姉妹稽古
この書き物を、ラヴクラフトと遊星からの物体Xとライダー怪人とを愛する方々へ捧ぐ。
あの春の終わりに受けた襲撃から、時が経って。
夕方。
神棚八千代は自宅の道場で、姉の千代と稽古をしていた。
神棚千代、二五歳。顔は八千代をオトナにさせた感じ。切れ長な瞳をしているが、勝ち気な印象の眼差しは当然のごとく姉妹そっくりである。身長は百六八に見合った、細くて“しなやか”な躰つき。地道に市役所勤務。肩にかかるほどの焦げ茶の髪の毛を、七三に分けている。職場でたまに掛ける長細い眼鏡姿の、評判が良いらしい。
静寂な道場内では、床を蹴ったり、擦れて高い音を鳴らしたりなどを響かせていた。姉の黒い袴姿に対して、八千代は藍染の空手道着。手刀を翳して、半身に構えながら千代の出方をうかがう。アタシは息も切れて汗が床を濡らしているってのに、お姉ちゃんは涼しげな顔でまだまだ余裕があるようだ。今、千代の足の指が動いた。これは先手必勝。
「やっ!」
八千代が力強く床を蹴り、一気に間合いを詰めて、迷うことなく拳を突き出した。それは鋭く直線を描いて風を鳴らし、姉の顔面ド真ん中を狙う。遠慮など要るものか。たとえ、鼻を折ったって謝らないからね。といった展開を読んでいた八千代の視界には、姉が繰り出してきた掌が。
「わぷっ」
妹の突き出した渾身の一撃を“わけもなく”すり抜けた千代は、そのあどけない顔を容赦なく鷲掴みすると、そのままグイと天井を仰がせた。すると、八千代の足は床を滑って浮き上がり、落下して背中を叩きつけた途端に、躰を弓なりにさせてしまうほどに稲妻を走らせて、一瞬だけ呼吸困難を起こしたのだ。妹が床で悶えて息を嗚咽している間にも、姉は地に8の字を描き移動して素早く構えをとった。激しく咳をしながら身を起こしてゆく八千代。今し方、己が受けた敗北を噛みしめつつも、その敗因を探ってゆく。そしたら、すぐに見つかって、よけいに腹を立てて歯を食いしばった。
―ちくしょーーっ。アタシが単純にお姉ちゃんの“誘い”に乗っただけじゃないの! アタシの馬鹿馬鹿馬鹿っ!!――
拳を握る力が、徐々に強まっていく。そして、今度は八千代から“誘い”を仕掛けてみた。踏み込んで、脚を鞭のごとく真横に振るう。狙いは姉の肋骨。すると、相手は予想通りに膝を上げたではないか。残念、お姉ちゃん。肋骨は嘘で、本命は頭。さらに躰を捻り、膝から先を一気に伸ばして、八千代は姉の横っ面へと足を打ちつけたのだ。が、それも不発に終わり、真っ直ぐと飛んできた拳を喰らってしまった。
「がは……っ!」
妹のフェイクの蹴りもとっくにお見通しだった千代は、腕を上げて顔を防御したのと同時に、間髪入れずにそのまま踏み込んで、八千代の胸板へと拳を当てたのだ。しかも、千代の技はここから。さらに踏み入れて、同じ箇所に肘を打ち込み、衝撃で妹の躰が床から浮き上がったところで、駄目押しの肩の当て身を喰らわせた。結果、八千代は突き飛ばされてしまったが、なんとか受け身をとってダメージを最小限に抑えた。大きく咳き込み、胸元をさすりながら身を起こして姉を睨みつける。その顔を、苦痛にしかめていた八千代。
そんな妹の姿を見ていた姉は、唐突に張り詰めていた空気を解いて、鼻で溜め息を吐き出すなりにこう呟きかけた。
「もう、今日はこのくらいにしとこうか」
「あ……えっ? ちょ、ちょっと待ってよ。アタシまだ“まいった”していない!」
その通り。
八千代は、まだ自ら負けましたとは云ってはいなかった。だが、その熱い闘志も虚しく、あちらはさっさと冷めていくなりに、壁に掛けてあるタオルを取りに行ったではないか。千代は再び妹のもとまで歩いてくると、もうひとつのタオルを手渡して話しかけてゆく。
「八千代。あんな大振りでグズグズな拳に、いつまでも私が付き合っていると思っているの? あと、無駄な動きが多すぎるから、こうして余計に疲労するんじゃない」
「う゛……っ」図星。
「いいかげん、気持ちを入れ替えなさい。厳しいこと云うようだけれど、あの時ばかりは相手が悪すぎただけよ。終わった事や、過ぎた事はしょうがないの」
「……うん」
お姉ちゃんは、いつでもこうして冷静沈着にいられるのが、アタシにとって羨ましくって。でも、あの春の終わり頃に一瞬だけ見せた、恐い顔つき。肉親のアタシも初めて見たお姉ちゃんのその表情に、反射的に躰じゅうの筋肉を硬直と萎縮をさせてしまった。
そう頭に巡らせて歩きながら首筋の汗を拭っていた妹に、出入り口で立ち止まった姉はタオルを肩に掛けると、優しくひと言。
「八千代……、零華ちゃんに勝ってみせるんでしょ。だったら、今以上にもっと強くなりなさい。あの子も私も、それを望んでいるわ」
「……お姉ちゃん」
「さ、お風呂で汗を流して、ご飯にしよ」
「うん」
姉からこう微笑みかけられたから、それに乗った八千代も満面に笑みを浮かべて返事した。