第7話「百年の前例」
ユルゲンが砦の書庫で埃だらけの法令書を開いていた。
エルザはそれを、書庫の入口から見た。朝の巡回前の時間帯で、兵士たちはまだ中庭に出ていない。薄暗い書庫の中、窓から差し込む細い光の下で、ユルゲンは積み上げた革装の冊子を一つずつ繰っていた。
「ユルゲンさん」
声をかけると、ユルゲンは顔を上げた。手元の法令書を閉じることなく、エルザを見た。
「丁度いい。話がある」
いつもの短い言葉。だがその声に、わずかな硬さがあった。
ユルゲンは開いた頁を指で押さえたまま、法令書をエルザの方に向けた。古い羊皮紙に、褐色のインクで書かれた条文。文字の端がかすれている。百年以上前の書式だった。
「聖女認定制度の返上条項。聖女本人の宣言と、国王の受理で成立する」
エルザの目が文面を追った。読み取るのに時間がかかった。古い書体で、言い回しも現代とは違う。だが内容は明瞭だった。
聖女は、返上できる。
「……返上」
声が震えた。自分でも予想しなかった震えだった。
「制度上、お前は聖女を辞められる。百年ぶりの前例になるが」
ユルゲンの声は平坦だった。事実を述べているだけの声。だがこの人がこの条文を見つけるまでに、何冊の法令書を繰ったのかは、机の上に積まれた埃だらけの冊子が語っていた。
「でも——聖女を辞めたら、わたしには何も……」
言葉が止まった。聖女であることが、エルザの社会的な存在根拠だった。孤児院を出たのは聖女に認定されたから。王都で暮らせたのは聖女だったから。この砦にいるのも、軍属医療官としての委任書はあるが、その前提には聖女の治癒力がある。聖女を辞めたら、わたしは何者なのか。
「お前には何もないのか。本当に、そう思うのか」
ユルゲンの目がエルザを見ていた。寡黙な人の、数少ない問いかけだった。
エルザは答えられなかった。答えたかった。薬草畑でマルタに教わったこと、兵士たちの名前を覚えたこと、治療記録帳に成果が記されていること。何もなくはない。でもそれは聖女の治癒力があるから得られた場所であって、力がなくなれば——。
「……分かりません」
沈黙が落ちた。ユルゲンはそれ以上何も言わなかった。
午後、砦の門に早馬が着いた。
公式の封蝋が押された書簡。宛先は「北嶺砦守備隊長ユルゲン・ヴェーバー」。差出は王都の神殿。
ユルゲンが執務室で封を切り、文面を読んだ。エルザは医務室にいたが、トビアスが駆け込んできた。
「エルザさん、隊長が呼んでるっす。なんか王都から手紙来たみたいで——隊長の顔、いつもより怖いっすよ」
執務室に入ると、ユルゲンが書簡を机に置いていた。
「読め」
差し出された書簡を受け取った。神殿長ヘルダの署名。公式書式。
『聖女エルザ・リヒテンは速やかに王都に帰還せよ。聖女は神殿に帰属する。』
指先が冷たくなった。召還命令。神殿長の権限で、聖女に居住地の変更を命じる公式書簡。
「……帰還」
「読み終わったか」
ユルゲンの声は低く、抑えられていた。だがいつもの寡黙さとは質が違った。
「文面に不自然な箇所がある。『神殿に帰属する』——これは法令上の表現ではない。聖女認定制度の条文に『帰属』という語は存在しない」
エルザは書簡を見直した。確かに、認定制度で使われるのは「神殿所属の特別職」であり、「帰属」ではない。だがそれが何を意味するのか、すぐには分からなかった。
「神殿長は聖女の居住地変更を命じる権限を持つ。だが、この文面は権限を逸脱している」
ユルゲンが書簡の文面を指で示した。
「帰属という表現は、聖女を神殿の所有物として扱う前提でなければ出てこない。法的根拠のない文言を公式書簡に入れる理由があるとすれば——」
言葉を切った。独白のように低く、短い一語が漏れた。
「軍務局経由で知ったか」
エルザには意味が取れなかった。だがユルゲンの目は書簡ではなく、もっと遠いものを見ていた。
「ユルゲンさん。わたしは——」
「待て」
ユルゲンが立ち上がった。書棚から白紙の羊皮紙を取り出し、机に広げた。
「砦の守備隊長は、準戦時自治権に基づき、王都からの命令の執行を一時留保できる。理由書の提出が必要だが、往復に十日以上かかる。その間、召還命令は保留される」
ペンを取り、理由書の起草を始めた。文字は速いが乱れない。この人は書く時だけ饒舌になる。
「隊長がそれをすれば、神殿に逆らったことになりませんか」
「なる」
短い肯定。ペンは止まらない。
「ユルゲンさん」
「決めるのはお前だ」
ユルゲンがペンを置いた。書きかけの理由書の上に手を置いて、エルザを見た。
「俺は時間を作る。それだけだ」
その目には、何かを堪えている色があった。引き留めたい、とは言わない。ここにいろ、とも言わない。ただ時間を作る。エルザが自分で決められるように。
エルザの胸の中で、二つのものがぶつかった。
返上という選択肢がある。今朝、それを知った。百年間誰も使わなかった条文が、あの埃だらけの書庫にあった。聖女を辞められる。辞めれば召還命令は根拠を失う。でも——辞めたいのか。辞めたくないのか。聖女であることが、わたしの全てだった。それを手放す選択を、自分の意思でしたことがない。
断る選択がある。でもそれが怖い。
「……はい」
いつもの返事だった。反射的な「はい」。でも今、この「はい」が何を意味するのか、自分でも分からなかった。ユルゲンの提案を受け入れた「はい」なのか、召還命令に従う「はい」なのか。
ユルゲンは何も聞き返さなかった。ただ理由書の続きを書き始めた。
エルザは執務室を出た。
廊下を歩きながら、指先が震えていた。
召還命令が来た。神殿長がわたしの居場所を知っている。軍属委任書の情報は、どこかの経路で神殿に届いたのだろう。
ここにいられる時間は、ユルゲンが作る猶予だけ。
部屋に戻り、机の上の二冊を見た。擦り切れた手帳と、新しい治療記録帳。窓の外では兵士たちの訓練の声がする。トビアスの声も混じっている。
百年間、誰も使わなかった一行。聖女を辞められるという、たった一つの条文。それがあるだけで、世界の形が変わった。昨日までは「聖女としてここにいる」しかなかった。今日は「聖女を辞めてここにいる」という道が見えている。
でも——辞めたいのか、辞めたくないのか。ここにいたいのか、王都に戻るべきなのか。
それすら、まだ分からない。
分かっているのは一つだけだった。あの人は神殿に逆らってまで、わたしに時間をくれた。理由を言わずに。ただ「決めるのはお前だ」と。
外套の時と同じだった。行動で示して、言葉では何も言わない。
窓の外の訓練の声が、遠くなったり近くなったりしていた。




