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5月9日のこと


彼と生活を共にするようになって、一つ季節が変わった。


驚いたことはたくさんあった。


彼は、自分のことに対してかなり無頓着だ。


例えば、洗濯物。


私のものや、共用のものはちゃんと畳むのに、

自分の分だけはぐちゃぐちゃのまま。


あとは、料理。


自分だけが食べる分は、明らかに目分量でつくってる。

フライパンのまま、キッチンで食事を済ませていたところも見かけた。


不思議な感覚だった。


私が見てきた彼は、

常に穏やかで、安定していて。


私よりもずっと先を行く存在。


心のどこかで、

彼は私生活もきっちりしているんだろう、

と思っていたのかもしれない。


一緒に暮らすというのは、

優しい彼だけを見ることじゃなかった。


疲れている日。

気を抜いている日。

余裕がなくなる日。


そういう誰にも見せない部分が、

少しずつ私の前にも零れてくる。


そして私は、そのたびに知っていく。


彼も、ずっと頑張っていた側の人間だった。

________________________


ある日の夕方。


鍵が回る音がして、いつものように玄関に出向く。


「おかえ_」


言い切る前に、いきなり彼に抱き寄せられた。


「……っ」


思わずバランスを崩して、彼に飛び込む形になってしまった。


そして背中に腕を回されて、

思わず息がつまる。


乱暴に、とまではいかない。

しかし、ぎりぎりと、苦しいくらいの力で抱きしめられる。


「……ぁ」


いつもは、逃げ場を残すように、

私をちゃんと受け止めるように抱きしめてくれる。


でも、今されてるやつは、全然違う。


全然理性的じゃない、私に選ばせないやり方。


ちょっとだけ見える横顔が、別人のように見える。


初めての経験だった。


彼の肩口に顔が埋まり、より熱を直に感じる。


こわい。


時間がゆっくりになるかんじがする。


どうしよう。


なにかいったほうがいいのかな。


わたし、なにかしちゃったかな。


頭がだんだん真っ白になる。


うまく息がすえない。


胸がくるしい。


______________________________



やがて、彼が深く深呼吸した。


ほんの少し、

私に体重が預けられるのを感じる。


「…あ…」


小さく声が漏れる。


そこで気づいた。


(ああ、この人)


疲れてるんだ。

それも、ひどく。


真っ白だった頭に、だんだんと色が戻って来る。


彼のことを、よく観察してみる。


横顔しか見えないが、疲れが滲んでいる。


服はしわしわだし、

投げ出された鞄には、無造作に物が詰め込まれている。


気が付いたら、彼の背中を

トン、トン、と一定のリズムでさすっていた。


彼の体が、わずかに反応する。


彼が頭を撫でてくれたように。

私を抱きとめてくれたように。


私にいろんなものをくれた人。

求めたら、ちゃんと返してくれた人。


そんな人が、私を必要としてくれた。

疲れた時に、私を頼ってくれた。


少しだけお返しをできた気がして、

胸が満たされた。


「……ごめん」


彼が、掠れた声を出す。


いつもよりも不安定な声色。

芯を失ってるって、すぐ分かる。


「…んーん」


軽く返事をして、

起きたことをそのまま言ってみる。


「疲れて、余裕、なくなったんだよね」


なるべく穏やかな声で告げる。


彼の体が、少し反応する。


相手を責めはしない。


かといって慰める訳でもない。


ただ起きたことを、

しっかりと受け止める。


それは、彼が教えてくれたやり方。


「……ぎゅって、したくなっちゃった?」


あやすみたいに、背中をぽんぽんする。


そうすると、強ばっていた彼の体が

徐々に柔らかくなっていった。


少しずつ、ゆっくりと緩んでいく。


「…はは」


掠れた笑い声。


どこか困ったような、観念したような、

いつもの余裕を全く感じない声。


でも、

その声を聞いて、胸があったかくなる。


「…だめだな、今日」


綻びからぽつりと零れた、

彼の本音。


「…ううん」


私は首を横に振る


「私も、いっぱいしてもらった、から」


だから、今度は私の番。


そう伝えるように抱きしめ返すと、

彼は諦めたように、体重を預けてきた。


その重みが、とても嬉しかった。


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