脱皮その壱
1
翌日。
午前中のA組との合同体育の授業で、神棚八千代は毒島零華が先週末あたりから“生理”で休んでいると聞いた。アタシを含めた他のみんなも、サイクルで体調を崩したら、一日二日の休みで全快するというのに。これは、異様に長すぎる。そして、何か引っかかる。こう思考を巡らせつつ、体操服を脱いだのちにプリーツを穿き終えた直後。
「やーちーよー、さんっ」
「ひゃあっ!」
突然、後ろから無い胸を鷲掴みにされたものだから、思わず悲鳴をあげてしまった。背後の女、巻風木葉が遠慮なく指を動かしながら、陽気に声をかけてくる。
「どーしたのよ、コワーい顔なんかしちゃってさ」
「え、ええと。いや、あのね、その。零華が、こんなに休むのが、信じられなくって……」
八千代のこのひと言から、本気で零華を心配していることが伝わってきたのか、木葉はその指を止めて離れると隣りに並んで口を開いていく。
「彼女が、そんなにも心配?」
「……うん」
「そうね。貴女と零華さんとは旧い仲だものね。―――でも、そこまで心配することはないわよ」
「どうして……?」
問いをかけた八千代が、木葉の横顔を見たときに、可愛さの中にある美しさを感じて不意に魅入ってしまったのだ。すると、伸ばしてきた手を八千代の肩に乗せて笑顔を向けてきた。
「“私たち”が日々偵察に行って、麻実に随時報告しているから大丈夫。零華さん、今のところは、死に目に遭うようなことはないわ」
「そ、そう……」
驚いた。
麻実の部下は、志穂と松葉と紅葉の三人しか知らなかったから。まさか、こんなに近くに居たとは。そして更に、木葉は再び驚くことをサラッと云いだした。
「そろそろ貴女にも伝えるわね。―――涼風松葉は順調よ。近々、復活するかもしれないわ」
「え……!? ほ、本当」
「ええ、ちゃんと確信できる理由があってね。此処と此処、二の腕と太ももとが異常に膨らんでいるのよ。これはきっと、何かあるに違いないわよ」
木葉が、己の上腕と太ももとを指差して、最後は嬉しそうな口調で告げた。
2
その翌日の夕方。
会社を終えた鬼堂重蔵は、いつもの通りに城麻実の家に立ち寄って、涼風松葉を介抱していた。四肢先端を失ってからというもの、松葉の意識は一向に回復する気配はなく、むしろ、吹風紅葉の首をはね飛ばされたのを見て以来ずっと閉じこもっているようだ。常に目元には気力を感じられず、天井を見つめているばかりである。だからといって、決して躰は崩れっぱなしというわけでもなく。襲撃に遭ったその直後に知らせを受けて駆けつけてきた重蔵により、今まで介抱を受け続けてきた甲斐もあって、ここふた月ばかりは陳新代謝が戻っており、流動型の食事をとったのちに排泄を見せていた。重蔵を主にして彼が仕事で不在のときは、他の者や麻実が世話をしていた。
月のものが来て、麻実に世話されているときの松葉の顔は、心なしか恥ずかしそうな感じを受けたのだ。
そうして最近は、そんな松葉の身に異常が起こり始めていた。肘から先と膝から先とを失った四肢が、膨らんできたのだ。それも奇妙な膨らみかたで、“もう一本ばかり詰まっているような形”である。不可解だった。明らかにこれは常識を超えている。そう思いつつも、松葉の顔に変化はないかと調べてみたら、何だか美しさを増していた。もともとから美人だった涼風松葉だが、それが更に、磨きが掛かったような印象を受けた。こんな事って起こりうるのかと思いながら、麻実は松葉の頭を優しく撫でてゆく。
程なくして、重蔵が御手洗いから六畳間へと戻るなりに、麻実の隣りに胡座をかいて松葉を見つめていった。ふと麻実に首を回して口の端をあげたのちに、再び松葉へと戻す。
それから、汗ばんでいた松葉の全身を拭いてあげて着替えさせたのちに、重蔵と麻実の二人は洗濯機のある浴室にいた。乾燥ドラムから乾いた衣類を取り出しながら、重蔵は、その隣りで洗濯層へとタオルと寝間着を入れてゆく麻実の顔を見てしまう。女は精悍なものを持ちながらも、その中には美しさがあった。それに、ずっと長い間に渡って一緒に松葉を介抱していたせいか、もう、婚約者――つまり、松葉――の知人という見方が難しくなり、抑えきれない物を抱えるようになってしまったのだ。俺には大切な松葉がいるじゃないかと己に云い聞かせるものの、やはり、麻実が隣りに居るとあの独特な香りを感じて、男の深い部分を刺激されていく。これは以前にも感じたもの。お見合いで、松葉と初めて顔を合わせた時の、あの香り。もちろん、違うものであったが、この独特な惹かれてしまう気持ちを刺激する香りは同じであった。
これが、処女の色香といったものであろうか。もし、本当に男を知らないのであれば、確かめてみたい。湧き上がってきた己の黒い物に、ハッと気がついた重蔵は、麻実と目があってしまったので素早く顔を逸らした。向こうは果たして、単にこちらの視線に気づいたのか、または、持ってはいけないこの感情に気づいたのか。とっさに目線を外したから、女の顔がうかがえない。
そんなさなか、
「鬼堂さん、私を……私をずっと見ていましたね」
「そ、それは」
やはり、気づいていたのかと、焦りが出てきた。
「私を“女”として、見ていたのですか」
「……はい」
観念して、正直に吐いた時。
「やだ……。その……恥ずかしい……」
「え?」
「あの、そのお気持ちは嬉しく戴いておきますけれど。あの……、ま、前を、堂々と膨らませているのは……あまりにも正直すぎます……」
頬を赤く染めた麻実が、恥じらいながらもズボンの前を張っているのを指摘したのに気づいた重蔵は、慌てつつも乾いた衣類でそこを隠しながら「すみません」と述べて部屋から出ていった。
それから、全自動洗濯機の洗濯層にリンス入りの洗剤を入れて一連のデータを入力したのちに、一瞬だけ動きを止めて、先ほどの出来事をよみがえらせていったら、再び頬がほんのりと赤く染まった。少しばかり、胸が高鳴りだしたか。やがて、浴室を出て松葉の様子を見に行こうかと廊下を歩いていたところ、前から、麻実と並ぶ長身の美しい女、風見志穂がこちらに向かってきていた。女は、その顔を見るなりに微笑んで声をかける。
「麻実」
「志穂……」
「どうしたの。何か良いことでもあった?」
「さっき私、鬼堂さんからね、“女”として見られていたんだ」
「そう」
言葉を交わしてから、女二人は肩を並べてゆっくりと歩き始めてゆく。数秒経ったときに、麻実が再び口を開いた。しかも、かなり“まんざらでもなさそう”である。
「何だろう。こんな気持ちは初めてなんだ……。大切な友人の恋人だということを解っていても、あんな風なことを云われたのにもかかわらず、私……嬉しいんだ」
「このぉー。人様の旦那さんを一瞬とはいえ、誘惑したなんて、大した女じゃない。麻実」
「ゆ、誘惑だなんて」
志穂からニヤニヤしながら軽く肘でゴツかれつつも、麻実は未だにその嬉しさを抑えきれないでいた。どちらと云うと、暫くはこの余韻に浸っておこうとしたのである。
数分後。麻実と志穂の二人が、台所で洗い物をし終わったときだった。すると、微かだが、奥の六畳間の方から女の声が。間違いない。松葉の声だ。なにか、苦しみに呻いているようだった。二人は急いで手を拭くと、奥の方へとかけてゆく。
3
「松葉っ!」
「松葉ぁ!」
勢いよく六畳間の障子を引いた女二人の視界に飛び込んできたものとは、敷き布団で苦痛に喘ぎながら、途切れた四肢をばたつかせて身悶えしている松葉と、それを抱きしめて必死に押さえ込んでいる重蔵の姿。細身ながらも逞しく鍛え上げた彼の胸の下で、恋人である松葉は、着替えたばっかりの寝間着を汗で肌全体に張りつかせており、艶やかな黒髪を湿らせて首筋と露出した鎖骨に付着させていたうえに、喉の奥からは聞くに耐えない痛みを吐き出していっていたのだ。時には、歯を剥き出すほどに力強く食いしばってゆき、息の嗚咽を交えて、さらには、細く“しなやかな”その躰を、まるで昆虫が毒に悶えているようにくねらせつつ仰け反らせている。しかし、重蔵は、その姿に怯えや恐怖を感じるなどよりも、己の大切な女の苦痛を少しでも和らげたいが為に、できる限りの力で押さえ込んでいった。だからといって決して押し潰すことなど乱暴にせずに、じぶんの躰の下で思う存分に痛みが治まるまで、暴れられる余裕を残して抱きしめていたのだ。
麻実と志穂が、二人の異様な光景に目を奪われていたが、素早く我に返って駆け寄ると、松葉の両脇に回り込んで、ばたつかせている欠損した四肢を押さえつけた。
すると、そんな二人の気遣いに顔を向けた重蔵は、汗を噴きながらも微笑んだ。
「ありがとう。でも、折角だけれど、暫くコイツの好きにさせてやってくれないか」
この頼みに頷いた麻実の顔は、もう泣きそうな一歩手前を保っていた。胸が痛んでしようがない。一番、痛いのは松葉であるのに、何故こうも私の胸が締めつけられていくのだろう。
麻実は志穂から優しく肩に手を添えられて、二人から離れたその瞬間だった。松葉が首を使って、重蔵ごと跳ねたのだ。そしてそれは、半円を描いて上下がひっくり返り、畳に落下したときには重蔵に松葉が覆い被さっている態勢となったいた。次に、畳に突いていた膨らんだ四肢それぞれの皮膚に縦に亀裂が走ってゆき、突き破ったと思ったら、なんと肘から下と膝から下とが無色透明の液体を撒き散らして現れたではないか。
しかも、女の変化はこれだけにとどまらず。“折り畳まれていたかのように開いてきた四肢の先端”が畳に突いて根をおろし、一瞬のみ下の重蔵と目を合わせた。直後、松葉は躰を大きくビクッと痙攣させて顎を見せるほどに喉を伸ばして仰け反り、今度は、再び背中を丸めて小刻みに震えだしていく。その途端、尾てい骨から延髄を通過して脳天にかけて、背骨に添って真っ直ぐと線を走られて、松葉が喉の奥深くから今までにない低い唸りを吐いていきながら、さらに背中を曲げていくと、その縦に走った皮膚を寝間着ごと裂いてゆき、不健康な色合いの白い肌をした者を生み出していった。やっとの思いで両腕と頭部から長い黒髪とともに引き抜いたのちに、その細く病的な白い裸体を反らせるなりに、天井を仰いで思い切り酸素を欲していく。それからは容易なだったのか、抜け出した皮に手を置いて小振りな腰を引き抜いていき、長い両脚も抜けた時には後ろの敷き布団へと転倒。
木目の天井を見上げながら、息を切らして無色透明な液体に全身をまみれさせていたこの青白い裸の女は、涼風松葉であった。恋人の“抜け殻”から抜け出した重蔵と、麻実と志穂とがほぼ同時に駆け寄って心配しつつ覗き込んだその女の顔は、ひとつの仕事をやり切ったかのごとく、爽快感に溢れている笑顔である。切れ長な瞳で三人へと目配せをしたのちに、松葉は「ただいま」と呟いた。そのあと、いきなり、重蔵に愛おしい目線を送るなりに、松葉が彼の首に両腕を巻きつけて唇を重ねてきたのだ。
脱皮と一緒に意識も引き戻されたらしい。
4
気持ち長い口付けが続き。
彼から顔を離した松葉は、頬を朱に染めて話しかけてゆく。
「ねぇ、重蔵さん。今の今まで、私を待っていてくれたの?」
「ああ」
「そちらに居る美女お二人に浮気しても良かったのに。それでも?」
「ああ、そうだ」
「……バカなひと……」
「まあな」
重蔵へと最後に吐き捨てたこのひと言の中に、松葉は、はちきれんばかりの嬉しさを含ませながら、さらに彼を抱き寄せた。そうしている内に、松葉の不健康を思わせる白い肌が、徐々に健康的な色味を取り戻して、最終的な変化を終えた。
この光景を見ていた女二人は恥ずかしくなってきたようで、松葉に手を振ったのちに“そそくさ”と六畳間から退散。無色透明な液体にまみれた美女の“後処理”に関しては、重蔵に任せることにする。
約三〇分後。
お膳のある八畳間に移って。
シャワーを浴びて寝間着に着替えた麻実と志穂は、淹れた煎茶を啜りながら、言葉を交わしていた。なにやら不可解ながらも強烈な疲労感におそわれるも、二人はそれ以上の安堵感を覚えていたのだ。
しっとりと濡れた天然パーマの髪を下ろしていた麻実が、湯呑みを置いて口を開いた。
「なあ、志穂」
「なぁに?」
「松葉。少しばかり性格が変わっていなかったか」
「ええ。あれは変わっていたわ。―――何だろう? 前よりもというか。よりいっそう、色っぽさに磨きが掛かったんじゃないかしら」
「だろ。そう思うよね」
そう呟いて頬杖を突きながら、麻実は睡魔に襲われてきたらしく、船を漕ぎはじめていく。これを見た志穂が「仕方ないわね」と云った笑顔になり、麻実の肩に優しく手を置いて「もう、寝ましょう」と告げると湯呑みを片付けたのちに、女に肩を貸して立たせる。そして、各々の部屋へと向かった。
5
そして、翌朝。
久方振りに重蔵と熱い夜をすごした松葉は、今朝方玄関で彼に「行ってらっしゃい」と会社へと送り出したのちに、麻実から呼ばれて六畳間にきた。座布団に正座して、麻実と向かい合う。そして、その女の隣りにいた志穂から白い包みを手渡された。物の感触を手に持った重みと柔らかさで、松葉はこれが衣類だと判断。ここはひとつ訊いてみようとした矢先に、麻実から先手を打たれた。
「“こちらに戻ってきた”ばかりのところで悪いと思うが、さっそくそれを着て、その高校に編入してもらいたい。前もって手続きは済ませてあるから、校長先生たちに学生証と顔を見せるだけでいい」
「随分、根回しが早いんだね」
「……鬼堂さんと水入らずで過ごしたかったところを、すまない」
「大丈夫。私はもともと、貴女と一緒にここまできたんだ。いつもの仕事が出来て嬉しいよ」
無邪気に微笑んだ松葉の顔に、今までになかった愛らしさを感じた麻実と志穂。そして、そのひと言も加わった二重の衝撃に胸を締め付けながらも、麻実は口を開く。
「松葉」
「なあに」
「悪いが、その……。今回はお前を仕事から外してあるんだ」
「何故なの」怪訝になる。
「お前は世間では死んだことになっている。よって、“書類上の別人”として活動をしてくれ」
「じゃあ、何て名乗れば」
「そりゃあ決まっているじゃないか。お前、近々あの人と籍を入れるんだろ」
「やだ……、麻実ったら」
熱くなってゆく頬を感じつつも、松葉はあとひとつ訊いた。
「……で、私が行く高校は?」
「黒船高等学校だ。そこでお前の夏を意のままに使ってほしい」
「了解」
そして、編入手続きを終えた松葉が、その高校の教室の黒板の前に立って、約三〇名の生徒を前にして自己紹介。
「初めまして、“鬼堂”松葉と云います。僅かな間ですが、皆さん宜しくお願い致します」
墨色のセーラー服に身を包んだ松葉は、礼儀正しく述べたときに、静かながらもクラスの皆が女のその容姿に感嘆した。
涼風松葉あらため鬼堂松葉の編入したその学校とは、『長崎市県立黒船高等学校』である。男子は墨色をした、詰め襟の学ラン。女子のセーラー服も墨色だが、セーラーカラーの真ん中には白の刺繍糸で、高校の紋章である碇を装飾しており、その両側の襟には、碇の爪を象った物を白抜きで染めてあった。さらに、白い上着の両肩部分にも、墨色の刺繍糸で碇の紋章。以上、松葉の身につけているのはスタンダードの組み合わせであり、女子には白黒が反転した物もあって、二通り三通りの組み換えが出来る制服であった。 松葉は三条冬美教諭から指定された真ん中あたりの窓際の席に着いたときに、出掛ける際に麻実から告げられたひと言を脳内で再生させていく。
「待て、松葉」
「何? 珍しく焦っちゃって」
「その……。仕事から外した事について悪く思ったなら――――」
「気にしないで、大丈夫」
「ありがとう。―――それとな、お前に先ほど、意のままに夏を使ってくれとの意味なんだが。あれは本当に、ひとりの女子生徒として学生を送ってほしいんだ」
「……麻実」
胸が熱くなってくる。
微笑みがこぼれて、思わず麻実の額に額をくっつけて離したのちに、手を振って出て行った。
「じゃ、行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい」