惨めな君
彼女には病気の息子がいた。
息子は治療のため入院をしていたので、彼女は病院への見舞いが日課になっていた。
息子と見舞いで会う度に他愛もない話をした。「今日の体調はどう?」とか
「今日は天気が良かったんだよ〜」とかだ。
そんな会話だけでも息子は良かった。
息子にとってはそれが退屈な入院生活のささやかな楽しみであったからだ。
病の治療は容易なものではなかったが二人はその境遇にありながら幸せな日常を送る親子であった。
それはいつもの日常の1日であった。
先程まで見ていた夕焼けはとうに移り真っ暗な夜空が窓を覗かせる。
受付を終えて息子の病室へ続く廊下を歩き出す。廊下はどこか物悲しさを覚えるほど静寂そのものであった。
自分以外に人はいない。
観葉植物とベンチが一定間隔に並んでいるだけだ。
自分の足音と、時折通り過ぎる窓が強風に吹かれて揺れ動く音だけが聞こえる。
何も思考せずただ歩みを進め、
気づけば私は息子の病室の扉の前にいた。
スライドドアの大きな取っ手に手をかける。
手は震えていた。
何か特別な事があった訳じゃない。
いつものことなのだ。
いつも息子に病気の事で心配させまいと変に気張ってしまうのだ、私は。
深く息を吸って、顔の強張りを抑えて、緊張をほぐす。
もう一度取っ手に手をかけなおし、扉を開けた。
病室の中もやはり静寂であった。
日は沈み、薄暗い。他の患者はもしや寝ているだろうか。
息子のいるベッドに歩いていく。一番奥の窓際である。
足音に気を遣いながら慎重に歩き、やがて着いた。
ベッドを囲む用に設置されたカーテンの前に立つ。
息子はまだ起きてくれているだろうか。
不安になりつつカーテンを開ける。
そこにはキョトンとした顔の息子がいた。
『母さん...』
『また来たんだ...』
数秒の沈黙が続いた。
気まずくなって喋りかける。
「今日はもう、お夕飯は食べたの?」
『うん!相変わらず味はうすいけどね』
『てか母さんこそ、しっかりご飯食べなよ』
微笑みながら言う。
「いいのよ、ダイエット中だから」
...
私は立ったまま、息子と会話し続けた。
最近の息子はなんだかよそよそしい。
理由はわからないが、たぶん長い入院生活に嫌気がさしているのか、それとも反抗期だろうか。
だけどなぜか、今日の息子はよそよそしさを感じさせなかった。
会話を始めて数分が経ったころ。
『そんなことより母さん、ぼく友だちができたんだ。』
「友だち?」
『うん、隣のベッドの人なんだけど今は寝てるかも。』
「...開けてみてもいいかな。」
返事待たずに友だちがいるらしいカーテンに手をかけた。
心臓の鼓動が自然と早くなる。
体が熱くなり始め、焦燥感をも覚えてくる。
音を立てないようそっと開けた。
カーテンの向こうには当然、ベッドがあった。
だが人のいないベッドであった。"友だち"がどこに行ったのかはわからないが、おそらく
「もしかしたらお手洗いかもね。」
そう言って息子の方へ視線を戻す。
息子はいなくなっていた。
いや、いなかったのかもしれない。
とにかく今の私はもう、わからなくなっていた。
開けたカーテンを全て閉め、そそくさと病室を出て帰路につく。
今日も私は惨めな妄想を終えて、一日を終わろうとしていた。