愚人
本当の賢人とは、愚かであることの意味を知り、自らもそこへと入っていける者のことである。
ならば私は死ぬまで本当の愚人でありたいと思う。
彼は深い物思いに沈んでいた。堂々巡りの考えに同じ道を何回も連れまわされていた。そして彼はそこに転がる石ころに目新しい形を見付けるたび、自分を引き摺りまわすそいつを力ずくでひきとめ、それを数秒の間愛おしそうに見つめたあと、そっと微笑み、それを拾い上げてにんまりと笑い、宝箱へでも仕舞うようにポケットに入れるのだった。彼が怪力だったわけではなく、彼をひっぱるそいつがへろへろの奴隷だったのである。彼はこの従順なる奴隷をこよなく愛した。なによりも愛した。継接ぎだらけのスーツのありとあらゆるポケットから聞えてくる、小さな、しかし新しい思想がこすれあう音よりもである。この奴隷によって少しずつもたらされ、自分の皮膚のすぐ上にたまっていく魅惑的な石ころが、この先の旅路でなにか大きな役目を果たすだろうという確信があった。
彼は誰にも本当のことを言わなかった。言えなかったというのが実際のところかもしれないが、彼は少なくともそれを意識的に感じることができていた。そして鏡に映る自分自身にすら、自分の本当の姿を見せることはなかったし、いつだってそいつを疑いの目で見た。街ですれ違う他人は誰一人として自分と同じ人間には見えなかった。知り合ってどれだけたくさん喋ろうと、いくらお互いの内面の理解が進んでいるように思われようと、そんなものはただの自分の思い込みや幻想でしかないということを彼はよく知っていた。自分の中でさえ言い争いは絶えないのに、自分の外でなにかしらの結論が出るなどというのは、彼にとっては下らない冗談としか思えなかった。沈黙だけが彼の味方であった。
彼は何かを信じることがなかった。ほんの少しの信用を覚えることはもとより、少しの疑念もなく自分の何かを託すということなどは到底考えられるものではなかった。よって誰かに自分を信じてもらうことなど以ての外であり、そんな必要性は微塵も感じたことがなかった。彼は自分以外の誰かとの間で起こった問題の解決に心から納得したことなど一度もなかったし、そんなことがあり得るとも思わなかった。自分すら疑い、自分にすら疑われているような状況で、一体どうやったら自分以外の人間に信頼を置くようなことができるのか、彼は誰かに教えてほしかった。しかしそんな誰かなどはどこにもいないということも、彼は十分すぎるほど知っていた。
彼は自分が生きている意味がわからなかった。自分以外の人間は生きていたって死んでいるのとそんなに大差はない、というのが彼の意見であったので、そもそも他人の生きている意味には興味が湧かなかったが、自分の生きている意味には非常に興味があったし、知りたかった。でも彼はわからなかった。いくら待っても、いつまで経っても、どれだけ生きてもわからなかった。
彼の葬儀には何かごつごつした袋を大事そうに抱えるへろへろの奴隷と沈黙があるだけだった。