第8話「二冊の帳面」
砦の朝、兵士たちの訓練の声が中庭から響いていた。遠くで鳥が鳴いている。
エルザは医務室の窓を開けて、その音を聞いた。召還命令が届いてから数日が過ぎていた。ユルゲンの戦時判断による留保で、命令の執行は止まっている。だが理由書の返答が王都から届くまでの猶予は、あと数日しかない。
訓練の声に混じって、門の方から馬の蹄の音がした。
行商人だった。前回とも前々回とも違う、初老の男。荷を降ろしながら、兵士たちに王都の話を始めた。エルザが医務室を出ると、トビアスが廊下を走ってきた。
「エルザさん、やばいっす。王都の疫病、すごいことになってるって」
トビアスの顔から、いつもの軽さが消えていた。
「死者が百人超えたらしいっす。貴族の屋敷にも広がって、第二聖女が治癒するたびに倒れて、もう動けないって。それで——」
トビアスが言葉を詰まらせた。
「貴族たちが殿下に詰め寄ってるって。エルザさんを連れ戻せって」
百人。エルザの指先が冷えた。百人が死んだ。わたしが王都にいれば、そのうちの何人かは助けられたかもしれない。全員は無理でも、大規模治癒を繰り返せば——いや、それをやれば代価でわたし自身が倒れる。リーネが倒れ続けているのがその証拠だった。
「トビアスさん。ありがとう、教えてくれて」
「エルザさん——」
トビアスが何かを言いかけて、やめた。唇を引き結んで、エルザから目を逸らした。
昼過ぎ、中庭で訓練を終えた兵士たちが、医務室の前に集まっていた。
行商人の話は砦中に広まっていた。王都の疫病。貴族たちの要求。エルザを連れ戻せという声。それはつまり、エルザがここからいなくなるかもしれないということだった。
エルザが廊下に出ると、兵士たちが道を開けた。だがいつもの「聖女様、今日もお願いします」という声はなかった。代わりに、沈黙があった。
トビアスが列の先頭にいた。
「エルザさん」
声が震えていた。いつも声が裏返るほど大きいトビアスが、今日は喉を絞るように低い声だった。
「行かないでくれって言ったら——わがままっすか」
エルザの足が止まった。
「エルザさんがいなくなったら、おれたち、また前みたいに怪我しても放っとくしかないんすよ。腰が三年痛い人も、古傷が疼く人も、みんな我慢するしかなかった。エルザさんが来てくれたから、初めてまともに治してもらえたんす」
トビアスの目が赤かった。泣くのを堪えている顔だった。
「おれだけじゃないっす。みんな——」
後ろの兵士たちが頷いていた。声を出す者はいなかった。感謝を叫んでいたあの日の兵士たちが、今は黙って立っていた。
エルザの胸に、異質な重さが落ちた。感謝とは違う。感謝は過去に向かう言葉だ。「ありがとう」は、もう起きたことへの応答だ。でも「行かないでくれ」は未来に向かっている。ここにいてほしい。これからも。
「わたしが戻れば、助かる人がいます」
エルザは自分の声が平坦なことに気づいた。感情を抑えているのではなかった。本当に、どう感じればいいのか分からなかった。
「でも——」
言葉が続かなかった。トビアスが拳を握り締めていた。兵士たちが黙ったまま立っていた。
ユルゲンは、いなかった。この場に姿を見せていなかった。
夕刻、マルタが薬草を届けに来た。
医務室の棚に薬草を並べながら、マルタはエルザの顔を見た。
「聞いたよ。兵隊どもが泣きついたって」
「泣きついたわけでは——」
「同じことさ」
マルタは棚の薬草を手際よく分類しながら、声の調子を変えなかった。
「あんたがいなくなったら困るのは王都じゃない。ここの人間だよ」
エルザは黙った。
「ここで初めてまともな医療を受けた子供がいる。あんたが教えた薬草の煎じ方で、熱を下げた母親がいる。集落の連中はもう知ってるんだ、砦に治してくれる人がいるって」
マルタの手が止まった。エルザに向き直る。
「で、あんたはどうしたいの」
三度目の問い。同じ言葉。だが今回は、声の底に別のものがあった。マルタ自身の感情が、わずかに滲んでいた。
「ここにいたいです」
エルザの口から出た言葉に、自分で驚いた。考える前に出ていた。反射だった。でも「はい」の反射とは違った。求められたから応じたのではない。聞かれたから、答えた。自分の中にあったものが、そのまま声になった。
「でも、王都では人が死んでいます。わたしが戻れば——」
「あんたがいなくなったら、ここでも人が死ぬよ」
マルタの声は断定的で、静かだった。
「どっちを選んでも誰かが困る。そんなのは当たり前だ。だから聞いてるんだよ。あんたはどうしたいのかって」
エルザは答えられなかった。ここにいたい。それは本当だった。でもその理由が、聖女としての使命とは何の関係もない場所にあることが、怖かった。
マルタは籠を持ち上げた。
「まあ、ゆっくり考えな。あたしは明日も薬草を持ってくるからね」
そう言って出ていった。
夜、部屋の机に二冊を並べた。
擦り切れた革表紙の手帳と、ユルゲンが渡した治療記録帳。
手帳を開いた。十年分の正の字。治癒の回数。感謝されなかった回数。代価を無視された回数。数字の羅列は、エルザが聖女として消費された記録だった。
治療記録帳を開いた。兵士の名前。症状。回復日数。「訓練復帰」「巡回任務に復帰」「三年ぶりに走れるようになった」。ユルゲンの無骨な文字が、エルザの治癒がもたらした結果を、一人分ずつ記録していた。
同じ「記録」だった。片方には感謝がなく、片方には成果があった。片方はわたしを道具として扱った世界の帳簿で、片方はわたしを人間として扱った人の帳簿だった。
ここを離れたくない。
それはもう、砦が居心地いいからではなかった。薬草畑があるからでも、兵士たちが感謝してくれるからでもなかった。
この人たちを——この人を、失いたくない。
ユルゲンの顔が浮かんだ。書庫で埃だらけの法令書を繰っていた背中。召還命令の文面の不自然さを指摘した声。「決めるのはお前だ」と言って理由書を書き始めた手。神殿に逆らってまで時間を作った人。外套を置いて「備品だ」と嘘をついた人。
あの人の隣にいたい。聖女だからではなく、わたしが、わたしとして。
窓の外は暗かった。星が出ている。城壁の上で隣に立ったあの夜を思い出した。
ここにいたい理由は、聖女だからじゃない。
二冊の帳面を閉じた。手帳の革表紙は十年分の重みで歪んでいた。治療記録帳はまだ薄く、余白が多かった。
決断はまだ口にしていない。ユルゲンには伝えていない。でも、自分の中では何かが定まりつつあった。あとは、それを声にする勇気だけだった。
廊下の向こうで、巡回の兵士が歩く足音がした。砦の夜は静かで、いつも通りで、それがもうすぐ変わるかもしれないことを、エルザだけが知っていた。




