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触れる、僕の知らない君 2nd Contact ~邂逅のほくろと、届かない熱~

作者: Tom Eny

触れる、僕の知らない君 2nd Contact ~邂逅のほくろと、届かない熱~


仕事帰りの夕暮れ時、健太は駅前の商店街を歩いていた。疲れた足取りで、明日の仕事のことを考えながら、ふと見上げたショーウィンドウには、最新の「スターライト・ドリームズ」のポスターが飾られている。健太は足を止め、そこに写る眩しい笑顔の星野奏に見入った。「ああ、やっぱり今日も可愛いな…」ため息混じりの呟きが漏れる。


その時、健太のすぐ横を、深めの帽子に大きなサングラス、そして顔を覆うようにマフラーを巻いた女性が通り過ぎた。一瞬、強い視線を感じたような気がしたが、健太は特に気に留めることなく、再びポスターへと目を戻した。


通り過ぎた女性──星野奏(田中さん)は、心臓が凍り付くような感覚を覚えていた。まさかこんな場所で、しかもこんな姿で健太と遭遇するなんて。彼女は、すぐに彼だと気づいた。少し疲れた横顔、そして何よりも、いつも自分のポスターに見入っている時の、あの熱い眼差し。


奏は、健太に気づかれたのではないかと一瞬身構えたが、彼は全くこちらに気づく様子もなく、ポスターに釘付けになっている。安堵と、そしてほんの少しの寂しさが胸に押し寄せた。こんなにも近くにいるのに、自分の「素顔」には全く気づかない。田中さんとしてなら、あんなに親しく話しているのに……。


奏は、健太に悟られないよう、足早にその場を離れた。背中には、まだポスターを見つめているであろう健太の気配が残っている。彼女は心の中でそっと呟いた。「本当に、あなたは私の知らない君ね……」


その日の夜、いつものように健太は出張マッサージを頼んだ。指名はもちろん田中さんだ。彼女のマッサージはどんな凝りも嘘のようにほぐしてくれるが、何よりも健太にとって心地よいのは、彼女が自分の推しである星野奏の話をいくらでも聞いてくれることだった。部屋の隅には、相変わらず握手券のために買い込んだ、何十枚もの「スターライト・ドリームズ」のCDが積み上がっている。田中さんはそれを一瞥すると、マスクの下で複雑な表情を浮かべた。商店街での一瞬の遭遇が、まだ彼女の心に残っている。まさか、あんなに近い距離で会っていたなんて。そして、彼は何も知らずに、今、私のマッサージを受けている。その事実に、改めて奇妙な運命を感じずにはいられなかった。奏は、密かに「ごめんなさい」と心の中で呟いた。


健太はうつ伏せになり、田中さんの柔らかい手が肩を揉みほぐし始める。その手は、健太が知るプロのマッサージ師とは一線を画す、繊細で吸い付くような指の動きだった。全身の疲れがとろけるように消えていくのを感じながら、健太は内心で「やっぱりプロは違うな!こんなに柔らかい手でマッサージしてくれるんだ!」と感心する。数秒の握手とは比べものにならないほど長く、そして深く触れる、あの憧れのアイドルの手が、今、自分の体を直接癒やしている──健太は気づかないまま、極上の贅沢に浸っていた。


ふと、健太の視界に彼女の細い手首に刻まれた、ごく薄い白い線が飛び込んできた。それは、一見すると些細な引っかき傷のようにも見えたが、よく見れば、何度か同じ場所につけられたような、古い傷跡にも思えた。健太は無意識に、その線に指が触れそうになる。健太は内心で「あれ?こんなところに傷が…?」と思ったが、すぐに意識をそらした。マッサージ師という仕事柄、どこかにぶつけたり、荒れた肌で傷がつくこともあるだろう。それに、人の体に触れるプロである田中さんの手首に、不用意に触れるべきではない。そう考えて、健太はそのままマッサージの心地よさに身を委ねた。しかし、田中さん(奏)の心臓は、一瞬跳ね上がっていた。健太の視線が自分の手首に向けられたことに気づき、マスクの下で冷や汗が流れるのを感じたのだ。その傷は、アイドルとして過酷なダンスレッスンや、ステージでのアクシデント、あるいは人知れぬプレッシャーの中で、無意識のうちにつけてしまった、過去の痕跡だった。「どうか、見ないで。気づかないで」と、奏は切に願った。彼女は平静を装い、何事もなかったかのようにマッサージを続けたが、胸の奥では、また一つ、健太に気づかれるかもしれない危うさを抱え込んだことに、言いようのない孤独と、彼に真実を伝えられないことへの深い切なさを覚えていた。


健太はうつ伏せになりながら、推しへの熱い想いを語り出す。「いや〜、この曲の奏ちゃん、本当に神がかってるんすよ!」自分の歌声が流れる中、これほど熱心に応援してくれるファンがいることに内心驚きながらも、田中さんはプロとして平静を装い、健太の言葉一つ一つに静かに耳を傾けた。健太の純粋な憧れが、奏の心を温めると同時に、彼が目の前の「田中」がその憧れの対象であることに全く気づいていないという事実が、胸の奥を締め付けた。彼の言葉を聞くたび、奏は自分が二つの世界を行き来する存在であることを痛感し、その乖離に心が軋むのを感じた。


マッサージが進むにつれて、健太は田中さんの香りに気づいた。それは、どこかで嗅いだことのある、しかし特定できない、微かで甘い香りだった。よくあるシャンプーの匂いだろうか?いや、もう少し深みがある。その香りは、健太がライブ会場で、あるいは握手会で、ふとした瞬間に感じることがあった、星野奏の匂いに酷似しているように思えた。健太は「あれ?この香り、なんか落ち着くな…」とぼんやり考えたが、疲労のせいか、それ以上深く追求することなく、ただその心地よさに身を任せていくのだった。


奇妙な偶然と、届かない真実


季節は巡り、健太と田中さんの交流は数カ月に及んだ。マッサージを頼む頻度は増え、田中さんは健太にとって、ただの癒やし手以上の存在になりつつあった。何度も健太の前に素顔に近い姿で現れても、彼が全く気づかないことで、奏の中には「この人は本当に気づかないんだな」というどこか安心に近い諦めが生まれていた。アイドルとして常に張り詰めていた心が、健太の前では少しだけ緩むのを感じていた。


ある日、健太は星野奏の全国握手会へと足を運んだ。推しレーンに並び、いよいよ自分の番が来る。ブースの向こう、眩しい笑顔を向ける奏の手を、健太は緊張しながら握った。その手は、いつも健太を癒やす田中さんの手と同じくらい柔らかく、温かかった。そして、その左手の甲には、先日田中さんの手で見たのと全く同じ位置に、同じ形のほくろがあった。 健太は一瞬、「あれ?」と思った。田中さんの手と奏の手。柔らかさも、温かさも、そしてほくろの位置まで同じだ。しかし、彼はすぐに首を横に振った。「まさかな。偶然だよな。手にほくろなんて皆さんあると思いますよって田中さんも言ってたし」そう独りごちて、健太は目の前の憧れのアイドルに「ずっと応援してます!」と精一杯の言葉を投げかけた。奏は健太の熱い視線を受け止め、ひどく熱を持った指先で、彼の掌をそっと握り返した。その指先の熱は、健太への感謝と、彼にこれほど応援させてしまっていることへの切なさ、そして、彼が目の前の自分に全く気づかないことへの、微かな寂しさのようにも感じられた。健太は気づかないまま、極上の触れ合いに浸っていた。


数週間後、テレビから衝撃的なニュースが流れた。「スターライト・ドリームズのセンター、星野奏がインフルエンザのため、今週予定されていた歌番組出演およびイベントを全て欠席します」。健太は「嘘だろ!?よりによってこの大事な時期に…!」と、心の底から落胆した。この時、健太はこれまで経験したことのない喪失感を覚えた。推しに会えないだけでなく、体調を案じるあまり、心が沈んでいくのを感じたのだ。落ち込みながら、溜まった疲れを癒やすべく、健太はいつもの出張マッサージに電話をかけた。 「田中さん、お願いできますか?」 しかし、コールセンターの女性の声は申し訳なさそうだった。「誠に申し訳ございません。田中は、現在インフルエンザのため、今週いっぱい休業させていただいております」 健太は自分の耳を疑った。「え?田中さんもインフルエンザ?奏ちゃんと全く同じタイミングじゃん!なんだこれ、まさか同じ病院に入院してたりしてな、はは」 健太は冗談めかしてそう言ったが、彼の心はアイドルを応援するファンと、マッサージ師の田中さんを頼りにする客という二つの側面に引き裂かれ、目の前のあまりにも偶然な一致に気づくことはなかった。ただ、インフルエンザで苦しむ推しと、同じく病で休んでいる田中さん、二人のことを案じ、それぞれに早期回復を願うばかりだった。しかし、田中さんがしばらく来ないという事実は、健太の日常に想像以上の穴を空けた。推しがステージにいない寂しさとはまた違う、身近な、それでいて得体の知れない喪失感だった。


そして、ようやく回復した田中さんが健太の元を訪れた日。奏は、午前中まであったアイドルの撮影現場から急いで健太の予約に向かっていたため、うっかりいつものマスクやメガネを着用するのを忘れていた。 インフルエンザで体調を崩していた間はマスクを習慣的に着用していたが、完全に治ったことで、その習慣が抜けてしまっていたのだ。


健太は、いつものようにマッサージを受けながら、ふと顔を上げた。田中さんはいつもの穏やかな笑顔でマッサージを続けている。しかし、健太の視線はある一点に留まった。


「田中さん、インフルエンザは完全に治ったんですね。だからマスクも必要なしですね!」


その一言が、奏の心臓を鷲掴みにした。


凍り付くような感覚が背筋を走り抜ける。心臓がドクン、と大きく跳ねた。バレた。ついに。頭の中が真っ白になる。どうする?なんて答える?いや、何も答えない方がいいのか?それとも、適当にごまかす?いや、もう無理だ。冷や汗が、背中をツーッと流れるのを感じた。目の前で、いつもと変わらない健太の顔がある。しかし、その目には、いつもの無邪気さだけではない、どこか探るような光が宿っているように見えた。


「あ、はい……ええと、今日は、もう大丈夫なので。それと、ちょっと急いでたもので、つい……」


奏は、絞り出すような声でそう答えるのが精一杯だった。その声は、自分でもわかるほどに震えていた。健太は、そんな奏の動揺には全く気づかず、「あ〜、なるほど!完全に治ってよかったですね!田中さん、いつもマスクしてるイメージありますもんね!風邪とか気にしてるのかなーって思ってました!」と、あっけらかんと笑った。


奏の緊張の糸は、プツンと音を立てて切れた。気づいていない。この人は、本当に何も気づいていない。安堵と、そしてまたしても深まる孤独感。目の前には、何も知らないファンが、無邪気に笑っている。


その健太の無邪気な笑顔を見つめながら、奏の胸には、この秘密を抱え続けることの孤独と、それでも彼に癒やしを与えられることへの静かな喜びが、波のように押し寄せた。彼は知らない。自分をこんなにも熱心に応援するファンが、すぐ隣にいるという奇跡を。そして、奏もまた、彼が真実を知らないからこそ、この密やかな時間こそが、自分にとっての唯一の安らぎなのだと、改めて悟るのだった。


健太の部屋には、今日も星野奏の歌声が流れる。そして、その歌声をBGMに、田中さんの手は健太の体を癒やし続ける。彼はいつか、この奇妙な縁の真実に辿り着くのだろうか。それとも、永遠に「僕の知らない君」として、この切ない幸福な時間は続いていくのだろうか。


奏は、健太の鈍感さと、それでも向けられる純粋な好意に、どこか不思議な安らぎを見出していた。次回、健太の部屋を訪れる時も、彼女はもう、眼鏡もマスクも着けてこなかった。その手には、いつもと同じマッサージ道具だけ。彼の「知らない君」でいられる限り、この密やかな時間だけが、唯一、ありのままの自分でいられる場所なのだと、奏は知っていた。

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