、分からなくなった。
それから、夜になって空を見るたび、
曇り空でない限りは、ホタルのことを思い出す。
あぁ、あの辺に昇って行ったっけ。じゃああの星かな。
何色の光か、もっとよく見ておけばよかったなあ。
そんなことを考えるようになった。
『ねぇ、ホタル。キミは死ぬとき、目の前で星になって見せてくれたね。
ホタル。キミは、自分の命を、生き切ることができたのかな』
星になったキミは、本当に、切ないくらいきれいだった。
生き切った後で、ホタルにそう言ったら、喜んでくれるだろうか。
でも、ホタルに喜んでもらうには、生き切らなきゃだめだ。
まだ、生き切る、っていうことがどういうことか、
正直あんまりわかっていないけど。
でも、ホタル。キミに負けないくらい、生き切ってみせるよ。
夏の終わりまで、あとひと月と半分。