9 お題【大型トラック】 『林檎、ふわり』
────怖い。
初めてアレの助手席に乗った僕は、そう思った。
ジェットコースターの列に並んで、途中で引き返した時の、そんな恐怖が押し寄せる。
頼めば降ろしてくれるのだろう。でも、男のくせにみっともない気がして。
汗ばんだ手を握り締めている内に、隣からぬっと太い腕が伸び、カチリとシートベルトを締められてしまった。
「危ないから絶対に外すんじゃないぞ」
その言葉に、一層恐怖が増した。
一人っ子で身体が弱かった僕を、母は大事に大事に育ててくれた。
ブランコの立ち乗りなんて以てのほか。ジャングルジムに登る時は、たったの数段でも、下で手を広げ待ち構える母の姿があった。そのせいか、僕はすっかり臆病になり、高い場所や速いものが苦手になってしまったのだ。
遊園地の乗り物はもちろん、父の運転で高速道路を走る時も。恐怖のあまり、ドクドクと心拍数が早くなった。
それなのに……
十歳のあの日、何かの用事で家へやって来た伯父に、『大型トラックに乗せてやるぞ』と誘われてしまった。
『危ないですから』と止めてくれそうな母親は不在。父親は『せっかくだから乗せてもらえ』と簡単に僕を送り出そうとする。結局大人達の勢いに押され、化け物みたいな巨体に乗る羽目になってしまったのだ。
そもそも、父の兄らしいその伯父とは、あまり親しくない。年に一~二回、法事や正月に顔を合わせる程度で、特に会話らしい会話もしたことがなかった。
顔も体格も父とは全く似ていないし、自分と血が繋がっているかも怪しい。そんな大人と密室で二人きりになるなど、憂鬱でしかなかった。
バルルルとエンジンがかかり、本当にもう逃げられないのだと悟る。僕は諦めて、ギュッと目を瞑った。
ふわり
不思議な浮遊感が身体を包む。
ふわっ、ふわふわ……すいーっ。
何とも言えない感覚に、思わず目を開けてしまう。
フロントガラスに広がるのは一面の青空。道路よりも数段高い位置に、自分が浮いているのだと分かった。
本当に飛んでいる訳じゃないのに。不思議だなあ。
次第に恐怖心よりも好奇心が勝る。もっとよく見たくて、身体を前へと乗り出したが、「こら! 大人しく座ってろ!」と叱られてしまう。
父からもそんな風に怒鳴られたことはないのに、何故か怖くはなかった。やっぱり本当の伯父なのかもしれないと、その時初めて思う。
ふわり、すいーっ。
心地好い浮遊感の中、いつもよりずっと近い信号や電線や木にわくわくする。飽きることなく見つめていると、空の端に何かの建物が映った。
くるり、すいーっ。
簡単にバックしどこかへ停まると、伯父は「ちょっと待ってろ」と建物へ入っていった。
少し開いた窓から風が滑り込み、暑くも寒くもない車内を、かき混ぜていく。家とは違う埃っぽい空気に、僕はクシュッとくしゃみをした。
まだかな。早く走ってくれないかな。
コレを動かせる唯一の存在を求め、ミラー越しの建物を、ひたすら見つめる。
しばらくすると、伯父はビニール袋を手に戻って来た。僕のシートベルトをカチリと外し、それをガサガサと漁る。
「ほら、どれでも好きなの食え」
押し付けるように渡されたのは、ジュースとかパンとか、そんなものだったと思うけど。その後に飛び出した強烈なもののせいで、他は全部忘れてしまった。
────丸くて大きくて真っ赤な林檎。
じいっと見つめていると、伯父はあまり綺麗じゃなさそうな作業着の袖で、ゴシゴシとそれを拭く。
やがて僕の掌にズシリと置き、「うまそうだろ? 全部食え」と笑った。
「……どうやって食べるの?」
素朴な疑問に、伯父は缶コーヒーのプルタブを起こしながらさらりと答える。
「噛れ」
「……切らないの?」
「んな面倒なことする訳ないだろ。そのままガブッと噛れ」
僕は林檎に視線を落とす。
アニメで林檎を丸ごと噛るシーンは見たことがあるけれど、確かあれはもっと小さい、大きめの蜜柑くらいのサイズだった。丸ごとどころか、皮付きのものだって、幼稚園のお弁当のうさぎ以来だし。
躊躇う僕を、うまいぞと促す伯父。僕は勇気を出して、ピンと張った赤い皮に歯を立てた。
ガシュッ
粗野な刺激が口内で暴れる。細く切って皮が剥かれたものとは、全く別の果物みたいだ。
もう一口、皮のない白い部分も噛ってみるが、正直美味しくはなかった。林檎の問題ではなく、口当たりのせいかもしれない。
それでも僕は興奮していた。どこまで噛んだら芯に辿り着くのか。アニメや漫画で見たような、あの形になるのか。
ガシュガシュと噛み続け、やっと芯が見えてきたものの、途中でお腹が一杯になってしまう。げふっと息を吐き、先の長い林檎を睨んでいると、「いらないならもらうぞ」と取り上げられた。
ガシュガシュと噛み砕き、ほんの数口であの形にしてしまう伯父。その強靭な歯と顎に、大人ってすごいんだなと感心した。
それからまた、どこかをふわふわすいっと走り、家まで戻って来た。
多分ほんの数時間のことだったと思うけど。世界中の空を一周したような満足感だった。
「今度は高速に乗せてやるからな。鳥になれるぞ」
大きな手で僕の頭をぐりっと撫でると、伯父は颯爽とトラックに乗り、どこかへ飛んで行った。
一年後、病死した伯父の通夜に参列した。
すすり泣き、思い出話をする大人達を余所に、僕は従兄弟達と夢中で寿司を頬張る。
膨れた腹を擦っていた時、ふと目に入ったのは、カットフルーツが盛られた皿。メロンや葡萄、パイナップルなんかの中心には、綺麗にカットされた皮付きの林檎がある。うさぎでも丸ごとでもない、鳥の羽みたいな形だ。
ああ、もう、空は飛べないのか。
不意にそんなことを思う。
悲しくもなんともないけれど、ただ残念で。その林檎はどうしても食べられなかった。
あれから少しずつ、ジェットコースターや観覧車を楽しめるようになって、大人になった今では、新幹線や飛行機にだって乗れる。
だけど、どれに乗っても、あの日以上の浮遊感と興奮は味わえなかった。
あの日の伯父と同じ歳になって、もう一度林檎の丸かじりに挑戦したけれど。三分の一ほど食べたところで、もう顎が疲れてきてしまった。
やっぱり伯父さんは凄かったんだなあ。
残った林檎をふわりと回し、青い窓を見上げた。