第4話「成果の帳面」
千四百回。代価を踏み倒された回数。
夜の部屋で、エルザは手帳を膝の上に開いていた。蝋燭の灯りに照らされた頁には、正の字と短い走り書きが詰まっている。
治癒三千百十二回。感謝の言葉が返ってきた回数——もう正確には数えきれなくなった。砦に来てから兵士たちの声が多すぎて、手帳の数字が追いつかない。代価の説明を聞いてもらえた回数、〇回。十年間、一度もなかった。治癒の後に身体が動かなくなることを、王都の誰にも話せなかった。話しても「聖女なのだから当然だ」と返されるだけだった。
手帳を閉じた。擦り切れた革表紙の感触が、指先に馴染んでいる。
翌朝、医務室に向かうと、ユルゲンが扉の前に立っていた。
手に一冊の帳面を持っている。手帳より一回り大きい、新しい革表紙の帳面だった。
「これを渡す」
差し出された帳面を受け取る。開いてみて、エルザの手が止まった。
兵士の名前、症状、治癒を受けた日付、回復に要した日数。一頁ごとに一人分。几帳面な文字で、飾り気なく、正確に。トビアスの名前が最初の頁にあった。右腕の裂傷、化膿。治癒後の経過、良好。次の頁は膝の兵士。その次は肩。腰。古傷。
砦に来てからエルザが治癒した全員分が記録されていた。
「……これは」
「治療記録だ。あなたがやったことの成果を、あなた自身が知るべきだ」
ユルゲンの声は平坦だった。いつもの短い言葉。だが帳面に書かれた文字は手紙と同じ筆跡で、丁寧で、一つの誤字もなかった。
エルザは頁をめくった。名前と症状だけではない。「訓練復帰」「巡回任務に復帰」「三年ぶりに走れるようになった」——回復後の状態まで書かれている。エルザが治癒した結果、その兵士がどうなったか。
手帳には搾取の記録だけがある。何回治した、何回感謝されなかった、何回代価を無視された。でもこの帳面には、治した後の世界が書かれている。
視界が滲んだ。
「エルザ殿」
ユルゲンの声に、エルザは顔を上げた。呼び方が変わっていた。「聖女殿」ではなく「エルザ殿」。いつから変えたのか、あるいは今この瞬間からなのか、分からなかった。
「すみません。少し——」
言葉が続かなかった。帳面を胸の前に抱えて、目元を袖で押さえた。泣いているわけではない。泣いているのかもしれない。自分でも分からなかった。
ユルゲンは黙って待っていた。何も言わず、目を逸らしもせず。
この人はわたしの仕事を記録していた。成果として。誰にも認められなかったものを、この人は帳面に残していた。
——でも、なぜ。
治癒能力の査定のためだとしたら。砦にとって有用な人材の業績を記録するのは、管理として当然のことだ。ユルゲンは隊長で、エルザは軍属医療官で、記録を取るのは上官の職務かもしれない。
信じたかった。でも確信が持てない。その一抹のずれが、胸の奥に残った。
廊下をトビアスが通りかかった。
「あ、隊長。またエルザさんのところにいるんすか。エルザさんのこと見すぎじゃないっすか?」
「……黙れ」
「いやだって最近ずっと——」
「トビアス。任務に戻れ」
トビアスが肩を竦めて去っていく。「見すぎ」という言葉が廊下に残った。能力を監視しているのか、それとも気にかけているのか。トビアスの無邪気な指摘は、どちらの意味にも取れた。
ユルゲンは背を向けた。
「帳面は好きに使え。書き足すのは俺がやる」
そう言って廊下の奥に消えた。
夕刻、砦の門に行商人の馬車が着いた。
行商人は砦に生活物資を届けるついでに、王都の噂を兵士たちに話して回る。エルザが医務室を片づけていると、トビアスが駆け込んできた。
「エルザさん、行商のおっちゃんが言ってたんすけど、王都で風邪が流行ってるらしいっすよ」
「風邪?」
「なんか結構広がってるみたいで。でも新しい聖女様が頑張ってるから大丈夫だろうって」
新しい聖女。リーネのことだろう。婚約破棄の前から神殿長ヘルダが育てていた第二聖女。エルザが王都を離れた後、治癒の務めを引き継いだはずだった。
「神殿長様がすごく大事にしてるって話っすよ。手取り足取り指導してるとか」
トビアスは悪気なく続けた。エルザは帳面を机の上に置いた。
ヘルダ神殿長。穏やかな声と柔らかな物腰の聖職者。エルザの聖女認定を執り行い、十年間の務めを管理した人。厳しくはなかったが、温かくもなかった。必要な場所に必要なだけ配置する。そういう目でエルザを見ていた気がする。
でも、リーネには手取り足取り。
「エルザさん? どうしたんすか?」
「いいえ、何でもないです。教えてくれてありがとう、トビアスさん」
トビアスが去った後、エルザは一人で窓の外を見た。王都の方角には何も見えない。早馬で五日の距離。風邪が流行っている。でもここからは確かめようがない。
机の上に、二冊が並んでいた。
擦り切れた革表紙の手帳と、新しい革表紙の帳面。
どちらもわたしの記録だ。片方には十年分の搾取が詰まっている。感謝されなかった回数、代価を無視された回数、「分かってくれるだろう」と言われた回数。もう片方には、砦に来てからの数日間の成果が書かれている。名前と症状と、回復した後の姿。
同じ「記録」なのに、帳面の文字は無骨で、お世辞も飾りもなくて、だからこそ——。
信じたい。
でも、裏切られることに、もう慣れてしまった。殿下はいつも「エルザのためになる」と言った。神殿長様はいつも「聖女の務めですから」と微笑んだ。言葉が優しいほど、中身が空洞だった。
ユルゲンの言葉は短い。帳面の文字は素朴だ。そこに何かがある気がするのに、手を伸ばすのが怖い。
王都では今、風邪が流行っている。新しい聖女が、神殿長に大事にされながら、治癒の務めを果たしている。
わたしがいた場所に、わたしの代わりがいる。
帳面を開いた。最後の頁の後ろは、まだ白紙だった。ユルゲンがこれから書き足すと言った白紙。この余白がどこまで続くのかは分からない。
手帳をその隣に置いた。二冊の厚みの差が、十年と数日の差だった。




