独善者と、何も持たない私―愛しているから離してほしい―
いつも飲んでいたオレンジジュースが、今日は上手く喉を通らなかった。
「もう私に構わなくていいですよ、旭さん」
震える膝はロングスカートで隠した。
ブランデーのグラスを傾けながら、タバコを吸っていた旭さんは目を細めた。
「聞き間違えた。もう一回言え」
カウンター越しに立っていたバーテンダーが顔を青くさせて、目の前から消えた。
ヒリヒリと殺気立った空気に、私も息が詰まりそうだった。
「別の街に行こうと思っています。だから、もうお別れです」
コトッと静かにグラスが置かれた。
節くれだった指が、私の顎に触れた。
冷たくて体温を奪われそうと何度思っただろう。
「何が欲しいんだ?」
「……え?」
「家も金も、お前が持っていなかったものは全て与えたはずだ」
それは否定できない。
高校を中退して、頼れる親もなく、就職先も上手く見つけられず……流れ着いたのがこの街だった。
たまたま、少し目立つ容姿をしていたことから旭さんに気にかけてもらえて、彼と住むようになった。
詳しい職業は知らないけど、真っ当な仕事でなさそう。
電話一つで現ナマを用意させられるような立場にいる。
旭のイロだと言われて、羨望も憎悪も向けられながら二年ほど生きてきた。
「これ以上は情けをかけて貰うのが申し訳なくなったというか……」
「今更だろ。いくらかけたと思ってる?」
嘲笑うように鼻を鳴らしているのを見て、膝の上に置いていた手を握りしめた。
「お返しするのは難しいけど」
「いらない」
溶けた氷が鳴った。
「本当に感謝しています。だから、これ以上は」
「美哉」
遮るように名前を呼ばれて、私は言葉に詰まった。
旭さんは灰皿に強くタバコを押しつけて、『不味っ』と呟いた。
「今日は酒もタバコも激まずだわ。――なんでだろうな?」
初めて向けられる強い視線は、人に向けるべきではないものだった。隠しようもなく身体が震え出す。
「景気付けにマンションでも買いに行くか。セキュリティの厳重な俺の指紋でしか出入りできないようなところ」
「……え」
「洋服でもバッグでも、欲しいものはインターネットで買えるだろう。これまでどおり何でも買ってやるからな」
どういう意味……。
そんなものいらない。
「旭さん。私はもうこの街から――」
「人間の尊厳は守ってやるって言ってんの。それとも、酷くされたいの?」
いくら私に学なくとも、ここで首を横に振ったらどうなるかは分かる。
私の動きを見た旭さんは目を見開いた。
「へぇ……。そこまでして俺から逃げたいんだ?」
近くに置いていたハンドバッグを手に取り、私は弾かれるように入り口に向かって駆け出した。
けれど、手足の長さも瞬発力も旭さんに到底適うはずなんてなくて。
「……っ!」
骨が軋むほど掴まれたせいで腕が痛い。
振りほどこうにも引き寄せられるだけだった。
「本気で逃げたいなら噛み付けよ。さすがに俺でも離すかもしれないよ?」
嘘だと思った。
離してくれるはずがない。
「お願い。私のことは放っておいて」
「……誰の入れ知恵だ? 変なこと吹き込まれたか?」
「違う!」
「もう美哉に因縁つけてくる相手は消したはずなんだがな。お前が俺から離れるなんて、お前の意思ではあり得ないだろう」
子どもと大人みたいな力の差でも、私は腕を動かし続けた。拘束しようとしたのか、旭さんの腕が腹部の辺りに伸びてくる。
「駄目!」
頭で考えるよりも先に、私は腹部を庇った。
はっと気づいた時には遅かった。
恐る恐る見上げた旭さんの表情は、これまでと違った険しさがあった。眉を寄せ、視点は一点にだけ向けられている。
「……おい、何を隠している」
「何も隠してなんか……」
「じゃあ、仮にそこを殴ってもいいんだな?」
抵抗する力なんてもう残っていなかった。
目の奥が熱くなって視界がぼやけた。
「泣くなよ。お前に暴力を振るいたいわけじゃない」
「どの口が……」
掴まれている右腕は痣が残るだろう。
殴る蹴るなんて旭さんはしないけど、これだけ強く握り締められれば暴力と変わらない。今はその言葉を信じることができなかった。
旭さんは目を逸らしながら、腕の力を弱めた。絶対に離そうとはしないけれど。
「監禁まがいのことまで言いました」
「それは必要だから」
「……それのどこが人間の尊厳を守っているんですか」
「美哉はどこにも行かずに、俺の目の届くところにいればいいと思った」
冗談でもなく本気で言われているのが分かって、ゾッとする。
旭さんは少し冷静さを取り戻したようで、言葉の圧は弱まっていた。でも、私は怒りが溜まる一方だった。
「そんな人と一緒にいられません」
「なんでそんなことを言うんだ」
「本当に私を愛しているなら、手放してよ!」
言った。……言ってしまった。
傷ついたかのように、旭さんは顔を伏せた。
「どうしてあなたがそんな顔をするんですか」
「手放せるわけないだろう」
「どうせ捨てるくせに……!」
旭さんの口から『は?』と漏れる。
「なんでそんなイメージを持たれている? そんなことを考える暇もないくらい愛していただろう?」
「それは……私が何も持たない女だったからでしょう?」
「どういう意味だ?」
もうここまで来たら隠すことでもないだろう。
本当は何も知らせぬまま、離れるつもりだったのに。
「あなたの嫌いな子どもが出来たかもしれません。まだ心拍の確認が出来ていないけど、ほぼ間違いないです」
「子ども……」
私の腹部を見つめたまま、旭さんは自分の口元を押さえた。
「以前聞いてしまいました。子どもなんていらない。もしできても受け入れられないって話してましたよね?」
「いつの話だ」
「一年くらい前でしょうか」
今日みたいに、ここのバーにやって来て、旭さんは友達数人と飲んでいた。
煩わしそうに語って、そんなものなのかと思っていた。
……我が身にその時が来るまでは。
私だって子どもは夢物語みたいなものだと思っていた。
まともに両親に育てられていないし、育てていくイメージなんて持てなかった。でも、
「初めて私に“持つもの”ができた。この子を守りたいと思ったんです」
一人で育てていくなんて、生半可な気持ちでは無理だろう。それでも、絶対的な旭さんに逆らってでも産みたいという勇気を持てた。
「迷惑はかけません。私たちのことは忘れてくれたら、それだけでいいです。この子に父親は最初からいなかった。そういうことです」
考える時の日頃の癖で、旭さんはポケットから取り出したタバコを咥えようとする。けれど、何を思ったのか箱ごと握り潰した。
「迷惑をかけないだ? 金もないくせに、その身体でどうやって寝泊まりする気なんだ」
「最初は妊婦向けのシェルターとか、利用できるものを頼るつもりです」
「それでうまく行くと思っているのか」
「……なんとかするつもりです」
私のエゴで苦労はさせるだろうけど、この子に旭さんの面影があれば頑張れる。
お金や物以上に、旭さんが私に与えてくれたものは沢山ある。
その思い出だけで生きていけるような気がした。
「俺に金をせびろうと思わないのか」
「これ以上は旭さんから何も貰うつもりはありません」
きっぱりと言い切れば、旭さんはクツクツと笑い出した。
眉を寄せていると、力が弱められたはずの指が、再び右腕に食い込んだ。
「子どもでもできれば、もっと俺しかいないって縋り付いてくると思ったんだがなぁ」
「え?」
この場に似つかわしくない、旭さんの甘い声が耳に届く。
――逃げられると思うなよ、美哉。




