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ネリオの旅立ち

作者: べんとら

ライトな異世界転生ものです。

主人公が妖精にかどわかされます。


 朝のうちはみぞれ混じりの雨だった。昼を過ぎてから雪になり、ネリオがパソコンの電源を落として帰宅するころには、窓の外は綿を千切ったような雪片が舞っていた。

 雪が降ると東京は脆弱な街になった。軒下で傘に積もった雪を払い落としながら危うげな足取りで歩道を歩いた。車道を行き交うクルマの多くはタイヤにチェーンを巻き、じゃらじゃらと煩い音をたてながら灰色に汚れたシャーベットを撒き散らした。繁華街のビル群に架かるネオンサインが暮れた空に舞う無数の雪片を映す様子は映画のワンシーンのようであったが、ネリオは滑りやすい革靴の底に神経を集中させ、うつむき加減の姿勢で駅までの道を歩いた。

 これでは家には帰れないかもしれないぞ。

 ダイヤが大幅に乱れ、帰路の通勤客でごったがえす駅のホームに立ち、ネリオは呟いた。しかしそれはネリオにとって大した問題ではなかった。その日は週末で、翌日は出勤しなくてもよかった。

 多くの人が降りる駅でネリオも下車し、郊外へ伸びる路線に乗り換えようとしたが、改札付近は人が停滞していた。

「積雪のためただいま運転を見合わせております」

 そう告げるアナウンスを聞いたネリオは人々をかき分け、改札を抜けて駅の外にでた。雪が舞う道を滑らないように注意深く歩いて駅周りの賑やかな地域からすこし離れた場所にある行きつけのバーに向かった。このまま運転が再開されなければバーで遊んでからサウナの休憩室で夜を明かしてもよいと考えていた。


 小さなビルの地下にあるカウンター席だけの狭いバーに、客はネリオひとりだけだった。ママのアケミとネリオは黒いデコラ貼りのカウンターを挟んで九十年代の思い出について語り合っていた。アケミは九十年代が華だったと言った。ネリオはその時代には思い出したくないことが多かった。ネリオの膝のうえには旧いギターが置かれている。ネリオは時おりそれを爪弾いた。アケミは話の合間にアイスピックで氷の塊を砕いている。

 カウンターに置かれた水割りのグラスがからんと音をたてた。溶けかけた氷が崩れたのだ。するとグラスの少しうえの空間に白いもやもやした霧のようなものがたちこめた。たばこの煙よりも密度が濃いその霧が晴れると、カウンターの淵に小さな人が座っている。どれくらい小さいかというと、背丈はポケットウイスキーのボトルくらいである。

「おや、ようこそ」

 カウンターの内側で、アケミが芝居の科白のように抑揚をつけて言った。

「何なの、この人?」

 ネリオがアケミに尋ねると、小さな人はぷいと横を向きカウンターの淵から下に伸びた膝から下をぶらぶらさせている。

「妖精。でもこの人は初めてだわ」

 アケミは小さな人に向かって小首を傾け、表情をつくるともう一度「ようこそ」と言った。

「へえ、ジーンズにトレーナー姿の妖精か。羽もついてないし。こういうの、よくでるの?」

「ネリオくん、こういうの、とか、でる、とかはちょっと失礼よ」

「そうかな。なんか怒っているみたいだけど」

「デリカシーがないことを言うからよ。このあいだ、クマ郎さんのグラスが鳴ったときにも別の妖精さんが現われたけど。クマ郎さんはもっと紳士的だったわよ」

 ネリオは何かを思いだしたように呟いた。

「クマ郎さんか。あの人最近痩せたよね。きみ、どっからきたの?」

 ネリオが妖精に尋ねる。

「あなたに言っても分らないところからよ」

 妖精は素っ気無い返事を返した。

「ねえ、きみってあのティンカーベルの友達? ほらピーターパンと一緒にネバーランドに飛んでいった」

 妖精は憤然とした表情でネリオを見上げた。

「あなたって鈍いの? それとも意地悪なの?」

「へ? なんだいそりゃ? いきなり目の前に現われたからとりあえず話しかけただけさ。おれと話したくなければウンターの端にでも行ってくれよ。それともおれが席を移った方がいいかい?」

 妖精の声色が怯んだ。

「だって、いきなり超有名なティンクの名前をだされたら、つんけんしたくもなるじゃない。妖精といってもいろいろなんだから、あなただって、エリック・クラプトンと知り合い? なんて訊かれたらびっくりするでしょう?」

 ネリオは苦笑しながら爪弾いていたギターを壁に立て掛けて言った。

「そりゃそうだ。でもおれ、妖精なんてティンカーベルくらいしか知らないしさ」

「まあまあ、ネリオくんもぶっきらぼう過ぎると思うよ」

 アケミはネリオをたしなめながら、リモコンのボタンを押してCDデッキのスイッチをいれた。


「ネリオくんのグラスが鳴って現われたのだからネリオくんに用があるんだと私は思うけどな。ね、妖精さん」

 アケミが腕組みをしながら、ネリオと妖精を交互に見て言うと、妖精はしおらしい声で言った。

「突然おじゃましてごめんなさい。あたしジルっていうの。じつはまだ修行中の妖精です。ここへ来たのも修行の一貫なんです」

「あら、そうなの? ネリオくんはぶっきらぼうだけど、わるい人じゃないわよ」

 ネリオもアケミのあとを受けた。

「なるほど、修行中の妖精ね。いや、おれも無神経だったかもね。考えたら妖精と知り合えるなんて滅多にないことだもんな。おれネリオ、練馬区で育ったからネリオ。よろしくね」

 ネリオは右手の人差し指をジルにさしだした。ジルの小さな掌がネリオの指先に触れた。ネリオは針葉樹の葉に触れたような気がした。指先がちくりと疼いた。


 以来、ジルはそのバーに頻繁に現われるようにった。しかしそれはネリオのグラスの氷が崩れてからんと鳴ったときに限られていた。

 ジルは陽気な妖精だった。ネリオが弾くギターに合わせてくるくると踊り、鈴が鳴るように歌った。他の客たちは妖精に見込まれたネリオを羨んだ。ネリオも退屈な日常に彩りがついたと喜んだ。しかしママのアケミは冷めた目でそれらの光景を眺めていた。


 ジルが初めて現われてから数ヶ月経ったある夜。ネリオは椅子に足を組んで座りギターを爪弾いていた。客はネリオひとりで、アケミはお通しの材料を切らして近所のコンビニに買いだしに行っている。

「なあジル、妖精ってやっぱりみんな女なのかい?」

 ジルは植物の蔓で編みこまれたコースターを座布団代わりにカウンターに座っている。

「ネリオ、それ、よくある偏見だから。ギタリストが全員男なわけではないでしょう?」

「そりゃそうだが、かっこいい女のギター弾きは何人かいるけど、男の妖精っていうのもなあ……やっぱりジルみたく小さいのかい?」

 ネリオはアイスペールに盛られた氷をトングで挟みグラスにいれ、ウイスキーを注いだ。それをスポイトで吸い上げ、ジルがグラスの代りにしている小さな貝殻に満たした。

「ネリオ、あなたは河童や天狗が小さいって言うの?」

 ジルはそう言ってから貝殻の杯を飲み干した。

「へえ、ああいうのも妖精なのかい? いや、おれ妖精って、ジルみたいに小さくて、スコットランドやアイルランドの森の奥に棲んでいるのかと思っていたから。ほら、水玉模様のキノコを棲みかにしていたりする」

 ジルの目は据わっている。

「ネリオ、私たちは人間の世界に棲んでいるわけじゃないのよ。こっちには訪れるだけ。私たちと交流を持った人たちがその経験を本にしたり映画にしたりするだけなの」

「そういうものか。しかし河童がジルの仲間とはね。もしかすると鬼太郎とか目玉親父とかもそうなのかい?」

「そう考えていいわね。この世の者でない者。異形の者はすべて妖精」

 すべて妖精、とジルは歌うように呟いた。

「おれ、ジルはケルトの森からやって来るのかとばっかり思っていたよ。ジルに聴いてほしくてアイルランド民謡を何曲か練習しているんだぜ」

 ネリオはケルト起源の軽快なダンスチューンを弾いてみせた。ジルはそれを上手だと言って褒めた。しかしその表情はどこか戸惑っているようでもあった。

 

 ネリオは人当たりこそ良かったが、屈託することを人生の前提にしているようなところがあった。しかしジルが現われるようになって、日常に軽快感がでてきたと感じていた。いつもすぐそばで黒々と横たわっている屈託がすこし和らいだように思えるのだった。


「ネリオくん、今夜はお湯わりにしたらどう?」

 ある晩アケミが言った。ネリオはアケミの提案を受け入れた。そろそろアケミがそんな提案をするような気がしていた。

「ねえ、まえにクマ郎さんの話をしたのを憶えている?」

「ああ。クマ郎さん、最近会わないね。おれとは行き違いばっかりだな」

「クマ郎さんは半年以上ここへは来ていないの。他のお客さんからも、どうしたの? ってよく訊かれるんだけど、行方知らずなの」

「へえ、そうなんだ」

「それでね、ジルがいるときには言い辛いことなんだけど……」

「クマ郎さんにも妖精が憑いているってことだろ?」

「そうよ。ネリオくん、最近痩せたって言われない?」

「言われるよ。身体が軽くてなんだか調子が良いんだ」

「そうなの? 顔色が悪いように見えるけど」

「アケミちゃん、言いたいことはよく分る。忠告としてありがたく聴いておくよ」

「ネリオくんが心配だから言っているんだからね。私が言いたいことはそれだけ。氷いれた方に替える?」

「いや、今夜はお湯わりでいいや」


 しかしあるときからネリオのグラスが鳴ってもジルは姿を現さなくなった。それでもネリオはアケミのバーに通った。ネリオは氷が崩れて小さな音をたてるまでじっとカウンターのうえのグラスを見つめていた。しかしジルは現われない。グラスを飲み干し、アケミに代わりをつくってもらい、カウンターに置き耳を澄ます。常連客たちはそんなネリオを口々に慰めた。

「なあネリオ、もう忘れたらどうだい? あんた、あの妖精が来ているときは楽しそうだったけれど、日に日に痩せていってちょっと心配だったよ」

「そうそう、それにクマ郎のこと聞いているだろ? あいつ、行方不明なんだってさ。妖精に拐されたってもっぱらの噂だぜ」

「うちの婆さんが言ってたけど、妖精って狸か狐が化けてるんだってさ。あのジルっていうのも丹沢あたりの雌狐なんじゃないの?」

 どの言葉もネリオには響かなかった。しかしこんなことを言った者があった。

「おれ、このあいだ別のバーであの妖精を見たよ」

 ネリオはその男からそのときの様子を詳しく聞きだした。


 その店はネリオがあまり馴染まない繁華街にあった。

「いらっしゃいませ」

 糊のきいた白いワイシャツに黒い蝶ネクタイを着けた中年の男が、カウンターの内側からよく通る声で言った。白いものが混じった髪をきちっとなでつけ、鼻の下に髭を生やしている。カウンターには若い女の二人ずれと仕立ての良いスーツを着けた壮年の男が座っている。ネリオはカウンターの端の椅子に座わり、ドライマティー二を注文した。

 女性ボーカルのジャズスタンダードが流れている。壁には小劇団の公演を告げるポスターが貼られている。ネリオはそのポスターに記されている日程や役者の名前を意味もなく目で追った。

 三杯目のマティーニを注文するときに、ネリオは思いきってバーテンダーに訊いてみた。

「あの、ここに妖精が現われると聴いて来てみたのですが……」

「ああ、グラスの氷が鳴ると現われる妖精のことですね?」

「そう、ジルのことです。マティーニはやめにして、スコッチをロックでもらえますか?」

 バーテンダーがスコッチを注いだグラスをカウンターに置いた。ネリオはそれをじっと見つめた。氷はアケミの店のものと違い市販の角ばったものだった。ネリオは氷の角に丸みがついてゆく様を観察するかのように見つめた。スコッチと少しづつ溶ける氷が混じりあう。見つめていると、それは粘度を帯びてくるようだった。

 しかしジルは現われなかった。以来数ヶ月、ネリオはその店に通ったが、ジルがネリオのまえに姿を現すことはなかった。


 ネリオはアケミのバーにも姿を見せなくなった。常連客たちは暫らくの間ネリオとジルの噂話をしたが、数ヶ月すると誰も二人を話題にしなくなった。半年も立つと、妖精はおろか、ネリオの存在そのものが人々の記憶から消えてしまったかのようであった。


 翌年、ある冬の夕方に店を開けようとしたアケミが扉と枠の隙間に挟まった夕刊を引き抜くと、淡いグリーンの封書がひらひらと床に落ちた。封書には切手が貼られておらず、宛名もなかった。

 暖房のスイッチを入れ、酒店に注文の電話をかけてから、アケミはその封書を開いた。封筒と同じ色の便箋には紺のインクでこんなことが記されていた。


 前略。

 アケミちゃん。

ネリオです。もしかするとアケミちゃんはぼくのことを覚えていないかもしれません。そうであるならばこの手紙は意味をなしませんが、アケミちゃんがぼくを記憶していると仮定してつづけてみます。

 ジルとは案外簡単に再会できました。ある夜、自室のパソコンでネットに繋げているときにジルは現われました。ぼくは思い屈していて、酒の力を借りずにはいられない夜でした。ネットオークションで中古ギターの値段を調べていときに、モニターの横に置いたグラスの氷が崩れ、ジルは現われました。

 なぜ現われなくなったのか、と問いつめるぼくにジルは応えました。向こうの世界に人を連れて帰るのが修行の目的であったと。ぼくに目を付けたのは、ぼくがあまり楽しく人生を渡っていないように見えたからだそうです。それはジルの見立てた通りでした。ぼくはいつでも人はこの世界に長く留まり過ぎると考えていました。

 ところがぼくはあまりに早く彼女に懐いてしまった。彼女はそれに戸惑いを覚えたようです。何故なら一度異界へ旅立ったものは二度と同じ姿では戻って来ることが出来ないからです。そうしてあの夜、改めて旅立つ気があるかと尋ねられたとき、ぼくは気づいたのです。ジルに固執していたのは、ぼくの異界への憧れのせいだったと。ぼく自身の人生へ向かう姿勢こそが異界からジルを呼んだのだと。

 最近、ようやくそちらとこちらとの境目にいた時期を整理して考えられるようになりました。心配してくれていたアケミちゃんを懐かしく思うようになり、元気でいることを知らせたくこの手紙をしたためました。

 ではお元気で。

 ご自愛ください。

 

                         ネリオ  


 アケミはその手紙を読み終わると、封筒に戻してカウンターの上に置いた。

 リモコンでCDデッキのスイッチをいれるとシンディ・ローパーが歌う「タイム・アフター・タイム」が流れた。

 アイスピックで氷塊を砕くまえに、アケミは少し泣いた。


                         〈了〉


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