2話 お礼を巡る攻防
放課後の廊下をひとりで歩く。呼び出された用事を済ませ、ようやく帰れるというところだ。もうすでに大半の生徒は帰るか、部活かで下駄箱には誰もいない。
スタスタと後ろから足音が聞こえてくる。ずいぶんと早足だなと思ったが、気にせず自分のロッカーに手をかけた。
「あのっ!」
かかった声に振り返る。そこに立つのは、美澄日和だ。状況がよく分からず、上手い言葉は出てこない。
無言のままの僕に、彼女はどんどんと近づいてきて、三歩半手前で止まった。
今度は下を向いて、指先をくるくるといじっている。
「えっと……」
「その、成海くんっ!」
「は、はい」
少しだけ声が掠れたのは、彼女の勢いに押されたせいだ。意外と大きな声も出せるんだな、と関係のないことを思った。
「あ、あの時はありがとう」
「ああ、はい。どういたしまして、でいいのかな」
「はい……それでその、お礼をしたくて」
お礼?と首を傾げる。期間で見れば、少し前の出来事で、そのうえ精々が声をかけて駅まで送った程度のこと。ましては同学年の女子生徒なわけだから、お礼の言葉を贈る程度で終わりでいいだろう。
手を横に振って、大丈夫だと断る。
「あ……う、でも」
「いやわざわざこうして来てくれただけで」
「……それでは良くないというか」
「それにあの美澄さんに直接話しかけてもらったってだけで自慢になりそうだよ」
言うつもりはないが。内心でそんなことを考えていると、彼女は不満そう、というか怒気すら垣間見えている顔をしてこちらを見ている。
「あの、僕は何かまずいことを」
「……べつにぃ?」
「別にって顔じゃないんだけど」
「……だったら、その私がお礼をしたいって言ってるんです。喜ぶものなのでは?」
意外とこの子、横暴だ。僕はそんな感想を抱いた。話しかけられたくらいで自慢だと言うなら、お礼にも喜べとは、言葉だけ考えればたしかに正論でもある。
どう返事をするか。悩んだ末出した結論は、結局単純なものだった。
「遠慮しておきます」
「なんでっ!?」
表情がコロコロ変わって、なんだかずっと可愛らしく思えた。僕が大げさに肩をすくめると、いっそう眉間のシワが深くなる。こんな顔もできるんだなと、何故か思った。
「だってそんなことしたら僕が睨まれちゃうよ」
「……それは」
言葉に詰まったのは彼女の方だ。泣きそうな顔をしているからバツが悪い。罪悪感もそうだが、こんなところを目撃されたら。そう考えるだけで背中に悪寒が走る。
「気持ちは嬉しいよ。でもそんなに気を遣わなくていいんだ。だいたいあれは僕が勝手にしたことで、放っておいても他の誰かが」
「違いますっ!それは、違います……」
「……えっと」
「だってあの時助けてくれたのは、成海くんで。それは他の誰でもなくって……!」
「わ、わかった!わかったから」
廊下に声が響く。やけに静寂なこの空間では、どこまでも音が伝わっていく気がした。
そんな声のせいか、すぐにバタバタという靴の音と楽しそうな会話の声が聞こえてきた。
目の前には半分くらい涙目の美澄日和が立ち尽くしている。その前に立つのが僕なのだ。万が一にもこんなところを見られるわけにはいかない。
僕は頭を掻きむしるようにしてから、彼女の手を掴んだ。
「ごめん、ちょっと場所だけ変えさせてください」
「へ?」
間抜けな声だけ残して、彼女は引かれるままについてきた。警戒心とか抵抗のなさに、自分の行動は棚に上げて呆れた。
結局選んだのは下駄箱の前にある小さなホールのような場所だ。イスとベンチ、それから自動販売機しかないせいであまり人気はないが、僕の好きな場所でもある。それが好都合だった。
隅に置かれた自動販売機の隅に隠れた。ここまでやる必要があったのかどうかは分からない。多分要らない気がした。
「あ、あの成海くん!?」
「ちょ、静かに……!」
僕の胸元あたりで発された言葉を遮る。せっかく隠れたのに、彼女のやけに通る声の前では台無しだ。
そうすることしばし、靴を履き替えると音の後にだんだんと声は遠のいて行った。ようやく安堵の息を吐いた。
「あ、ごめん。もう喋っていい……よ」
今度こそ終わったと思った。胸元に文字通り埋まった美澄日和の姿を捉えたからだ。それもだいぶ僕が引き寄せるような形で。
心臓の音はどちらのものだろうか。そんなことさえ思った。僕のものでしかないのに。
可愛いなとか、思ったより小さいんだなとかを考えたせいでもある。一番の原因は、絶望だ。セクハラ、痴漢と性犯罪のレッテルが浮かんだ。
見上げた彼女と目が合う。潤んだ瞳と上目遣いは、破壊力に満ち溢れていた。
「……成海くん」
小さな声で名を呼ばれた。やはり透き通ったよく通る声だ。
「……ごめんなさい。わざとではなくてですね」
「……成海くん?」
「ほんとうに故意ではなくて、ああするほかなかったというか……。いやあなたの気持ちを蔑ろにするつもりではなくて、すみません。死ねと言うなら……」
「成海くん!?」
目を丸くした顔に、いっそ笑えた。こんな場面でも女神さまというヤツは、いっとう可愛いらしい。
この妙に気安く、警戒心の欠片も感じさせない彼女なら許してくれないかな。最低な発想が浮かんで、それから笑った。
「……なんですか、そのポーズは」
「……バンザイ?ほら、痴漢じゃないですっていう。もう手遅れですけど」
自分の愚かさを笑うほかなかった。だというのに、彼女はこちらを見上げては睨む。睨むくらいで済ませてくれるなら、まさしく女神だな。
「どうしてそんな顔をしているんですか」
「……学生生活の終わりを悟って?」
「……どうしてそんなことに」
「いやあ、セクハラはまずいでしょうよ。ましてあなたに。あ、別に他の子ならいいって意味じゃなくて」
はあっと大きなため息をつかれた。奇遇だなと思う。僕もちょうどため息くらい吐きたいところだった。
人生ってのは全く予想がつかないらしい。これまでの人生で、ここまでのことは初だ。
「……何をされてるので?」
「……あなたが、セクハラと呼んだものです」
誓って、僕は両手を挙げている。アメリカの警察だって分かってくれるくらいには。
だから、もし彼女が僕の胸元に飛び込んだままでいるのだとしたら。それは僕のせいじゃない。日本の司法はそこのところを理解してくれるだろうか。
いっそう、ぎゅっと強く締め付けられたのを感じる。やはり女の子だと思うのは、その力の弱さだった。
「……なにゆえでしょう」
「……お詫びです。この行為に対するお詫びとして、今日は私に付き合ってください」
「よく意味が分からないのですが」
「……あの日のお礼は受け取ってくれないのでしょ?だから、これのお詫びとして遊びに付き合って差し上げます」
「お詫びで何故僕があなたと?」
「……あの私と出かけられるんですよ?お詫びにならないですか?」
「……そこは根に持ってんだ」
頭はとっくに混乱していて、彼女が何を言いたいのかも分からなかった。多分彼女も自分が何を言っているか分からないはずだ。
だから僕が「はいはい、わかりました」と返事をしたのは、不可抗力だ。
「離れてくれないと動けないのですが」
「……いったん目を閉じてもらえると」
「え、なんで?」
「……なんでもです」
チラリと見えた真っ赤に染まった耳に、僕はなるほどねと返した。背中をつねられるくらいで済んだのは、きっと得だったはずだ。
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