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「お前なら分かってくれるだろう」を三千回聞いた 聖女は、「断っていい」と手紙にだけ書いた寡黙な隊長の砦で初めて断ることを知る  作者: 月雅


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第1話「末尾の一行」

北嶺街道を吹き抜ける風は、王都のどこよりも冷たかった。


エルザは外套の襟を片手で押さえながら、もう片方の手で折り畳まれた手紙を開いた。何度も開いたせいで折り目が柔らかくなっている。風に煽られて紙の端がばたついた。


文字を追う必要はなかった。もう覚えている。


けれど目は勝手に末尾へ落ちる。


『——断ってくれて構わない。』


その一行だけが、いつも最後に残る。


三千百十二回。


治癒を求められ、「お前なら分かってくれるだろう」と言われた回数。手帳に正の字で刻み続けた数字だった。分かってくれるだろう、という言葉には、いつも断る余地がなかった。分かるのだから治せ。治せるのだから治せ。それが十年間、途切れることなく続いた。


断っていい、と書いた人がいる。


会ったこともない辺境の守備隊長が、聖女宛ての手紙にそう書いた。砦には負傷兵が絶えない、治癒の力を貸してほしい——その依頼の末尾に、たった一行だけ。


エルザは手紙を畳み直し、荷物の中に戻した。革の表紙が擦り切れた小さな手帳の隣に。荷物の一番上、すぐ手が届く場所にいつも入れている手帳は、閉じた背の厚みが歪なほど膨らんでいた。十年分の記録の重さだった。


街道の先に、灰色の石壁が見えた。


北嶺砦。王都から早馬で五日、通常の旅路ならそれ以上かかる最果ての砦。魔物との最前線。


ここに来たのは、求められたからだ。


エルザは自分にそう言い聞かせた。婚約を破棄された翌朝、荷物をまとめた。護衛はもういなかった。王太子の婚約者としての護衛だったから、婚約がなくなれば根拠もなくなる。神殿が次の処遇を決める前に、手紙に応じて出発した。中継駅で手配済みの護衛兵と合流できたのは幸運だったのか、それとも——あの手紙の主が、そこまで手を回していたのか。


砦の門は開いていた。


門の内側に、一人の男が立っていた。長身で、外套の下に革鎧を着けている。腰の剣は使い込まれた実戦用のもの。日に焼けた顔に表情は薄く、こちらを見る目は静かだった。


エルザは背筋を伸ばし、一歩前に出た。


「エルザ・リヒテンです。お手紙をいただき——」


「……来たのか」


三語だった。


手紙では何枚も丁寧な言葉を連ねた人が、声にするとこれだけだった。低く、短く、抑揚のない声。


ユルゲン・ヴェーバー。北嶺砦守備隊長。


エルザは言葉を探した。手紙の文面と目の前の人物が、うまく重ならない。あの几帳面で論理的な長文を書いた人が、この寡黙な男なのだろうか。


ユルゲンの視線がエルザの荷物に動いた。一番上に収まった革表紙の手帳に、一瞬だけ目が止まる。


何も言わなかった。


「部屋に案内する」


それだけ言って背を向けた。エルザは黙ってその後に続いた。


砦の中は、王都の神殿とは何もかもが違っていた。


石壁は厚く、窓は小さい。廊下は人がすれ違うのがやっとの幅で、すきま風が足元を這う。兵士たちが行き交うたびに革鎧の擦れる音がした。磨かれた大理石も、色硝子の窓も、花を活けた銀の瓶もない。ここは戦うための場所だった。


通された部屋は小さかった。木の寝台と、机と、椅子が一つ。それだけ。


「足りないものがあれば言え」


ユルゲンは入口に立ったまま言った。部屋の中に入ろうとしなかった。


「ありがとうございます、隊長殿。十分です」


「……そうか」


また短い。エルザが何か言う前に、廊下から駆け足の音がした。


「隊長ーっ! あの、聖女様ってもう来て——うおっ、いた!」


若い兵士が廊下の角から飛び出してきた。亜麻色の髪を短く刈り上げた、十代の少年兵。右腕に布を巻いている。血が滲んでいた。


「トビアス。騒ぐな」


「いや、だって隊長が聖女様来るって言うから——」


トビアスと呼ばれた少年兵は、エルザの顔を見て目を丸くした。


「え、あの、本物の聖女様っすか?」


「トビアス」


ユルゲンの声が低くなった。トビアスは一瞬肩を竦めたが、すぐにエルザに向き直った。


「あの、おれトビアスっす。ここの兵士で——聖女様って本当に治せるんすか? 怪我とか」


布の下の傷が目に入った。深くはないが、化膿しかけている。手当てが遅れたのだ。辺境の砦に専属の医療官はいない。薬草を塗って布を巻くのが精一杯だったのだろう。


エルザの唇が動いた。


「はい」


反射だった。考えるより先に返事が出た。求められたら応える。十年間そうしてきた。身体がそう覚えている。


——でも。


「はい」の後に、一瞬だけ間があった。


ほんの一拍。自分でも気づかないほど短い沈黙。ここでも同じなのだろうか、と思った。治せるから治せ。分かるだろう。お前なら。


トビアスが腕を差し出した。怖がっているのか、指先が少し震えていた。


「痛くないっすか? いや、おれが聞くのも変っすけど」


痛くない。痛いのはわたしのほうだ。


そう思ったが、口には出さなかった。


「大丈夫ですよ。少しだけ、じっとしていてくださいね」


エルザはトビアスの腕にそっと手を当てた。淡い光が指先から滲む。治癒術。聖女だけが行使できる、この世界で唯一の魔法。


光が傷口を覆い、化膿した皮膚が塞がっていく。トビアスが目を見開いた。


「うわ——すっげえ……痛くねえ……」


数秒で治癒は終わった。傷は跡形もなく消えている。


その代わり、エルザの指先から力が抜けた。視界の端がわずかに暗くなる。椅子の背に手をついた。


——この程度の傷で、この消耗。最近、代価が重くなっている。


トビアスは自分の腕をまじまじと見つめていた。傷があった場所を何度も撫でて、それからエルザを見た。


「ありがとうございます!」


大きな声だった。廊下に響くほどの。


エルザは目を瞬いた。


「え——」


「ありがとうございます、マジで! すげえっす! 全然痛くないし跡もないし——ありがとうございます!」


同じ言葉を三度。声が裏返っていた。


エルザは椅子の背を掴んだまま、トビアスを見た。


九回目。


三千百十二回のうち、感謝の言葉が返ってきたのは八回。今ので九回目。孤児院を出てから十年、治癒を施した相手の大半は、治ったことを確認すると「やはり聖女は便利だ」とでも言うように頷いて去っていった。お前なら分かってくれるだろう。だから治してくれるだろう。礼を言う必要もないだろう。


九回目の感謝は、辺境の砦の少年兵からだった。


ユルゲンは入口に立ったまま、黙ってこちらを見ていた。表情は変わらない。何を考えているのか分からない。


手紙では、「断っていい」と書いた人。


声では、「来たのか」としか言わない人。


——この人は、手紙の通りの人なのだろうか。


エルザは椅子の背から手を離した。指先にまだ力が戻りきっていなかったが、それを悟られないように、静かに手帳の入った荷物に手を伸ばした。


革表紙の手帳。擦り切れた角。十年分の厚み。


この砦で、この手帳にどんな数字が刻まれるのかは、まだ分からない。


トビアスがまだ腕を撫でながら「マジすげえ」と繰り返す声が、石壁の廊下に反響していた。

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