蜘蛛の巣合戦―セイリング・ジャンプ編―
1
「……三葉のヤツは、容易い相手ではない筈だが。―――歌子、お前がやったのか」
小さく弾ける音を鳴らしていきながら燃えていく骸から、真ん中に立つ女へと向けた。
「あら。もう分かっちゃった」
「なるほど、あれを使ったのか」
次に、鉄柵に立てかけていた鉄パイプを見るなりに、香津美は呟いた。
「三葉を相手に『技』を使ったのか」
「だって、その子が人間を捨てて挑んできたから。こちらも対人間用では失礼だと思ってね」
「『人間を捨てて』と、きたか……」
拳に力が入ってゆく。
そして、解いた。
この間に、いろいろと浮かんできた言葉をあえて呑み込んだ香津美が、今現在でもっとも知りたいことを尋ねていく。
「そういえば、勝美」
「なあに?」喧嘩腰に非ず。
「あと、ひとり居るだろ」
「さあ〜、どうかしら。私たち三人しかいないけれど」
このように語尾をあげて答えながら、歌子と奏子に手を伸ばして、最後はじぶんを指した。悪戯っぽく微笑んだ勝美は、まるで、野生のネコ科を思わせるシャープさから一変して飼い猫のような愛らしさへとなった。この、女の一瞬に魅せられた香津美だったが、頭で先の言葉を反芻させたのちに返してゆく。
「全く、見え透いた嘘を(つく)……。―――私がここに来る前、結美の“針”が明らかに“縫い付けられた”のが見えたぞ。あれはお前たちの『芸当』ではないはずだ」
「あちゃ〜、目立っちゃったか」
後ろ頭を掻きつつ、かつわざとらしく「こりゃ参ったな」といった顔をして漏らしていく勝美の背後に建つ貯水タンクの影から、小柄な者が現れてくるのを香津美は見た。そして、湧き上がってくる嬉しさを噛みしめていく。
「やっぱり……。四人目は貴女だったのか。―――自ら出てきたことを嬉しく思うよ。奇辺原『師匠』」
「…………今さら“よそよそしい”挨拶ね。私たち、学校で顔合わせている仲じゃない」
手前に一拍置いてから、物静かながらにして抑揚のある声で香津美に返していったこの小柄な女は、先ほどの奇襲で大量にかかってきた“針”を、宙で一斉に縫い付けた者だった。
中村百合子、天照舞子、櫛田美姫、田中香津美たちの同級生にして師範。そして、奇辺原流隠密術にして砕魔針糸の使い手の女。
奇辺原清子、参上。
2
ほぼ同時刻。
場所は変わって。
毒島邸周囲のとある建物内部。
屋上からひとつ下った階の青白い廊下に、赤くて鮮やかな線が太く引かれている先で、真っ二つになった巻風木葉の“上体を押しのけて”起き上がった悟紅が、近づいてくる気配に感じてその方へと切れ長な目を流した。革靴を響かせて階段を上ってくる。そして、やがてその気配は姿を現した。
見覚えのある女だった。
その高い身の丈。長い腕と脚。
艶やかで腰に達する黒髪。
そして、均等に整った顔。
忘れもしない、美しい女。
いや。それに磨きがかかっているか。
涼風松葉。
しかし、身なりが違う。
細く“しなやかな”躰を、藤紫色のセーラー服から、墨色のセーラー服へと包まれていた。それは、セーラーカラーと膝丈のプリーツだけではなく、上着まで含めて全身を墨色で纏っていた。襟の中央と両肩とを『碇』を象った紋章に白い糸で刺繍して、カラーの両方を碇の『爪』を形にしたもので白く染め抜いていた制服に、なによりも特徴的だったのが、黒いソックスの上と黒い手首バンドとに赤と黄色の細い線が引かれていたのを着けていたからだ。
だが、この制服の学校は知っている。
長崎市県立黒船高等学校。
なるほど、転校したのか。
その思いを巡らせていき、悟紅が鷲鼻の下の薄い唇を歪ませていったのちに、青竜刀を構えていく。
続いて、正面からきていた松葉も、歩きながら、襟足から垂らしていた三つ編みを後ろ頭に巻いて纏め上げたあとに、背中から忍者刀を引き抜いた。
双方ともに足を止めることなく距離を縮めていき、それはやがて、雄叫びをあげながら駈けだしていった。小走りで、あっという間に空間がひとつになったその瞬間に、力いっぱいに振られた忍者刀と青竜刀とが激しく火花を咲かせた。大きく刃こぼれを起こしているのではないかと思えるほどに、大仰な音を立てて打ち合わせ、擦れ合い、引き裂くように幾つも鳴らしていく。若干、松葉が押されていたか。逆手に変えた悟紅の青龍刀が真横に走り、松葉も同じく逆手にした忍者刀で防いだ。両者、押しやって間合いを確保したすぐに、逆手のまま数発の攻防を続けたその直後。
肉を斬る音を鳴らしたのと同時に、悟紅から松葉が飛び退けた。墨色のセーラーカラーと上着の半ばにかけて右側を縦に割いたなかに、白い肌に赤い線が引かれてゆくのを確認。傷は浅いものの、私を斬ったことには変わりない。地を蹴って刀身を走らせて胴体を狙ったときに、防御されたその刹那に、針に刺されたような痛みを感じたので離脱した。右肩の碇の紋章を横に切り裂いた口から、鮮やかな赤い滴を垂らしていく。この松葉のようすに、悟紅は口の端を釣り上げた。零華から“力”を貰ったあとに、おおかた“生まれ変わった”つもりだろうが、その綺麗な躰に私の青竜刀に刻まれた以上、貴女は勝ちを失ったのも同然だ。あの吹風紅葉と同じように、その首を撥ねてやる。そう意気込むなりに、青竜刀を大きく8の字に振り回していくことを数回繰り返したのちに、刃を松葉へと向けて構えた。
腰を落として、忍者刀の切っ先を悟紅に向けて構えたあとに、睨み合いを続け、そして再びお互いに小走りに詰め寄ってゆく。刃を交わしていく攻防が続き、それはやがて、手を繰り出していくといった掴み技も混ざった攻防戦となる。刺してきた悟紅の肘を押さえつけて、柄の先端で“こめかみ”を殴りつけた。たちどころに頭蓋骨内部へと放射状に広がってゆく稲妻に、悟紅は衝撃を受ける。横一文字に薙られた青竜刀から頭を下げた松葉が、その空いた脇の下へとめがけて忍者刀を振るった。しかも、峰打ち。だが、肋骨は数本砕かれたことに、悟紅は珍しく苦痛に顔を歪めた。次には、追い打ちか駄目押しかとばかりに突いてきた切っ先から跳んで身をかわして、脇の下を押さえる。
右腕を振るって、ひと息整えたあとに、松葉を見定めて構えてゆく。そして、こちらも同じく悟紅から目線を外すことなく半身になり、刃を向けた。
見合うこと、一秒足らず。
大きく斬りつけてきた悟紅の一撃を防いで離れたすぐに、両脚を狙って青竜刀を振るわれていく。下がってかわしてゆく松葉に、それでもなお追いつき、刀身を横一文字に引いた瞬間。胴体を真っ二つに割いた、と思ったそのときに、目の前には丸太が現れて、その真後ろでは忍者刀を構える松葉の姿が。なるほど、変わり身の術か。だが、吹風紅葉は“これを使って”私に敗れたのだ。所詮はお前も同じ道を辿ることになったな。などと、瞬時に察知してその薄い口元を邪悪なまでに歪ませた、そのすぐに、悟紅が“上体のみを回転させて”背後の女の首を撥ね飛ばした。―――筈、だった。確かに相手の首を飛ばした筈だったが、この私の前にいるのは、何なんだ。何故、丸太が二つに割けて回転している?―――このように悟紅にとってあり得ぬ光景の後ろで、忍者刀を振り上げる松葉がいた。
そして再び、じぶんの“背後の敵”へと向けて“上体を戻そうと”回転させた刹那だった。松葉の腕が横に振るわれたそのときに、悟紅の首は切断されて吹き飛び、壁にぶち当たって廊下へと転げ落ちたのちに、残された躰が“多少ぎこちないながらも、青竜刀を左右に振り回した”あとに、一回転スピンして倒れ込んだ。
刀身に付着した血液を振り払ったのちに背中へ忍者刀をしまい込むと、床に転がる悟紅の、未だに開かれている眼を数秒ほど見つめてから、その場を去って行った。
3
ところ変わって。
合戦を繰り広げている場所から、はみ出ることなく、春風若葉と鶴嘴黄緑とが空中での追跡撃をしていた。
若葉の放つ手裏剣を、両手の青竜刀で弾きながら黄緑は追いかけてゆく。そして、これを繰り返していくうちに、黄緑をエリア内に招き入れてしまったそのとき、逆手にしていた青竜刀の切っ先を両胸へと突き立てられた。躰じゅうに広がっていく幾千もの稲妻に貫かれて、若葉がたまらずに苦痛の喘ぎをあげていく。それ見たことかとばかりに顔を歪ませた黄緑は、よりいっそう歯を剥いて唇を吊り上げながら、さらに刀身を押しやっていった。
葉の隙間から赤く染みて滲んでいき、吐血を混じえた呻きを喉の奥から絞り出していく若葉。
「あぐぐぐ……!」
「なんか痛そうやな。―――エラい“必死の抵抗”も、手裏剣と飛ぶことだけじゃあ淋しいのと違うか?―――わ か ば ちゃん」
腹を蹴って、女の胸から青竜刀を引き抜いた黄緑が、両手で武器を回転させたのちに、再び逆手に持って構えたのだ。しかも、このような黄緑の姿は、蟷螂を連想させた。そして、ホバリングから羽ばたきに変えて、一気に間合いを詰めていって若葉を切り刻まんと飛びかかっていった、その刹那。突如現れた青いマシンにより、黄緑の躰は横から押されて、そのまま持っていかれて建物の壁へと激突。
何事かと目を剥いた若葉は、その瞬間を目撃していた。あれは、宙で行われた単車による人身事故。しかも相手は、二枚の白いマフラーを靡かせながら、鶴嘴黄緑へと突っ込んでいった。あの特徴的なカーキグリーンのライダースーツ姿は間違いない。
風見志穂だ。
時は少し前後して。
風見志穂は、民家の屋根を伝って単車を走らせていた。それは、空中戦を繰り広げていた若葉と黄緑とを追いかけていたからだ。若葉が元からそれほど強くはないことを、以前から解っていた志穂。かといって見切りをつけていたわけでもない。だいいち、仲間を見捨てたことなど、過去にも今もこの一度たりとも無い。それに、なによりも、若葉が想いを寄せている女が八爪目煉だという事実も、重々に承知していた。いつからか不明だが、若葉は、いつの間にかあの女を好きになっていたらしい。そして、このことについて麻実も気づいていたのだ。
それは今年の夏の始め。屋敷の台所にて、晩御飯の片付けをしていた二人。
麻実はこう述べてきた。
「若葉を泳がせておこうか」
このひと言に、理解し難い反応をして、思わず怪訝な顔で返してしまう。洗い物の手も止まってしまった。
「どういうこと。今から諭しに行ったほうが未然に防げるでしょ。それに、なによりもリスクを最小限に抑えられるのよ」
これを見て薄笑いを一瞬浮かべると、泡の付いた指先で縁無し眼鏡を正したのちに答えた。
「心配するな。例え、若葉が私たちを裏切ったとしても、受ける傷は大したことじゃあない」
「と、云うと」
「知っていたか? あの子、煉を見つめているときの顔がさ、かっわいいんだ」
「え。もともと可愛い子じゃない」
「いや、そうじゃなくって」
「大丈夫、解っているわ。―――もし、捕らえた煉が決して吐かなかったとしても、あの子なら吐くだろうってことでしょ。多分」
「わお」物静かに。
「嗚呼、当たっていたのね」
「なんだなんだ? 残念そうに」
「いいえ、こっちのことよ」
「教えてくれたっていいじゃん」
猫なで声で、きた。
でも、教えてやらない。
そして、水で食器の泡を洗い流していきながら、志穂は溜め息混じりにひと言呟いた。
「恋は人を盲目にする。……か」
「そういうわけだ。―――“もしもの時”は、頼んだぞ。志穂、お前が若葉を吐かせてほしい」
「解ったわ」
眼差しも言葉も真剣にそう頼んできた麻実を見た女は、微笑みながらも頷いた。
そうして、宙で黄緑が若葉の手裏剣を弾きながら間合いを詰めていくのを見た志穂は、敗北を判断したのちに、エンジンを噴かしていき、斜め前のビルの非常階段をめがけて助走つけて飛ばしていく。金網と薄いブリキの扉とを破壊して入り込み、ハンドルを的確にさばいていきつつ、階段を上って屋上へと飛び出した。すると、単車に跨がった目線の高さに、その遠くで、黄緑の青竜刀から貫かれている若葉を確認。焦る気持ちを押さえながら、志穂はアクセルを回して、疾走をして跳躍すると、迷うこと無く黄緑へとバイクを衝突させた。
その突っ込んだ建物の階の廊下を跨いで、壁を突き破ってオフィスへと突入。無人のオフィス内部を、黄緑をフロントに乗せたまま志穂は走らせていく。ステンレス製のデスクを始め、その上に整頓されていた書類のバインダーから目隠しの列を押しのけて崩していき、階を支えている柱をも数本ばかり抉ったりなどして、これらを容赦なくこの小柄なツインテールの女にぶち当てていき、遂には、壁が迫ってきた。フロントに背を当てられる格好でバイクにしがみついていた鶴嘴黄緑は、この急速に差し迫ってくるものに、さすがに恐怖を感じて、極めて珍しいほどに金切り声も同然な言葉を吐きつけた。
「何しやがる! この、馬鹿女!!」
目隠しがデスクに弾かれて、 黄緑の額に激突。そして、旋回しながら遠くに落ちた。
「あでっ!!…………この―――――」
そう歯を剥いて、なにかひとつ云ってやろうかしらと志穂を睨みつけた次の瞬間。壁を突き破ったと同時にバイクが急停止したそのときに、黄緑は、放り投げ出されてしまった。瞬く間に全身から血の気が引いてゆく。宙で羽ばたくのも忘れてしまい、僅かな滞空時間をその細身に体感しつつも、負けじと食いしばったのちに、目を鋭くさせて睨み、単車に跨がって“にこやかにバイバーイと”手を振る志穂に向けて、渾身のひと言を投げつけた。
「ひ……っ! ひとでなしいいいいぃぃぃーーーぃぃ―――――――――!!」
と、最後はこのようにフェードアウトをしながら急降下していった。
「貴女なら大丈夫。頑張って生きられるわ」
寒気を覚えそうなくらいの微笑みをたたえつつ、内心は一ミリグラムも思っていない励ましの言葉を、黄緑へと贈った志穂。そして、青いマシンをUターンをさせて来た道を戻っていくと、柱に身を預けて座り込む若葉の姿が。貫通された胸元の傷は、例の“生き物の力”で治癒が始まっており、回復は近かった。これを見た志穂は、エンジンを切ってスタンドを立てると単車から降りるなりに、疲労の色を浮かべている若葉のもとへと歩み寄っていく。次に、後ろのポケットからコンパクトを取り出して開くと、中の物を指先に付けて、セーラー服の裂け目から覗く傷口に塗りつけていった。片膝を突いて、丁寧に縦になぞってゆくと、若葉が思わず幼女みたいな声をあげて、志穂の腕を掴んだ。
「だ、大丈夫、だから……」
「これね、治療薬じゃないのよ」
「だから、って……。ちょっと、あぐ……っ!」
瞬間。傷口をこじ開けて志穂の手が入り込み、内部の骨や筋肉などをその細い指で上手い具合に掻き分けるなりに、心臓を鷲掴みにした。そして、容赦なく握り締めてゆく。すると、たちまち若葉の意識は薄れていき、呼吸困難となっていく。たちどころに視界は霞がかかって、オマケに気管に蓋をされたような感覚におそわれていった。両耳からは、まるで蝉の鳴くような音も聞こえてきた。
もう、あたしはこのまま殺されるのかという思いがよぎった、その刹那、心臓を万力のごとく締めつけていた指が解放されて、今度は“直に心臓マッサージ”を始めたではないか。すると、当然のように若葉は意識を取り戻していき、呼吸も行えるようにもなった。次に、志穂へと、やっとの思いで言葉を絞り出してゆく。
「や、やめて……!!」
「どうしたら、この私が止めると思う?」
「そ、そんな……!?」
「貴女が煉に鞍替えしていたことは、既に知っていてよ」
こう露骨に語尾をあげて、口元を歪めた志穂は、再び若葉の心臓を一気に握り締めていった。志穂のか細くて柔らかい指が、まるで鋼鉄のワイヤーのごとく信じられないくらいに硬くなって、絞めていく。ひょっとしたらこのままいくと、心臓が輪切りにされてしまうのではないかといった恐怖感に、若葉はたちまちおそわれてゆき、体内の芯から冷えていくのを覚えたのだ。
そうして再び、若葉の意識が遠のきかけたときに、先ほどと全く同じと云っていい程で、ひじょうに良いタイミングをもって志穂からの“直の心臓マッサージ”を受けて再度意識を取り戻す。いや、意識を“取り戻させられる”が、適当か。
それからは。
逝きかけては、引き戻され。
逝きかけては、引き戻され。
逝きかけては、引き戻され。
これを繰り返すこと約五回。
そして、もう一度その指先に力を込めようかとした、そのとき。
「れ……零華は、血そのものから、いい生きているわ……。―――――」
あれは、そう、確かアタシが三葉と一緒に焼死体を毒島邸に運んできたときのこと。ひと仕事を終えて、煉の案内で浴室へといき、汗を流して邸宅から出ようと廊下を歩いていて、ひとつ礼を云おうと零華たちを探していたら、ある一室から話し声が。一緒に帰ろうよと誘ってきた三葉を未だすることがあるからと先に返して、近づくと障子に手をやり静かに極小さな隙間を開けて、中を覗いてみた。すると、その八畳間には、零華と煉の他に、白髪頭の白衣の男の傍に若い娘の看護師がひとりついて、白髪頭の指示を受けながら、娘は零華の白い腕の動脈へと注射針を刺してゆく。そして、赤い透明感のある液体がその無機質な円筒形の器の中に吸い込まれていった。あのミス紫陽花が、こんな白昼から部屋を閉め切って、血液を採取されている。……いや、この場合、採取“している”のか。そして、なんだか不思議と湧き上がってきた興奮を覚えはじめていたそのとき、障子を引かれて、驚きの余りに声を出せないながらも顔を上げていったら、煉から見下ろされていた。
この時ばかりは若葉は殺されるかと思った。だが、煉は呆れを含んだ笑みを見せるなりに「見られたのは、私たちの不注意ね」と呟くと、後ろの女を呼んだ。白衣の男と看護師の娘へと「ありがとうございます」と頭を下げたのちに、肘の裏を揉みながら零華は近寄ってきた。若葉の顔を見た途端に「なになに?―――この子、二重スパイ」と、なんだか楽しそうな表情と声で煉に尋ねていく。そんな訳ないでしょと零華に突っ込んだあとに、優しく両肩に手を添えて立つように若葉を促してから、恋人と数秒目を合わせたあとに再び女を向いて口を開いていった。
そう、零華は―――――
「零華、の、全……身は、生きて、いるの……。あっアタシや、りょうたちと違っ……て……。あの子、の場合、血液……細胞に、至る、まで……“生き物たち”……なの……っ。―――そしてっ……! いっ“生き物……たち”が、どう……しても拒絶反応を、起こしてしまう物が……っ、うぐぐ……っ!!」
次の言葉を発する若葉の口元へと、志穂は素早く耳を寄せた。異様な拷問から受ける苦痛に堪えつつ、息を切れ切れながらも志穂に伝えていく。憧れである前に、愛しさに胸を焦がしていた八爪目煉を裏切るつもりなどは毛頭なかった。しかし、このままでは本当に殺されそうだった。ゆえに、生きたいことを選んだ。
「そう、良く答えてくれたわ」
と、全てを聞き出した志穂の顔は、先ほどまでの冷笑を浮かべたものではなく、若葉の知る“いつもの志穂”になっていた。次は、愛らしい笑顔をみせたのちに、傷口から手を引き抜いてゆくと同時に若葉が声をあげて大きく躰を痙攣させたのだ。
そして。
「ごめんなさい、痛かったでしょう。今度はちゃんと治してあげるわ」
そうして、どのくらい気を失っていたであろうか。瞼を開けた若葉が身を起こして、身なりを確かめると、直してあった。志穂の姿が見当たらない。とっくに、次の現場に移動したらしい。刹那、後ろめたさに押されて、針に刺されたような痛みを覚える。アタシは、煉も裏切ってしまった。直後、湧き起こってきた切ない感情に両手で顔を覆っていく。小さく息を啜る音が、無人のオフィスじゅうに響き渡っていった。生まれて初めてだった。このように“とどめなく”溢れ出てきたのは。
「ごめんね……。ごめんね……。ごめんね……。ごめんね……。ごめんね…………煉……」
「あらあら、可愛くなっちゃって」
音もなく背後に現れた、ツインテールのシルエットに、途端に若葉は躰じゅうに震えを露わにしていく。後ろの女が、もとの悪戯好きそうな顔立ちをさらに“そうさせて”から、両手の武器を逆手に持った。正直云って、もう、若葉には戦意は一滴さえも残っておらず。頬を流れ落ちてゆく涙とともに、脂汗も噴いてきた。だが、なんとか声を出そうとしていくも、ただパクパクと口は開閉を繰り返すのみ。意を決して振り向こうかとした、その瞬間。横に走らせた青竜刀によって若葉の首は撥ね飛ばされて、残った躰は横倒れになった。
刀身に付着した血糊を振り払って後ろにしまい込むと、片膝を伸ばしていく。
「云ったじゃん。アンタはとっくの昔に用済みだったって」
そう、半分血まみれの顔を嘲りに微笑ませたのちに、ツインテールの女こと鶴嘴黄緑は、肩甲骨から脈の走る乳白色の羽を出すと建物の風穴から飛び出していった。