第3話「叫ぶ兵たち」
エルザは砦の裏手で、雑草に埋もれかけた薬草畑を見つけて、しゃがみ込んだ。
誰かが世話をしていた痕跡がある。畝の形は残っているし、数種の薬草は根を張ったまま生きている。だが手入れが追いついていない。雑草が薬草を圧し始めていた。
「見る目はあるね」
背後から声がした。振り返ると、灰色の髪を後ろで一本に束ねた女が立っていた。日に焼けた肌、深い皺、そして値踏みするような目。手には薬草を束ねた籠を提げている。
「あたしはマルタ。この畑の持ち主さ。砦に薬草を納めてる」
「エルザ・リヒテンです。砦の軍属医療官として——」
「聖女だろう。聞いてるよ」
マルタはエルザの隣にしゃがみ、雑草を一本引き抜いた。手つきに迷いがない。
「で、あんたは治すだけの人? それとも育てる人?」
「……え?」
「治癒の力があるのは知ってる。でもね、薬草ってのは治すためだけじゃなく、病気を防ぐためにもあるんだよ。あんたが治せるのは目の前の傷だけだろう。ここの連中が風邪を引かないようにするのは、あんたの力じゃなくて、この畑の仕事だ」
エルザは言葉を探した。治すだけの人か、育てる人か。考えたことがなかった。聖女として求められるのはいつも治癒だった。予防という発想が、自分の中に存在しなかったことに気づいた。
マルタは返答を待たず立ち上がった。
「まあ、見てな。あんたが聖女だろうが何だろうが、この畑は水をやらなきゃ枯れる」
籠を肩にかけ直して、砦の裏門に向かって歩いていった。
午後になると、兵士たちが医務室の前に並び始めた。
最初は二人だった。巡回中に岩場で膝を打った兵士と、訓練で肩を痛めた兵士。エルザがトビアスを治癒した噂が砦中に広まっていた。
「聖女様、おれの膝もお願いできますか」
「はい」
反射だった。断る言葉が出てこない。治せるのだから治す。求められたのだから応える。
二人が終わると、廊下に三人目がいた。その後ろに四人目。振り返れば五人目。
「腰が、もう三年ぐらいずっと痛くて——」
「はい」
「こっちの古傷なんすけど、雨の日に疼くんです——」
「はい」
一人治すたびに指先から力が抜けていく。椅子に座ったまま治癒を続けた。立つと倒れそうだったから。でも口は「はい」と言い続けた。次の人が待っている。断ったら、この人たちは古傷を抱えたまま戦場に出る。
六人目を治し終えたとき、腰の兵士が椅子から飛び上がった。
「う——嘘だろ! 三年だぞ! 三年痛かった腰が——聖女様ありがとうございます!」
声が廊下に響いた。すると肩を治した兵士も負けじと叫んだ。
「おれも! おれも全然痛くないっす! ありがとうございます!」
「膝が曲がる! 聖女様万歳!」
「古傷が消えた! こんなの初めてだ!」
四人が同時に声を上げた。狭い廊下が感謝の怒号で揺れた。エルザは椅子の上で目を丸くした。
トビアスが廊下の奥から駆けてきた。
「ちょ、おれの時より声でかくないすか!? おれが一番最初に治してもらったのに!」
「うるせえトビアス、お前は怪我が軽かっただろ!」
「軽くないっすよ! 化膿してたんすよ!」
兵士たちの声がさらに重なった。収拾がつかない。エルザは笑えばいいのか泣けばいいのか分からなかった。王都では一度もなかった光景だ。治癒を終えた相手が競い合うように感謝を叫ぶなど、想像したこともなかった。
七人目が廊下の角から顔を出した。
「あの、聖女様、おれの足首も——」
「はい」
また口が動いた。拒否の言葉を知らない身体が、自動で応答した。
「今日はここまでだ」
低い声が廊下を断ち切った。
ユルゲンが医務室の入口に立っていた。腕を組み、兵士たちを見渡している。
「隊長殿、まだ大丈夫です」
エルザは立ち上がろうとした。膝が震えた。椅子の肘掛を掴んで身体を支えたが、立てなかった。
ユルゲンはそれを見ていた。表情は変わらない。
「命令だ」
それだけだった。理由は言わない。エルザの身体の状態に触れもしない。ただ短い断定で列を断ち切った。
兵士たちが渋々ながら散っていく。「また明日お願いします!」「聖女様ありがとうございました!」と口々に言いながら。トビアスが最後まで残って「エルザさん、大丈夫っすか?」と覗き込み、ユルゲンに「行け」と言われてようやく去った。
廊下が静かになった。
ユルゲンはまだ入口にいた。エルザを見ている。何かを確認するように。あるいは、何かを判断するように。
「……休め」
一語だけ残して、背を向けた。
部屋に戻り、寝台に腰を下ろした。指先の感覚がまだ戻らない。
エルザは手帳を開いた。今日の治癒を記録する。六件。代価、重度。感謝——数えきれなかった。一人あたり何度も叫んでいたから、正確な回数が分からない。
手帳を閉じて、天井を見上げた。
ここでは感謝される。声が大きすぎて、数えるのが追いつかないほど。
でも——あの人が止めたのは、なぜだろう。
わたしの身体を案じたからか。それとも、治癒の力を長く使えるように消耗を管理しているだけなのか。王都では「お前なら分かってくれるだろう」の一言で際限なく治癒を求められた。ここでは命令一つで列が止まる。どちらがいいのかは分からない。でも結果だけを見れば、今日わたしが潰れなかったのは、あの命令があったからだ。
寡黙で表情が読めない。手紙では丁寧なのに、声にすると素っ気ない。護衛を手配していたのに理由を言わない。治癒を止めたのに根拠を説明しない。
筋を通す人だとは思う。でもその筋が、わたしのためなのか、砦のためなのか、まだ判断できない。
手帳を荷物に戻しながら、朝のマルタの言葉が浮かんだ。
治すだけの人か、育てる人か。
治癒以外にもできることがあるのかもしれない。この砦には薬草畑があり、雑草に埋もれかけた畝がある。聖女の力が届かない場所を、別の手段で補う方法が。
窓の外では、兵士たちの訓練の声が響いていた。その中にトビアスの声が混じっている。「おれ、腕の調子最高なんすけど!」と叫んでいるのが聞こえた。
エルザは小さく息を吐いた。
「黙れ」とあの人は言った。兵士たちは黙らなかった。あの人だけが、止める側にいた。
それが優しさなのかどうか、まだ分からない。




