第9話「五年前の声」
「——話がある」
ユルゲンの声が、執務室の扉越しに聞こえた。
エルザは足を止めた。朝の医務室に向かう途中だった。執務室の扉は半分開いていて、中にユルゲンが立っていた。机に向かってではなく、窓を背にして、エルザが通るのを待っていたように見えた。
「入ってくれ」
エルザは執務室に入った。ユルゲンが扉を閉めた。二人きりの部屋は、これまでにもあった。委任書を渡されたとき。召還命令を読んだとき。だが今日の空気は違っていた。ユルゲンの肩が強張っている。いつもの寡黙さではない。何かを決めた人間の、覚悟を含んだ沈黙だった。
「座ってくれ」
エルザは椅子に腰を下ろした。ユルゲンは立ったままだった。窓からの光が横顔を照らしている。
長い沈黙があった。
「五年前の話だ」
ユルゲンの声が低く、慎重だった。一語ずつ選んでいる声だった。
「王都近郊の戦場で、魔物の討伐隊が壊滅しかけた。俺はそのとき、まだ一兵卒だった。腹を裂かれて、地面に転がっていた」
エルザの手が膝の上で硬くなった。
「意識が遠くなっていく中で、光が見えた。誰かの手が、傷に触れた。治癒術だった。目を開けたときには傷が塞がっていて——術者は、もう次の負傷者のところに走っていた」
ユルゲンの目がエルザを見た。
「聖女だった。あの戦場に派遣された、王国正聖女。俺は名前も知らなかった。顔もほとんど見えなかった。ただ——治癒の後、その聖女が膝をついて立てなくなっているのが見えた。誰も助けに行かなかった。次の負傷者が待っていたから」
エルザの呼吸が浅くなった。覚えている。五年前の討伐戦。大規模治癒を三度繰り返して、最後は自力で立てなくなった。あの戦場で何人を治したか、手帳に記録が残っている。
「俺はそのとき、立てるようになっていた。あんたが治してくれたから。でも——礼を言いに行けなかった。行かなかった」
ユルゲンの声が途切れた。
「……なぜ」
エルザの声は掠れていた。
「怖かった。あんたが膝をついているのを見て、自分が治ってもらった代わりにあんたが壊れているのだと分かった。礼を言う資格があるのか分からなかった」
沈黙が落ちた。窓の外で風が石壁を鳴らした。
「俺も、三千回のうちの一人だ。言わなかった側の、一人だ」
エルザは動けなかった。椅子に座ったまま、ユルゲンの顔を見ていた。
この人が手紙を寄越した理由。「断っていい」と書いた理由。護衛を手配した理由。治療記録帳をつけた理由。外套を椅子にかけた理由。法令書を探して返上条項を見つけた理由。召還命令に逆らって時間を作った理由。
全部が、一つの場所に繋がった。
「あなたも、あのとき何も言わなかった人の一人だったんですね」
エルザの声は静かだった。怒りではなかった。責めてもいなかった。ただ、事実を確かめるように言った。
ユルゲンが目を伏せた。
「……すまなかった」
その謝罪に嘘はなかった。短く、飾りがなく、だから重かった。
エルザは膝の上の手を見た。治癒を施す手。何千回も他人の傷を塞いできた手。五年前、あの戦場でこの人の腹の傷を塞いだ手。
「でも」
エルザは顔を上げた。
「あなたは五年後に手紙をくれた。『断っていい』と書いてくれた。あのとき言えなかったことを、今届けてくれた」
ユルゲンの目が僅かに見開かれた。
「それでいい」
エルザの声は震えていなかった。あの戦場で膝をつき、誰にも助けられず、次の患者に向かって歩いた。あの日の沈黙を、この人は五年間抱えていた。そして手紙を書いた。砦に呼んだ。記録をつけた。黙って隣にいた。
言えなかった言葉の代わりに、全部を行動で返してくれた。
五年分の沈黙を赦すことは、十年分の搾取に対する怒りを手放すこととは違った。でも、言えなかった人が届けてくれたものの重さを、エルザは知っていた。手帳に刻んだ数字の隣に、この人の名前がなかったことを、今初めて悔しいと思った。
エルザは椅子から立ち上がった。
「わたしは聖女の座を返上します」
声が、自分のものとは思えないほど澄んでいた。
「わたしは聖女だからここにいるんじゃない。わたしがここにいたいから、ここにいます」
ユルゲンは動かなかった。エルザの目を見ていた。
「返上には本人の宣言と国王の受理が必要だ。書面を俺が起草する。砦の守備隊長として、宣言の立会人の署名も入れる」
実務的な言葉。だがその声は、わずかに揺れていた。
「お願いします」
エルザが頭を下げた。ユルゲンが机に向かい、羊皮紙を広げた。ペンを取る手が一瞬止まった。
「エルザ」
呼称が変わった。「エルザ殿」ではなく、敬称のない名前。
エルザが顔を上げると、ユルゲンがペンを持ったまま、こちらを見ていた。
「お前があの戦場にいてくれたから、俺はここにいる。……ずっと、礼を言いたかった」
長い言葉だった。この人が対面で口にした中で、最も長い。手紙では何枚も書ける人が、声にすると三語で終わる人が、初めて声で伝えようとしていた。
それは感謝だった。同時に、それ以上のものだった。エルザにはそれが分かった。
「ユルゲン」
エルザも敬称を外した。名前だけで呼んだ。
ユルゲンの手が止まった。ペンが羊皮紙の上で静止している。
「待ってました。ずっと——届くのを」
エルザの目が熱かった。泣いてはいなかった。でも、十年間溜め込んだ数字の重さが、初めて軽くなった気がした。
ユルゲンは何も言わなかった。ただ頷いて、返上宣言の書面を書き始めた。ペンの音だけが執務室に響いた。
窓の外で、訓練を終えた兵士たちの声がした。トビアスが誰かと笑っている。砦の日常は続いている。王都では疫病が猛威を振るい、神殿長の召還命令はまだ生きている。返上の書面が国王に届くまで、早馬で五日。受理されるかどうかは分からない。
でも、今この瞬間、エルザは自分の意思で選んでいた。
聖女を辞める。ここにいる。この人の隣にいる。
それは、十年間で初めての、自分だけの選択だった。




