6話 出会いの日
私がその日、成海晶という男の子に会ったのは二度のことだった。
一度目は、高校入試本番まさにその日の朝のことだ。
「もしかしてこれ落としませんでしたか?」
変声期特有の色香が感じさせるような、そんな声がした。その声音の方を振り返る。
眼前の彼が差し出すのは受験票。たった今私が慌てて探していたものであった。
何より探していたものを差し出されたことよりも、思わずその彼に目を留めた。男子にしては、かなり長い髪の毛と鼻筋の通った整った容姿。特に紅でも塗ったかのような色艶のいい唇は、どこか不思議な色気を感じさせた。状況もあいまって、まるで天使とか女神とかと錯覚するのも仕方がないことかもしれない。
「あ、ありがとうございます!もうほんとに終わったと思って……」
「受験票は受付で再発行もできるから、余計なお世話かなって思ったんだけど。あんまり慌ててるから、もしかしてって」
校舎への入口、下駄箱の手前あたりでカバンをひっくり返そうかと思っていた姿を、どうやら見られていたらしい。ようやくここで羞恥心が戻ってきた。
とはいえ筆記用具を忘れ、受験票すら落としていたことに気がついた時にはもう本当にこの世の終わりのような気分にまで落ちていたのだ。
前日あれだけ必死に準備をしたのに。当日の朝になって路線の遅延が起きていたりで慌てて家を飛び出したせいだ。
つい、愚痴をこぼすように呟いてしまう。
「貸してもらえるみたいだけど、良かったらこれ使って」
そんな嘆きを聞いた目の前の男が、そう言って差し出すのはペンと消しゴム。高校受験本番に筆記用具を忘れた間抜けな私に対する気遣いらしい。
「使いにくかったら悪いんですけどね。他にも多分受付に行けばどうにかしてもらえると思いますから」
「そんなことはっ!その、いいんですか?」
「はい。僕、心配性で大量に持ち歩いてるんです」
どこか自虐気味な笑みを浮かべていた。それが気遣いなのか本心なのかは分からなかったが、私はひたすら嬉しかった。
「あ、ありがとうございます」
少々裏返ってしまった声に、頬が熱い。彼は軽く微笑んで「良かったです。ちょっと元気になったみたいで」と穏やかな声で言った。
ぺたぺたと自分の顔に触れる。意識はなかったが顔が強ばっていたらしいことに、指摘されて初めて気がついた。
「お互い合格して一緒に通えるといいですね。それじゃあまた」
胸の前で小さく拳を握り、「頑張って」と柔らかな笑顔を向けた。どうにもその表情の輝きにうまく言葉を紡げない私は、会釈とよく分からない言葉を発したはずだ。
これが一度目の邂逅だった。
そして二度目の邂逅は、当然同じ日同じ人との出会いであるが、そんな試験を終えての帰路のこと。
試験を終えて、皆がバスや電車を待つために駅に向かう。私はこの時どうしてか、なんとなく少し歩いて帰ろうと決めた。そんな道すがらのことだった。
「あっ」思わず声が出た。目の前に朝の彼がいたからであった。橋の上から川の流れを眺める夕陽に照らされた横顔は、まるで絵画かと思うほどの美しさを誇っていた。朝と比べどこか気だるそうに見える表情に、かえって目を奪われた。目を離せないまま眺めること少し、わずかに彼は身を乗り出すようにした。
考えるより先に身体が動いていた。
「危ない!」
とっさに手を伸ばす。ぱしりと掴んだ彼の腕は、想像したよりもしっかりと男の子然としているな、などとどうでもいいことを思った。
「へ?」
間の抜けた声を出したのは二人同時だった。みるみると顔を真っ赤に染め上げただろう私とは対照的に、彼はふっと吹き出すように笑った。それがいっそう赤く染め上げただろう。
「ごめんごめん。もしかして飛び込むかも、って?」
笑いを含んだ声は朝に聞いたより高い音がした。
「心配してくれてありがとう。でもちょっと水面を覗いただけだから」
「そ、その……ごめんなさい!」
あまりの羞恥心に、私は俯いたまま飛び出すように逃げようと試みる。それは今度は反対に彼から伸びた腕に呆気なく失敗した。
「ああ、ごめんね。ちょっと強かったかも」
「い、いえっ!」
少しだけ声が裏返った。
「試験は、上手くいった?いや答案が埋まったか聞きたいんじゃないんだよ。その、ちゃんと受けれたかなって」
覚えててくれたんだ、とか。心配してくれたんだとか。嬉しさと申し訳なさが入り乱れた複雑な感情が次々に浮かんでくる。
「おかげさまで」
絞り出すように答えた。今度は声は裏返っていないはずだ。
「なら良かった。実は声をかけたこと迷惑じゃなかったかなって。でもそのようすだと嫌われてはなかったみたいだね」
何を言っているんだろうと思った。感謝こそすれまさか嫌悪や憎悪など。頭を何度も大きく横に振ることで反論を試みた。
「試験当日の朝に、知らない男に声をかけられるって嫌じゃない?ナンパだと思われてないかなとか、変に考えすぎちゃって」
「そんなことないです!その、嬉しかったですし、助かりました」
「そう?なら良かったよ」
「だって、試験の日に筆記用具と受験票忘れるほど最悪なことって、多分ないですよ」
「それは、たしかにそうだね」
彼が声を出して笑ったから、つられて私も笑った。
人見知りのある私には不思議なことに、緊張はなかった。居心地の良い時間に、自然とその場で話をしていた。
それから少しの間二人は話をした。中学のことだとか今日の試験のことが中心であった。時々彼が小さく笑うから、その度に胸がざわめいた。
「そろそろ暗くなってきたから」
彼が言った。
「そう、だね」
暗い声じゃなければいいな、と思った。
「また話せるかな」
絞り出すように尋ねた。この時振り絞った勇気は、少なくともこれまでの私の人生で一番だ。
「必ずね」
笑って言う。どうして?と聞き返す気が失せるほどに自信に満ちたような表情だ。
「今日貸したペン。あれは何回も願掛けした縁起ものだからね」
だから絶対試験は上手くいってるよ、と柔らかく笑った。
「じゃあまた高校で」
私がバスに乗る直前、彼は明るく言った。
それが私にとっての運命の出会い。成海晶くんとの出会いだった。
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