第2話「九回目の声」
「いっ、痛くないっすか?」
トビアスが目を固く閉じたまま言った。エルザの手が彼の右腕に触れている。昨日応急で治癒した傷とは別の、古い裂傷の痕だった。塞がりかけた皮膚の下にまだ炎症が残っていると、昨夜の診察で分かった。
「じっとしていてくださいね」
エルザは指先に意識を集中した。淡い光が掌から滲み出す。昨日の治癒は表層だけを塞ぐ軽いものだったが、今回は炎症の根まで届かせなければならない。光が皮膚の奥へ沈んでいく。トビアスの腕の中で、損傷した組織が再生していく手応えがあった。
十秒。二十秒。三十秒。
光が消えた。
傷は跡形もない。炎症も残っていない。エルザはそっと手を離し、そのまま椅子の背もたれに体を預けた。
立てなかった。
指先の感覚が遠い。視界の縁が暗く滲んで、呼吸が浅くなる。昨日の軽い治癒とは比較にならない消耗だった。深部まで治癒の力を通すと、身体が対価を求める。まるで自分の中の何かを燃料にして、他人の傷を塞いでいるような感覚。
「エルザさん? あれ、顔白くないっすか?」
トビアスが自分の腕を見るのをやめて、エルザの顔を覗き込んだ。
「大丈夫です」
声が掠れた。大丈夫ではなかった。でもそう答える癖がついている。
「え、こんなにしんどいんすか? 治すのって」
トビアスの目が大きく見開かれた。治癒された側は痛みが消えるだけで、術者の消耗は外からでは分かりにくい。王都でも、治癒の後にエルザが椅子から立てなくなることを知っている人間はほとんどいなかった。
「少し休めば戻りますから。気にしないでください」
「いや、気にするっすよ! おれのせいでそんな——」
「トビアスさんのせいではないです」
エルザは小さく首を振った。代価は治癒のたびに発生する。相手が誰であっても、傷が深ければそれだけ重くなる。それだけのことだ。
トビアスは治癒された右腕をさすりながら、しばらくエルザの顔を見ていた。やがて、息を大きく吸い込んだ。
「ありがとうございます!」
昨日と同じ、廊下中に響く声。だが昨日よりも深く頭を下げていた。
エルザの心の中で、数字が動いた。
感謝は九回。十年で、たった九回。そのうちの二回がこの少年兵からだった。王都では治癒を終えた相手の大半が、当然のような顔で立ち去った。お前なら分かってくれるだろう。だから治してくれるだろう。ありがとうは要らないだろう。
「トビアス。聖女殿を休ませろ」
入口にユルゲンが立っていた。いつからいたのか分からない。壁に背を預け、腕を組んでいる。表情は昨日と変わらず薄い。エルザの消耗を見ていたのか、トビアスの治癒を確認しに来たのか、判断がつかなかった。
「あ、隊長。エルザさん、治癒するとすげえしんどいらしいっすよ」
「……聞こえていた」
トビアスを目で促して退室させると、ユルゲンは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。折り畳まれた公式の書式。砦の印章が押されている。
「軍属医療官の委任書だ。砦の準戦時人事権に基づいて、俺の権限で発行する」
エルザに向けて差し出す。その手は無造作だったが、書面自体は几帳面に整えられていた。
「これで正式だ。……断る権利も、残る」
エルザは委任書を受け取った。砦の守備隊長が軍属の人員を任命する権限を持つこと、聖女であっても軍属として所属すれば砦の管轄下に入ること。手紙で事前に説明されていた内容だった。
聖女は神殿長が認定し、国王が追認する。居住地の変更には本来、神殿長の許可が要る。だが婚約破棄の混乱の中で出発し、神殿が次の処遇を決める前にここに着いた。この委任書は、エルザがこの砦にいるための法的な根拠になる。
「ありがとうございます、隊長殿」
「……一つ聞く」
ユルゲンが視線をわずかに逸らした。
「護衛の手配書は届かなかったか」
エルザの手が止まった。
「……いいえ、お手紙しか」
「……そうか」
短い沈黙。ユルゲンは何かを言いかけたように見えたが、結局口を閉じた。
護衛の手配。つまりこの人は、手紙を送ると同時に、わたしが砦まで安全に来られるように護衛兵を中継駅に手配していた。旅の後半で合流した護衛兵は、偶然ではなかったのだ。
けれどエルザは、手配が届く前に王都を発っていた。婚約破棄の翌朝、神殿が動く前に。だから旅の前半は一人だった。
この人は、そこまで考えて準備していたのか。
エルザはユルゲンの横顔を見た。彼は既に背を向けかけていた。表情は読めない。手紙では何枚もの紙面を費やして砦の状況を説明し、治癒の必要性を論理的に述べ、最後に「断っていい」と書いた人。対面では三語か四語で会話を終わらせる人。
護衛まで手配していた。それは、エルザの治癒能力を確実に砦へ届けるための合理的判断なのか。それとも——。
「隊長殿」
ユルゲンが足を止めた。振り返らない。
「この委任書の写しは、王都にも送られるのですか」
「軍務局に早馬で送付する。五日で届く」
つまり、五日後には王都の軍務局にエルザの砦での軍属登録が記録される。神殿にその情報が届くかどうかは分からないが、少なくとも公的な記録として残る。
「分かりました」
ユルゲンは頷いた。それだけで廊下へ出ていった。
部屋に一人残されて、エルザは委任書を机の上に広げた。
隣に、革表紙の手帳を置く。
委任書には砦の名と、ユルゲンの署名と、日付が記されていた。無骨だが正確な文字。手紙と同じ筆跡だった。
手帳を開いた。最後のページに書き足す。
治癒。二件目。トビアスの深部炎症。代価、中程度。
その下に、小さく。
感謝。九回目。
数字が一つ増えた。たった一つ。でもこの砦に来てから、二日で二回増えた。王都での十年間より多い。
委任書を畳み直しながら、エルザはユルゲンの声を思い出していた。断る権利も残る。護衛の手配書は届かなかったか。
あの人は護衛まで手配していた。
——でも、その理由を聞く勇気は、まだない。
ここでも役に立てるなら。そう思うことで、この場所にいる自分を許せる気がした。
王都では今頃、エルザがいないことにまだ誰も気づいていないだろう。早馬で五日の距離。書簡なら七日から十日。あの場所からここは、それだけ遠い。
手帳を閉じて、荷物の一番上に戻した。擦り切れた革表紙の下で、十年分の正の字が重なっている。
九回目の数字だけが、少しだけ新しかった。




