第5話「八枚の手紙」
「隊長って、手紙だと長いのに、なんで喋ると三語なんすか?」
トビアスの声が砦の中庭に響いた。朝の訓練が終わり、兵士たちが汗を拭いている中、トビアスだけが隊長室の方に向かって大声を投げていた。返答はない。
エルザはその声を背中で聞きながら、砦の裏手に向かった。薬草畑でマルタが待っている。
マルタは畑の端にしゃがみ、乾燥棚に薬草を並べていた。
「来たね。手を動かしな」
エルザは隣にしゃがんだ。マルタが棚に広げているのは、葉の厚い山草だった。
「これは何に使うんですか」
「煎じれば熱冷ましになる。乾燥の加減で効きが変わるから、日陰で三日、裏返して二日。覚えな」
エルザは手を動かしながら、葉の手触りを確かめた。治癒術とはまったく違う手触りだった。治癒は光で傷を塞ぐ。でも薬草は、時間をかけて身体を整える。
「治すのは聖女の仕事。でも予防するのは、ここに住む人間の仕事だよ」
マルタは手を止めずに言った。
「冬になれば砦の連中は風邪を引く。あんたが一人ずつ治して回るつもりかい。それとも、風邪を引かないように薬草茶を配るかい」
聖女でなくてもできること。治癒の力を使わずに、人の身体を助ける方法。王都ではそんなことを考える余地がなかった。次から次へと治癒を求められ、断れず、応じ、消耗し、また求められる。予防という発想は、立ち止まって初めて見える景色だった。
「マルタさん。わたしに、教えてもらえますか」
マルタが横目でエルザを見た。
「あんたが来たいなら来な。ここの畑は誰でも使える」
それが許可だった。マルタの言葉に装飾はない。だからこそ安心した。
午後、エルザが医務室に戻ると、トビアスが廊下で腕を組んで待っていた。
「エルザさん、聞いてくださいよ」
「どうしたんですか、トビアスさん」
「隊長、昨日の夜ずっと何か書いてたんすよ。報告書は五枚で終わるのに、なんか別の紙に八枚も書いてて。おれ覗こうとしたら机ごと隠されたんすけど」
エルザの足が止まった。
「八枚?」
「そうっすよ八枚。報告書じゃないってことは私信じゃないすか。で、隊長が私信を書く相手って誰っすかね」
トビアスが首を傾げた。本気で分かっていない顔だった。
「あ、もしかしてエルザさん宛っすか?」
エルザは答えなかった。答えられなかった。八枚。報告書ではない手紙を八枚。ユルゲンが対面で口にする言葉は数語なのに、紙の上では何枚でも書く人だということは知っていた。砦に来る前に受け取った手紙がそうだった。
でも八枚は——渡されていない。
「あ、隊長」
トビアスの視線が廊下の奥に向いた。ユルゲンが角を曲がってきたところだった。手には何も持っていない。
「トビアス。今朝の報告はまだか」
「あ、やべ。すんません隊長、今やります。——あ、でも昨日の手紙の話なんすけど」
「……黙れ」
「やっぱりそうじゃないすか! エルザさん宛でしょ!」
ユルゲンの顔は動かなかった。だが一瞬だけ視線がエルザに向き、すぐに逸れた。
「任務に戻れ」
トビアスが「はいはいー」と軽く返事をして去っていく。廊下にはエルザとユルゲンだけが残った。
沈黙が重い。ユルゲンは口を開かない。エルザも何と言えばいいか分からなかった。
「……薬草畑はどうだった」
唐突にユルゲンが言った。
「マルタさんに乾燥の方法を教えてもらいました」
「……そうか」
それだけだった。ユルゲンは頷いて、医務室の前を通り過ぎていった。八枚の手紙のことには一切触れなかった。書いたのに渡さない。対面では「薬草畑はどうだった」しか言えない。
この人は、紙の上でしか言葉を使えないのだろうか。
夜になった。砦の城壁の上に出ると、冷たい風が顔に当たった。
空には星が広がっていた。王都では建物が邪魔をして見えなかった空の端まで、ここでは光が散らばっている。エルザは城壁の縁に手をつき、星を見上げた。
背後で足音がした。振り返らなくても分かった。革鎧が衣擦れする音。ユルゲンの歩き方だった。
彼は何も言わず、エルザの隣に立った。腕一つ分の距離を空けて。
長い沈黙が流れた。風の音と、遠くの虫の声だけが聞こえる。
「ここの兵士さんたち、わたしの名前を呼んでくれますね」
エルザは星を見たまま言った。
王都では「聖女様」だった。名前で呼ばれることはほとんどなかった。殿下ですら、婚約者であるのに、公の場では「聖女」と呼んだ。お前は聖女だから価値がある。名前は添え物だった。
「……当然だ。お前はお前の名前で、ここにいる」
ユルゲンの声は低く、短かった。でも言葉の芯は硬かった。
エルザは城壁の石に指先を這わせた。冷たい。でも嫌ではなかった。
お前はお前の名前で、ここにいる。
この人にとって、わたしは「聖女」ではなく「エルザ」なのだろうか。治癒の力があるから呼んだのか、それとも——八枚の手紙に、その答えが書いてあるのだろうか。
ユルゲンは黙って星を見ていた。何も聞かない。何も言わない。ただ隣にいる。
エルザは口の中で小さく呟いた。
隊長殿、じゃなくて——ユルゲンさん。
声には出さなかった。でも頭の中で、呼び方が変わっていた。
翌朝、エルザはトビアスに話しかけようとして、口から出た言葉に自分で驚いた。
「ユルゲンさんは、今日も書庫にいますか?」
トビアスが目を丸くした。
「え。ユルゲンさん? 隊長のこと?」
エルザは自分の言葉を反芻した。隊長殿、と言うつもりだった。でも出てきたのは名前だった。
「……はい。ユルゲンさんです」
トビアスが一瞬きょとんとして、それから顔を綻ばせた。
「いやー、なんか距離縮まってないすか? いいっすね。隊長、書庫じゃなくて執務室にいると思いますよ」
エルザは頷いて歩き出した。廊下を進みながら、胸の奥が温かいことに気づいた。
ここでは、わたしは「エルザさん」と呼ばれる。名前で呼ばれることが温かかった。そして——自分もあの人を名前で呼びたいと、思った。
でも同時に、小さな棘がある。ここにいることが嬉しい。でもそれは、聖女としてここに求められたからであって、この場所がいつまで続くのかは分からない。王都ではまだ風邪が流行っているはずだった。わたしがここにいていい根拠は、軍属委任書の一枚だけだ。
ユルゲンが書いて渡さなかった八枚の手紙。その中身は知らない。でもあの人は確かに、紙の上ではわたしに向けて言葉を綴っている。報告書の五枚よりも長い、渡す相手のいない手紙を。
その理由はまだ聞けない。でも、名前を呼ぶことはできた。




