ホーネット
1
同日、ほぼ同時刻。
一方こちらは、八千代と商店街のあたりで“バイバイ”して、停留所にて茂木方面行きのバスを待っていた真也。別れを告げたのは良いが、あのまま八千代は“まっすぐ帰宅するとは思えない”ような胸騒ぎが徐々に沸いてきたのだ。正直、あの稲穂姉妹は“どうでもいい”わけで、まず何よりも、基本的に非情な行動に出れない八千代の性格が心配だった。あれは罠だったんだよ。あのスカイタワー女こと、天照舞子のくれた警告は初めから罠だった。稲穂姉妹がこの先で戦っているのが事実だと仮定しても、あのひと言は、アタシと八千代を釣る為の“餌”だったんだ。
そして、腕時計の針を見たのちに、電車通りにへと顔を向ける。決意は固まった。
「その誘い、乗ってやらぁ」
踵を返したその瞬間。
女の顔面をめがけて、足の裏が二つ襲ってきた。が、間一髪のところで腕をクロスさせて防ぎ間合いをとってみたら、すると、ひとつの影が、ドロップキックの姿勢からガードレールの手摺りを支えにして、軽やかに着地。一瞬のみ薄紫色のプリーツを品よく花を咲かせたのちに、白くて細い脚を包み込んだ。
真也は蹴りを喰らった痺れを味わいながらも、その両腕を下ろして、相手の顔を確認するなりに、思わず叫んでしまった。
「蜜恵」
「やあ、真也さん。今からどちらへお出掛けかしら」
そう意味ありげに微笑みかけた影の正体は、蜂巣蜜恵。私立紫陽花女子高等学校三年生、十八歳。以前、春の終わり頃に麻実の家へと零華たちと共に襲撃したときに、蜜恵の戦った相手、つまりは眞輝神樹梨から首を捻られて敗北を味わった女。だが、今はこうして肉体を再生させて、真也の前に立ちふさがっていたのだ。
若干出てきた風に、薄紫色のセーラーカラーとタイとプリーツの裾とを靡かせつつ、蜜恵は肩甲骨までにとどく三つ編みをマフラーのように巻きつけて、微笑みながら真也へ語りかけてきた。しかし、こうやって単体で見ると、地味な印象はありながらもなかなかどうして美人である。
「八千代さんのところに行くのだったら、そうはさせないわよ」
「そりゃ、困る」
「私の役目は、貴女を虫の息にしてでも、零華のもとへと連れていくのがそう」
「やってみたら?」
「んふふふ。美人で優等生なのに、ツンケンしてくるそんな貴女って、好きよ……」
2
茂木行きのバス停にて、奇妙な光景が繰り広げられていた。
二人の少女が、薄紫色のセーラー服を風に揺らしながら、ただならぬ空気を巡らせて向かい合っていたのだ。
下り側に立つ蜜恵が、猫足になったのちに、合掌にして突き上げたのを、それぞれ半円を描くかのように左右に広げてゆき、そして臍の位置で再び合わせた。最後は、その両腕を突き出して、それを半回転させたのである。すると、女の眼はたちまち深紅に反転して、額を突き破って触角を現し、四肢の先端を昆虫類のごとく外骨格化させたのちに、それぞれが銀色に変わり、最後は両方の肘から手首へとかけて生まれた細い溝から、七色の揺らめくオーロラのような物が出現したのだ。
息を短く吐いた蜜恵が、大きく踏み入れて拳を真っ直ぐと突き出した。鈍い音を立てて空を斬り、真也の顔を狙うも、寸前ではたかれてしまう。蜜恵の拳を払いのけたあとに、真也は学生鞄を投げつけたが、それもあっさりと蹴り飛ばされた。そして、遠くで学生鞄の落下したのを聞いたとき、真也は背を向けてダッシュしてゆき、舌打ちした蜜恵が女の後を追っていく。
走ったところのすぐ角を右に曲がり、売店や商店などに挟まれた細い石畳の路地を下っていったその途中で、極めて薄い物が擦れ合う音を聞いて、目線を上げた真也は、思わず足にブレーキをかけた。止まるときにバタバタと周りにはしたない姿を晒したが、この女はそんなことは気にしない。真也のはるか頭上を越えてその先に舞い降りた者は、変身した蜜恵にほかならなかった。左右四枚ある極薄の乳白色の羽を着地と同時に肩甲骨へと折りたたんでしまい込み、片膝を伸ばしていき、数メートル先の真也を睨みつけた。そして、蜜恵は薄笑いを見せながら、話しかけていく。
「どこへお出かけかしら」
「なぁに、適当な場所を選んでやってんのさ」
鼻で軽く息を吐いて返す。
と、ここで地を蹴って、真也が一気にエリアを縮めにかかった。突き出した蜜恵の踵から、上体を沈めて潜り抜け、そのまま懐へと飛び込んで女の腹に肩を当てるなりに、腰に両腕を回して完全にロックを決める。そして、真也はさらにその態勢のままに走っていき、建物の壁へと蜜恵の背中を叩きつけた。途端に、女の背骨を太い稲妻が走り抜けて、臓物を刺激してゆく。二度三度と叩きつけたのちに、壁と蜜恵から身を離した真也は、間合いを保ったあとに、容赦なく踵を女の躰にへと何度も突き刺していったのだ。そうして踏み込んで肘を頬に二度ほど打ちつけていったときに、腕を立てられて防御された瞬間に、蜜恵の拳が真也の腹に吸い込まれた。
不意を突かれた女は、腹に一撃を受けて吹き飛ぶも、受け身をとって転がり片膝を突く。軽いウェーブのついた癖毛が額にかかるが、気にしない。今は、目の前にいるあの女をどうやって退けるのかが先決。壁から背中を離して歩き出した蜜恵は、口の端から垂れていた血を拭いながらも、笑みを浮かべていた。正直、もう、八尋鰐真也を虫の息にして連れて行くなんてことは、どうでもよかったのである。とにかく真也を倒したくて、しょうがない。“いい女”を目の前にした、今の私のこの高揚した精神状態では、とてもじゃないが虫の息にするなどといった器用なことは出来そうにもない。とにかく私は、この女に勝ちたいのだ。一度、戦闘意欲に火が点いてしまったら、何があっても消せないのと同じである。
―今、この幸せを、誰にも邪魔されてはなるものですか。ええ。邪魔なんてさせない!――
すると、蜜恵の両腕から揺らめき立っていた虹色のオーロラのようなものが、伸びて巻きついていったのだ。そしてたちまち、肘から下を光りに包んだと思ったのちに、それは皮を剥ぐかのごとく捲れて消えてゆき、青竹色の新たな両腕を生み出した。青味をおびた銀の色合いの腕には、例の肘から手首へと走る細いスリットが健在。最後にそこから、あのオーロラを吹き出した。
もう、何を見ても驚かねーぞと腹を据えていた真也だったが、さすがにこれは目を剥いてしまう。女のそのような反応を前にしながら、蜜恵は腰を落として顔の前で両腕をクロスさせると、深紅の眼を輝かせていった。と、同時に、その青竹色の両腕からは、静電気が走り回りだしていき、やがては地をかけて電柱に駆け上ると、電線の根元で弾け飛んでショートさせたのである。瞬間、その地区が一時的な停電を起こしたあとに、再び点滅して電力が復活。
そして、蜜恵は息を短く吐き捨てるなりに、真也に飛びかかってゆく。青白い静電気の巻きつくその拳を、迷うことなく放った。払い落とされるも、すぐさま肘に変えて胸元に叩き込む。肩を当てて距離を置き、再び拳を次々と走らせていく。“まともに”喰らってはひとたまりもないと瞬時に判断していた真也は、おもに肘、時には足の裏を使い、蜜恵の電撃の拳を退いていっていた。大きな円の軌道を描いた蜜恵の腕が、下から突き上げてきた肘鉄となり、腹を刺す。そして、そのままの勢いに乗せて大股に踏み込んで、静電気の渦巻く拳をボウガンの矢のごとく放った。
刹那、勢いよくその腕を叩き落とされたと思ったら、真也の拳が蜜恵の頬にめり込んでいたのだ。真也は、電気をまとった青竹色の拳を叩き除けたのと同時に踏み込んで、相手の横っ面へとその拳を撃ち込み、捻りをきかせて突き飛ばした。打撃によって躰が宙を舞うなかで、蜜恵は、真也が更なる追い討ちを仕掛けている姿を見た。それは、実にゆっくりとした映像で。と、そのとき、背から落ちそうになったところで、蜜恵は地に手を突き支えて両脚を引き寄せたのちに、それらを放った。とどめの一撃を喰らわせようと踏み出した真也の胸板に、両足が叩き込まれた直後、間髪を入れずに今度は顔と“みぞおち”へと両足の蹴りを受けて吹き飛んだ。そして、向かい側の衣服屋のショーウィンドウのガラスを突き破り、数台のハンガリー掛けを倒していって床に背中を打ちつけるものの、受け身をとって最低限に二次のダメージを抑えた。
「赤心少林拳、四方蹴り」
蹴りを放った反動から片腕倒立、そして着地して、遠くの真也を確認したのちに、蜜恵はこう呟いた。その後に、ダッシュをしながら、胸元で青竹色の両腕をクロスさせて背中を丸めるなりに、その衣服屋のショーウィンドウのガラスをぶち破って入り込んだ。店内がざわめき出すのをお構いなしに、薄紫色のセーラー服姿の少女二人は、目線の火花を散らしていく。真也の立ち上がりと同時に、蜜恵の両腕が再び虹色のオーロラに巻きつかれてゆき、そして光り輝いたそのあとに、青白い光りを“脱皮して”新たな腕を生み出した。それはまるで、虹色を欠いた玉虫のように銀色を含んだ緑色。
そうして、長細い溝から虹色のオーロラを噴き出したのちに、床を蹴って真也のエリアへと飛び込んだ。蜜恵の突き出してきた掌を防御した瞬間に、躰じゅうを悪寒が駆け巡り、反射的に離脱した。
すると。
「熱っ!」―いや、冷たいのか……!?――
“焼けるような冷たさ”に呻いて、腕を振るう。
しばらく間をおいたのちに、蜜恵が再び腰を落とした構えから踏み込んで、緑色の拳を次々と繰り出していった。と、そんな中、真也に背中を向けた。この僅かな時間に、女は蜜恵の次に来る動作の選択肢を出す。バックハンドか、後ろ廻し蹴りか。直後に、床から鋭い線を描いて、真也の顎を狙ってきたのだ。
―後ろ廻しか……!――
顎を引いて蜜恵の踵を流したところで、拳を真っ直ぐと撃ちだした。が、その一撃は円弧を描いた腕により不発となり、真也の方に隙を生じさせたのだ。もちろん、これを逃す蜜恵ではない。廻し受けで防いだならば、その同時に私の一撃をお見舞いするのみ。そして、緑色の掌が、真也の胸元にへと正確に叩き込まれた。
刹那、躰を白いものが貫き。
忽ち心の臓を凍結させた。
吹き飛んだ躰は、受け身もとることも出来ずに、力無く床に落ちて、開きっぱなしの瞳孔がシャンデリアのぶら下がる天井を見つめていたのだ。
乳白色の床に粉々に砕け散ったガラスの上で、仰向けになり意識を失った真也を、蜜恵は薄笑いを浮かべて見ていた。そののちに、鼻歌を奏でながら歩いていき、真也の躰へと跨るなりに顔を近づけて、その頬を両手で撫でてゆく。
「貴女、最高に綺麗よ」
深紅の眼を歪ませて、こう耳元で囁いて上体を起こすと、己の胸元で緑色の両手を合掌させた。すると、両腕の細長い縦に走る溝から生えている虹色のオーロラがそれらに巻きついて、白く眩く光った直後に、皮が剥がれてゆくかのように捲れあがっていった。それは再び、青竹色の両腕へと変化したのだ。やがて、青白い静電気を発してゆく。そうして、息を大きく吐いた蜜恵が、合掌させた腕を天高く突き上げたのちに、それを半円を描くように左右に広げて、胸元で交差させた。その瞬間に、プラズマが床と壁を走り回り、蛍光灯を割っていった。
そして、意を決した蜜恵は、稲妻をまとう青竹色の両拳を、下で仰向けになっている真也に躊躇なく突きおろしたのである。狙いは、両脇。“あばら”に拳を突き刺して、皮膚をのぞき、脳味噌と内臓と筋肉繊維に神経系を焼き尽くしてあげる。
次の瞬間、両側で光りを弾かせたその時、真也は大きく躰を仰け反らせた。
3
だが。
「なに……!?」
蜜恵の放った狂喜の拳が、真也の躰を貫くことなく当たったのみで、それ以上はいくことはなかったのであった。すると、女は両肘からたちまち違和感を覚えた。なにか、“両側から何物から引っ張られている”ような感触だったからである。それは、肘から生えた極細の“何か”が照明を反射して、斜め上へと走っていった。これに蜜恵は、深紅の眼を見開いて声を漏らしてしまう。
「まさか、縫い糸……!」
そのあと、下の女が背を弓なりに仰け反らせて、顎を見せるほどに首を伸ばしたのだ。
「っっ…………はぁーーーっっ……!!」
気道を確保して、酸素を入れてゆく。瞳孔は動きをみせて、瞼は“まばたき”を繰り返した。そして真也は、意識を取り戻したのと同時に、じぶんに跨る蜜恵を視界に入れるなりに、青竹色の両腕へと蛇のごとく両腕を巻きつけて、躰を思いっきりブリッジさせたのだ。途端に、蜜恵の両肘は破壊されて、反対側に折れた。たちまちそこから駆け上ってきた稲妻に、女は深紅の目を剥いて、喉の奥から声を吐き出していく。
しかも、真也の技はこれだけには終わらず。
蜜恵の胸元に僅かな隙間をつくって、拳を突きつけるなりに、刹那、一呼吸と同時にその一撃を鳩尾に炸裂させた。その次の瞬間には、シャンデリアの破壊とともに、蜜恵は躰と頭とを装飾部分から貫かれており、歯を剥きつつ床で構えている女を睨めつけるが、直後、息を細く吐き出していき、絶命した。
「がはぁっ!! ぉうえっっ!!」
天井で蜜恵が事切れたのを確認したなりに、真也は血塊を吐き出して、息を嗚咽。呼吸を整えて身を起こした。
そうして、また新たにざわめいたゆく店内に気づいたのか、周りに首を向けていき、「御迷惑をおかけしました」と述べて頭を下げて出て行こうかとした、その時。店内に、黒髪セミロングの、小柄で市松人形のような少女が入ってきたのだ。焦げ茶色が特徴的な、ショートジャケットの制服姿。
この少女を見るなり、真也は微笑んでひと言。
「聖マリアンナ女学院の方ね」
「ええ」静かな応答。
「御礼を云う前に、お名前を聞かせてくれる」
「奇辺原清子。私立聖マリアンナ女学院高等部三年生」
「そう。ありがとう、奇辺原さん」
「いいえ。八尋鰐さん」
4
奇辺原清子、十八歳。長崎市私立聖マリアンナ女学院高等部三年生、裁縫部所属。百六〇前後の身長と相まって、全体的に幼い印象を感じさせる。くりくりとした大きな瞳は、黒く輝いてはいるものの、落ち着きを払っていた。そして、その色白な肌に、ころっとした卵型の輪郭と、艶やかなセミロングの黒髪とによって、市松人形のような印象を与えていたのだ。
しかし、表情が乏しい。
清子が真也を見上げて話しかけていく。それは抑揚を感じさせる反面、発する声は静かなもの。
「八尋鰐さん」
「なぁに?」
「“生き返ったばかり”のとこで申し訳ないのだけれど、八千代さんを追いかけてください。ここの後始末は“私たち”がします」
「ええ、ありがとう。―――あの“心臓マッサージ”は、貴女の縫い糸だったのね」
「いいえ、どう致しまして」
と、清子が微笑んでみせたのだ。これにはキュンときた真也。そうして最後は、衣服屋から出ながら、清子と言葉を交わしていった。
「じゃ、じゃあ、後は任せたわ。お疲れ様」―可愛い……!――
「お疲れ様」