を:怨念
走りゃ。
好きなだけ逃げてみせてたも。
わらわはそなたを諦めぬ。
走りゃ。
もっと遠くへ。
「相変わらず、すげー田舎……」
進太郎は〝樹海〝とも呼べそうな、鬱蒼とした森を横目に呟いた。
母の母が住む、田舎の集落だ。進太郎が連れて来られるのは何年ぶりか。
確か小学校に上がってすぐの夏休み、暗すぎる暗闇に怖がって泣いて、それ以来どんなに来いと腕を引かれても断固として拒否し続けた。高校に入った年の夏休み、最近おばあちゃんボケてきたみたいなの、心配なのよ、一緒に見に行きましょ……そんな風に切実に頼まれたら、断るのも気が引ける。
見上げた、どんより曇った空に飛ぶコウモリの巨大さに、やっぱり来るんじゃなかった、と進太郎は早くもげんなりしているのだった。
電話で話す限り、おばあちゃんのボケかなりひどいかも、と母は最近そわそわしていた。浮気性のおじいちゃんがもう二十年くらい前に女の人とどこかに出て行って以来、こんな田舎におばあちゃんは一人暮らしだそうだ。
どんなに誘っても「ここを離れる気はない」の一点張り、電話しようにも電波も届かず、様子を見に来るにも余りに遠く、母は心配で堪らないらしい。他の兄弟はみな男だからか、厳しく育てられたせいか、誰も様子を見にも行ってくれないんだと母はこぼしていた。
「よう来なすった! おお、しんのすけかね、大きゅうなったのう」
「おばあちゃん、進太郎、よ。まあ、大分やせたんじゃないの……?」
結構な小太りのおばあちゃんを見て、進太郎は母に目を移した。これで「大分やせた」とか……じゃあ、前はどんだけ!? と、ツッコみたくなる。
荷物を隣の部屋に置いて、じめじめした暑さに進太郎は服の襟元に手を入れて、ぱたぱたと風を起こしてため息をついた。
老人と子供の体感温度の差はでかい。この時点ですでに、進太郎の感じる不快指数は90%を越えそうな勢いだ。
テーブルのはしに腰を下ろして、まずは出してくれたお茶を飲もうとコップに手をかけて、進太郎はそのまま固まってしまった。
「……えっと、これ」
どうしたの、と進太郎の顔から手元に目を落とし、母もまたあっ、と声を挙げた。
「……お茶に、らっきょう入ってる……」
「ん?」
氷と間違えたのだろうか。口に出して指摘したのに、おばあちゃんは気付いていないらしかった。
「若いもんは冷たいもんばっかし飲んで。腹下すでなあ」
足りないから足して、と言ったと捉えたのか。おばあちゃんは横に抱える様に置いているらっきょうのビンに直接手を突っ込んで、掴み上げたらっきょうを進太郎のコップの中にドボドボと入れてくれて、満面の笑みを見せてきた。
「もうやだよ、おれもう帰る!!」
「帰れないでしょう。あんなにボケが進んでるなんて、余計帰れないわよ」
「だってさ、やだよー!! 何食わされるか分かんねえじゃん!!」
「ご飯はお母さんも一緒に作るから……。やだわ、もう一日余分に泊まっていこうかしら」
「えーっ!? おれムリ、おれ先に帰る!!」
「どうやって帰るつもり? こんな田舎から、一人で。観念しなさい」
「うーっ……」
駄々をこね続けたところで、確かに帰る手段はないのだ。
すぐに暗くなる外を見て、進太郎は昔とおんなじ、と顔をしかめた。確か、風呂場の暗さも絶望的だったはず。
早めの夕食後すぐに風呂に入れる様に、夕食前から薪をくべてこまめに火加減を調節した結果、進太郎は快適な入浴を楽しむことが出来ていた。
――天井から、ヤモリが背中に落ちて来さえしなければ、だけど。
眠れない。どこまで自然と共存しているのか。いや、自然に飲み込まれてる、と進太郎は思う。
家の軒下から聞こえる、ウシガエルのゲコゲコ言う、でか過ぎるしゃがれた鳴き声。遠くでフクロウがあげるという細い声。野犬の遠吠え。
どこかで鎖がじゃらじゃら言う音。風鈴の鳴る甲高い音。水車の廻る音。
田んぼの草を揺らす、風の吹く音。小さな虫の羽音。まとわりつく熱気と湿度。
暗闇に無心に怯える子供じゃなくなったのと、枕元に小さな電気を置いてもらったことからも、田舎でしか体感出来ないそれらは、今の進太郎にはかえって新鮮でもあった。
母はおばあちゃんと一緒に隣の部屋で寝ている。お母さんうちで一緒に暮らそうよ、説得する母のひそめた声が聞こえている。
何か大きな動物が走ったのか、風が大きく揺れて、田んぼの虫の小さな音がぴたりと止んだ。少し間をおくと、それはまた聞こえ始めた。
自然って、たまにならいいかも。わざと電気を消して自分の肌すらも暗さに同化する闇を楽しみながら、進太郎はすうっと眠りに落ちていた。
どこまでも泳げる川で自由に泳ぎ、どこまでも走れる草むらをひたすらに走り、転がった。身体中で楽しむ自然。
初めは出来なかった薪割りも、数をこなせばきれいに真ん中で割れて、爽快感と充実感に夢中になっていた。おばあちゃんが当分しなくていい様に、と張り切り過ぎて、さすがに腕と指が悲鳴を上げていた。
今日は薪割りの後の汗を流すべく夕食前にお風呂を焚いて、湯船に浸かりながら進太郎はうとうとしていた。疲れた後の食事は美味しく、母が付きっきりだとおばあちゃんはしゃきっとしているらしく、三人の会話も楽しく穏やかに過ぎるのだ。
「来年はさ、おれの友達も何人か誘っていい?」
何気なく尋ねた進太郎の言葉に、おばあちゃんは満足そうに笑い、母は笑いながらちょっと涙を拭いていた。
神経が研ぎ澄まされる。進太郎は、昨夜は聞き取れなかった物音や声を聞き取りそれを解明しようと、目を閉じていた。
昼間目一杯遊んだのに、早い風呂でのうとうとした眠りのせいか、今は眠くないのだ。夜を味わえるのはもう今だけだから、それはありがたいことではある。
隣の部屋からは、二人分の寝息が聞こえる。昨日とおんなじ鳴き声や音、それ以外の新たな音。田んぼの水の中から時々上がるこぽっ、という気泡の音、ウシガエルが移動するのかズルッ、ベチャッ、と濡れた何かを引きずる様な音。
規則的なもの、不規則なもの。遠いもの、近いもの。高い音、低い音。ますます進太郎の感覚は過敏だった。
聞こえる全部に多分つきの解釈がつけられる中、どうしても分からない音があった。自然界にあるものに例えられない、ぺリ、ペリ、と何かマジックテープみたいなものをはがす様な奇妙な音。しかも、ひどくゆっくりとしたペースで。
何だろう。気になってしまって、進太郎はむくりと布団から身を起こした。奇妙なのは、と進太郎は思う。
外で聞こえる他の音と違って、何だか家の中から聞こえる気がする事。
わざわざ庭を経由しないと行けない、家から離れた場所にあるトイレ。そこはさすがに何だか不気味な怖さがあって、夜に行きたくなってもガマンしかないと昼に進太郎は思っていた。
だけど今、一旦自覚してしまった生理現象を抑えることは出来ない。びくびくしながら進太郎は歩いていた。
電気なしで、普段おばあちゃんどうしてんだろう! こんな真っ暗闇、何かにつまづいて転んだり――
「いてっ!!」
考えたそばからつまづいて、進太郎は盛大に草の生えた庭に転んでいた。トイレ用のおばあちゃんの靴は小さかったせいか、片方脱げてどこかに飛んで行った様だ。
見えないから、手探りで探すしかない。今は諦めて、明るくなってから探した方が建設的かも。手を伸ばしてすぐ、そう前向きに進太郎が思った途端、ごつっ、と手が硬い何かに触れた。
目指す靴じゃない。だけど何だか取っ手みたいになっていたらしいそれにどけようとした手は引っ掛かって、ガコン、と音を立てて何かふたが開いた様なのだった。
驚いて、体を起こした。からくり仕掛けの秘密基地なんかを、あの年の老人がわざわざ作るとは思えない。ってことは、単純にマンホールとか、昔の家の庭に時々あるという地下への入口とか?
どきどきするのを、現実的な考えで諫めようとする進太郎の耳に、そしてそれははっきりと聞こえてきた。さっきよりも大きく、はっきりと。
ペリ、ペリ、と何かをはがす様な、あのゆっくりした音が。
下からはかすかな明るさが見えていた。開いたそこ――四角い入口らしいそこは、下からの明かりから見る限り多分地下に降りる階段が始まっている。
暗闇で目に入るのは階段だけ、だけど音は確かにその奥から聞こえてきていた。ペリ、ペリ。やっぱりマジックテープみたいな音。
――誰かがいるってこと? 人の気配はしない感じなんだけど。
今下から漂ってくる空気や気配は至って静かで、危機感や恐怖をあおり立てる恐ろしさはなく、それが進太郎を落ち着かせてくれていた。
地下と言えば、不吉とされた双子の片割れの幽閉。モンスターになりかけた実験体の覚醒を抑える為の拘束。
進太郎に思い付くのは、その二つ程度だ。そしてそのどちらも、主要人物をおばあちゃんに置き換えると、余りにも現実離れしていた。
あり得ない。あんなボケの進んだ老人に、そんな管理が出来る訳がない。……あっ、もしかして。
管理が出来ない故に、幽閉された誰かは死んで何年も経ってしまったのかも。完全に白骨化して匂いも気配もなく、乾いた木みたいになった骨にまとわりつく衣服の残骸が、かすかな風でめくれてペリペリ音を立ててるのかも!?
その考えは今度は妙に現実味を帯びて、進太郎はぞっとしてしまった。
幽閉された誰かって……誰? 自分で勝手に考えて怖くなって、進太郎は焦った。ダメだ、もう考えちゃダメ。
生死を分けるのは好奇心。もしくは正義感。ダメだって絶対危ないんだから、絶対何かがいるんだって。何でわざわざ自分から危ない方に行っちゃうんだよ。
ホラー映画を見て、誰もが画面のこっちでそう語りかけるはず。そして進太郎は卓越した消極性を売りにしていた。
手を伸ばして、開いたままのふたを探った。手に触れた取っ手。力を入れて、開いたままだったそれを閉めようとする。
つっかい棒的な何かはすぐに外れてくれたのか、大した抵抗もなくそれは閉まった。呆気ないくらい簡単に。音も立てずに。
ホラー映画みたいなことなんて、普通に生きていてそうそう起こることはないのだ。進太郎はせっかく閉めたふたに引っ掛からない様に慎重に立ち上がり、くるりと家の方向に向けて、片方だけの靴で歩き出した。
「進太郎ー! 今日帰るのよ、早く起きなさい!!」
母に叩き起こされて、アクビをしながら進太郎は顔を洗いに台所に入った。味噌汁をつぎながら、おばあちゃんがにかっと笑った。
「よう寝れたか?」
「……うん」
答えながら、進太郎は反省すらしていた。「地下に何かを隠してて、ボケてその管理が出来なくなってそれが白骨化して」云々。勝手な妄想にも程がある。
おばあちゃんの手から味噌汁のお椀を受け取って、進太郎は居間に運んだ。満足気に笑う母の顔は見ない様にしながら。
こんな不便な場所に郵便屋さんなどなかなか来ないだろうと、母は挨拶兼、手紙などあれば預かる為に近所回りに出掛けていた。荷物の整理も済んで、進太郎はおばあちゃんと一緒に畑から野菜を収穫していた。
母と自分が着いた時に比べて、おばあちゃんの顔はずいぶんしっかりしている様に見えた。自分達が帰った後も、この元気が長続きしてればいいんだけど。
何だか情が移った気分だ。野菜を家の中に運びながら、進太郎はしんみりしていた。
「おばあちゃん、他に力仕事もうないの? 今の間に何でもしとくからさ」
「ありがとうな、しんのすけ。優しい子じゃし、頼もしいでなあ」
最後まで、名前は間違えられたままだったけど。苦笑する進太郎に、今採ってきた野菜をひょいひょいと二つの箱に分けながら、おばあちゃんは言った。
「日持ちする根菜は倉庫にしまわにゃいかん。運んでくれるかの」
「倉庫?」
「こっちじゃ」
仕分け終えたおばあちゃんは長い廊下を歩き、進太郎がまだ知らなかった場所にある部屋に向かった。じゃらじゃらとカギを取り出し、入口にかけられたカギを開ける。
「イノコやら野犬やらがの、どっかから入り込んで野菜喰ってまうんでな。カギが閉まってりゃ、あいつらは入られん」
「イノシシとか野犬……」
さらりとおばあちゃんは流すけど、どっちも迂闊に遭遇したら案外狂暴なんじゃないの、と進太郎は青くなる。ありがとう、イノシシさんに野犬くん、ふらっとおれの前に現れずにいてくれて。心の中で進太郎は両手を合わせていた。
部屋をガラリと開けて、おばあちゃんは中に入って行く。カギが、とか言いながら今はカギを閉めない不用心さ。まあすぐ出る気だからだろうな、と進太郎は思い、野菜の箱を抱えて付いて行った。
……くさい。進太郎は匂いに驚いて、足を止めてしまっていた。これは、トイレ――大の匂いだ。
この部屋は、野菜を保管する倉庫なんじゃないのか?……いや、もしかして、長いことおばあちゃんはここに来るのを忘れてて、置きっぱなしの野菜が腐って、混ざり合ってこんなくさい匂いになってる?
進太郎はとりあえずそう考えて、なるべく息を抑えながら、野菜の箱を手に先を行くおばあちゃんの後を追った。
「あーあ。粗相の後かいの」
おばあちゃんが、ぽつりと呟いた。部屋の向こうを見ている。
そこに腐った野菜があるなら、片付けを手伝わないと。進太郎は抱えた箱を床に置いて、おばあちゃんの視線の先を追った。
「っ!!」
小さく、声が漏れた。半分開いた障子の向こう。――人がいた。
やせこけた老人。顔からして男の人だ。
床にひかれた質素な布団。その上で座る形に上半身を起こし、その背中を支えるのは、座る部分に漬物石の様なものを置いた背もたれのしっかりしたイス一つ。
起きている、のではなく「起こされている」。意識があるのかないのか、開いた目はどことも向けられず、見つめる進太郎の前で長い間を置いてうろん気なまばたきをした。
何か、その横に点滴の様なバッグ入りのものが高くつってあって、そこから出たチューブはその人物のお腹につながっているらしかった。
点滴なら腕のはずだ。しかもその点滴は見たことのない、濃いクリーム色の液体だった。
唖然と、進太郎はその光景を見つめていた。その場から動かないままに、おばあちゃんが口を開いた。
「こりゃわしのじいさまよ。会うのは初めてだろうの、進太郎」
じいさま。進太郎はごくりと唾を呑む。おばあちゃんは低く笑って、奇妙な点滴を示して続けた。
「これは〝いろう〝ちゅうてな。生命維持に必要な量の栄養を、強制的にじいさまの腹に入れとるのよ。じいさまは死にとうても自分で死ぬことは出来ん。ま、報いじゃな」
笑うおばあちゃんに、ぞっとする。スムーズな物言い、きちんとした説明。おばあちゃんは少しもボケてなんかいない。ボケたフリをしてるだけだったんだ――。
進太郎は後ずさった。おばあちゃんの独自にも、「じいさま」はぴくりとも動かない。ただその手が、ゆっくりと動いていた。ひどくゆっくりと。
めくれた着物のすそから見える、はかされたオムツ。そのマジックテープを、死んだ様なその人はゆっくりはがそうとわずかにめくっていた。ペリペリと小さな音を立てて――。
「お前も聞いてはおるじゃろ。じいさまは24年前、わしを捨てて別の女と駆け落ちしよった。許されるもんかね。それまでにも散々泣かされてきた、もうわしは許せなんだ。すぐに探して、連れ戻してやった。もう二度と、わし以外のとこには行かせん。だからここにしもうとるんじゃ」
淡々と、おばあちゃんは語る。「しもうとる」という言葉からも、おばあちゃんの目的が復讐の為だと進太郎には分かった。
――吐きそう。進太郎は慌てて口元を両手で覆った。信じられない。こんなこと、実際にこんな監禁みたいなこと、見せしめにしたって、笑いながら、24年もずっと、こんな……
よろめいた体に、何か――誰かがぶつかった。おばあちゃんは進太郎の前にいる。はっと顔を向けると、こちらも死んだ様な顔をした老人の女の人がいた。
ひっ、とひきつれた声が漏れた。女の人は進太郎など目に入らない様子に足を擦る様に歩いていて、――その足首に輪っかの手錠みたいな金属がはめられていて、そこから伸びた鎖が同じ側の手首に同じ様にはめられた手錠につながっているのが、進太郎には見えた。女の人は決められたルートをただ歩く様な機械的な動きで、おじいさんに近付き背中を支えるイスから石を持ち上げ、自分がそこに腰掛けてから自分の膝の上に重いはずの石を置いた。
おばあちゃんがまた説明を口にする。
「じいさまと逃げた女よ。捕まえて、じいさまの体を拭かせたり着替えさせたり5時間置きにオムツを変えさせとる。この女には精神活動を抑える薬を与えとるからの、いわば廃人じゃな。じゃが愛する人の世話だけをして生きていけるんじゃ。誰よりも幸せもんやないかの?」
堪えきれず、進太郎は床に嘔吐した。むかむかする胸に手を当てて、ぜえぜえと上がった息を抑える進太郎に、おばあちゃんの言葉が突き刺さる様に放たれた。
「お前の母にこのことを話すも話すまいも、お前の自由さね。わしに止める権利はない。ただ、信じられんだろうがな、進太郎。わしはな、今でもこのじじを愛しとるんじゃ」
もう、限界だった。ふらふらと視界はかすんで、進太郎は意識を手放した。
「こおら、進太郎っ!!」
ばしっと額を叩かれて、進太郎は目を開けた。はっと起き上がる。
居間で、床に寝ていた。怒った母の向こう、長いインゲンの筋をとるおばあちゃんが笑っていた。
「あんたね、なに寝てるのよー!? 何か一つでもおばあちゃんの役に立ったの?」
「畑の野菜をようけもいでもろうた。わしではよう運ばん。この子は働きもんじゃの」
「えー、本当? ちゃんと働いてたー?」
「ようけ働いたから疲れて寝てしもうたんじゃろ。のう、しんのすけ」
「ん、まあ……おばあちゃんがそう言うんなら」
それでもまだ怪しむ声を出す母に、立ち上がり進太郎は背を向けた。結果、おばあちゃんも自分の視界から追い出す為に。
母が帰って来たということは、もうここを後にするということだ。進太郎は荷物を手に取り、そのまますっと玄関に向かった。
「おばあちゃん、また近い内に来るからね。うちで暮らすの、ちゃんと考えといてね」
心配性の母は帰りたがらず、まだおばあちゃんの手を握って言っている。進太郎は靴ひもを結びながら、ぽつりと呟いた。
「この人はここ離れないよ。死ぬまでね」
「えっ、何よ進太郎……おばあちゃんと何か話したの、あんた」
探る様に尋ねる母の視線を越えて、進太郎は強くおばあちゃんを見据えた。
ボケたフリの演技を、恐らくこの人は死ぬまで続けるのだ。もしも「愛するじいさま」が途中で死んでも、もうそんな繕いをする必要などなくなっても。
進太郎を見返した、強い瞳。取り憑かれた狂気を載せた、常軌を逸した瞳。
おじいさんへの愛。怨念としかとれないそれは、恐らく当人にとっては純粋に、ただそれだけの強さ――。
おれは二度とここには来ない、と進太郎は思う。そして絶対にこの事実を誰かに話すこともない。絶対に。死んでも。
「元気でな、しんのすけ」
「おばあちゃんも、体に気を付けて」
笑うおばあちゃんに、進太郎も笑い返す。互いに偽りの笑顔。おばあちゃんは気付いたはずだ、進太郎の固い決意に。
二度と会わない。進太郎はさっさと車の方へ歩いて行き、荷物を載せるや助手席に乗り込み、まだ母にすがられているおばあちゃんの姿を見ていた。
もう終いかの?
もう充分逃げたじゃろ?
もう逃げるのも観念してたも。
そなたは、わらわが囲うてやる。
わらわが、そなたを守うてやる。
じゃが、勘違いするでない。
そなたを生かすも殺すも、わらわの指一つ。
生きたくば。
――わらわを愛せ。




