第6話「外套の嘘」
王都で最後に大規模治癒を行ったのは、三ヶ月前だった。
あのときも複数の負傷者が運び込まれ、エルザは一人ずつ治した。代価で丸一日動けなくなったが、見舞いに来た者はいなかった。回復したエルザに最初にかけられた言葉は「次の患者が待っています」だった。
今、目の前にも複数の負傷兵がいる。
砦の門から担架が三つ運び込まれた。巡回中に魔物と遭遇した小隊で、一人は腹部に深い裂傷、一人は脚の骨折、一人は肩から胸にかけて抉られていた。
「エルザ殿」
ユルゲンが医務室の入口に立っていた。判断を委ねる視線だった。命令ではない。
「はい」
返事は反射だった。三人を同時に治すのは、砦に来てから最大の規模になる。代価がどれだけ重くなるか、身体が覚えている。でも目の前で血が流れている。断るという選択肢が浮かぶ前に、手が動いていた。
一人目。腹部の裂傷に手を当て、光を通す。内臓まで達した損傷を塞ぐのに、指先の感覚が遠くなった。
二人目。脚の骨折。骨を繋ぐ治癒は筋肉の修復より消耗が激しい。視界の端が暗くなり始めた。
三人目。肩から胸にかけての傷。最も深い。光が奥に届くまでに時間がかかった。手が震えた。
三人目の治癒が終わった瞬間、エルザの身体から力が抜けた。
椅子に座っていたはずが、椅子ごと傾いだ。床に崩れ落ちる寸前で、誰かの腕がエルザの肩を支えた。
マルタだった。薬草を届けに来た足で、医務室に飛び込んでいた。
「……っ」
エルザの目の焦点が合わない。呼吸が浅く、速い。指先の感覚がない。額に汗が浮いている。
マルタはエルザを支えたまま、その顔を覗き込んだ。長い沈黙の後、低い声で言った。
「……これが、あんたの代価かい」
エルザは答えられなかった。声を出す力が残っていなかった。
マルタの目が細くなった。怒りではない。もっと静かな、何かを理解した人間の顔だった。
丸一日が過ぎた。
エルザが目を開けたのは、翌日の午後だった。医務室の簡易寝台に寝かされていた。身体が重い。指先にようやく感覚が戻り始めている。
最初に見えたのは、椅子の背にかけられた外套だった。
見覚えのある、使い込まれた深い色の外套。ユルゲンのものだ。
「あ、エルザさん起きた!」
トビアスが寝台の脇に座っていた。
「それ隊長のっすよ。昨日からずっとここにいて、エルザさんが寝てる間ずっと——あ、おれ言っちゃダメだったかな」
トビアスが口を押さえたが、遅かった。
ずっとここにいた。エルザが意識を失っている間、ユルゲンはこの椅子に座っていた。そして外套を——エルザに、ではなく、椅子の背にかけて去った。まるでたまたまそこに置いたかのように。
エルザは身体を起こした。まだふらつく。外套に手を伸ばした。厚い生地の重みが掌に伝わった。
トビアスが部屋を出た後、廊下をユルゲンが通りかかった。エルザの目が合った。
「ユルゲンさん。外套、ありがとうございます」
ユルゲンは一瞬足を止めた。視線がエルザの手元——外套を持つ指に向き、すぐに逸れた。
「……備品だ」
声がいつもより低かった。
備品。砦の備品が個人の外套であるはずがない。嘘だった。下手な嘘だった。それが分かってしまうくらい、この人の声は正直だった。
ユルゲンは背を向けて去った。外套を回収もせずに。
夕刻、行商人が砦に着いた。
今回の行商人は前回とは別の男で、王都の噂をより具体的に持っていた。エルザが医務室を片づけていると、マルタが入ってきた。
「行商人から聞いたよ。王都の疫病、広がってる。死者が出始めてるって」
エルザの手が止まった。
「……死者」
「第二聖女が治癒を試みるたびに倒れてるらしい。対応しきれてないってさ」
リーネ。治癒の力はあるが、大規模治癒に耐えるだけの経験がない。三ヶ月前、エルザが王都で最後にやったような規模の治癒を、経験の浅い聖女が繰り返せば、倒れるのは当然だった。
エルザの胸が締まった。
「わたしが王都にいれば……」
言いかけて、止まった。マルタが黙ってエルザを見ていた。
「で、あんたはどうしたいの。戻りたいのかい」
マルタの声は断定的で、飾りがなかった。問いの形をしているが、判断を急かしてはいない。ただ訊いている。あんたは、どうしたいのか。
エルザは答えられなかった。
戻れば助かる命がある。それは確かだった。でもここにも、昨日の三人のように治癒を必要とする兵士がいる。ここを離れれば砦は元に戻る——怪我をしても放っておくしかない日々に。
それに——。
外套の重みが、まだ掌に残っていた。
「……分かりません」
マルタは何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ薬草の籠を棚に置いて、出ていった。
エルザは一人で窓の外を見た。王都の方角には、何も見えない。早馬で五日の距離。そこで人が死んでいる。わたしがいれば救える命がある。聖女はそのために存在する。そう教えられてきた。
でも、ここにいたい。
この砦で薬草を学び、兵士たちの名前を覚え、治癒の記録を帳面に書き足してもらう日々を、手放したくない。それは聖女としての使命とは何の関係もない、わたし個人の感情だった。
聖女としてここにいるだけだ。それは分かっている。軍属委任書があるからここにいられる。聖女の治癒力が必要とされているから、砦がわたしを受け入れている。でも——あの外套は備品ではなかった。
外套は温かかった。「備品だ」と言ったあの人の声は、いつもより低かった。
嘘が下手な人だった。
そして、わたしは今、その下手な嘘に救われている。王都に戻るべきだと思う心と、ここにいたいと思う心の間で、あの外套の温もりだけが確かだった。
でも——聖女としてここにいるだけなのだとしたら。この温もりに頼る資格が、わたしにあるのだろうか。
窓の外で、夕陽が北嶺の山肌を赤く染めていた。神殿長がわたしの居場所をいつ把握するのか、分からない。軍属委任書の写しは王都に届いているはずだった。あの情報がどこまで流れるのかは、ここからでは確かめようがなかった。




