6 お題【コンパス】 『凸凹のコンパス』
「待って!」
とは言えない。
一緒に歩いている訳じゃないから。
私が勝手に彼を見つけて、隣に並んだだけ。
隣は斜め後ろへ、斜め後ろは後ろへ、後ろはもっと後ろへ。必死に歩いても、彼の背中はどんどん遠くなってしまう。
身長差35センチ。コンパスの長さが全然違うんだもん。彼に追いつきたくて、牛乳を沢山飲んだりもしたけど、お腹を壊すだけで何の効果もなかった。
家が隣の幼馴染み。
小さい頃は家族ぐるみで遊んだりしたけれど、成長と共に疎遠になっていった。
彼への恋心を認識した小5の時から、猛勉強をして、何とか彼と同じ中高一貫校に合格したけど……学年トップの彼とは、クラスが分かれてしまった。
そこから高二まで、一度も彼のいる特別クラスに入ることは叶わず。こうして背中を見つけた時にしか近付けない、そんな遠い遠い関係だ。
隣に並んだからといって、特に会話らしい会話はない。「おはよー」とか「お疲れ」なんて挨拶を交わした後は、私が一方的に世間話をしているだけだ。
優秀な彼の頭に引っ掛かるものなんて何もないのだろう。話に乗ってもらうことも、こちらを見てもらうことも出来ないまま、いつもその背は遠ざかってしまうのだ。
いっそ彼女が出来てくれたらいいのに……
そうしたら諦められるのに……
聞こえて来るのは、何組の誰かが彼に告白して玉砕したとか、そんな噂ばかりだった。
だったらまだ私にもチャンスが……なんて、ズルズルと恋心を捨てられずにいる。
そんな私に、今日、思いがけないことが起きた。
一つ上の先輩に、「好きだ。まずは友達からでいいから付き合って欲しい」と告白されたのだ。
文化祭の実行委員で一緒になったその先輩は、明るくて誰にでも気さくで優しい人。
準備で遅くなって、初めて駅まで一緒に歩いた時、私はあることにすごく驚いた。
先輩も彼と同じくらい背が高いのに、一度も背中を見ることがない……つまり、ずっと隣を歩けるのだ。
そうか、長いコンパスを私の短いコンパスに合わせてくれているんだな、と気付き嬉しくなった。
それだけじゃない。何を話そうかと頭を悩ませることもなく、自然に心地好く会話が弾む。共通の趣味の話題で盛り上がり、楽しく笑っている内に、気付けば改札に到着していた。
……きっと、先輩と付き合ったら楽しいのだろう。
そして楽なのだろう。
彼を追いかけている時みたいな、どうしようもない苦しさはないはずだ。
「じゃあね」
にこにこと手を振る先輩と別れ、乗り込んだ電車。
大きな揺れに心を重ね、深い波間を覗いては、保留にしてもらった答えを出そうとしていた。
最寄り駅の改札を出ると、夕陽の中に見慣れた後ろ姿があった。
あれ、いつもはもっと早いのに。
委員活動で遅くなった自分と、帰宅組の彼が同じ電車だったことに首を傾げる。
長年の習慣からか、足が勝手に動いて、遠ざかる背を追ってしまう。
もうこれが最後になるんじゃないか。そんな切なさから、今までで一番必死に追ってしまう。
あと少しというところで、信号の点滅に阻まれる。
ここで止まったら、もう二度と届かない。
そんな焦りからか、赤い横断歩道を駆け抜けようと、短いコンパスを限界まで繰り出す。
「……待って!!」
そう叫んだ瞬間、ブレーキ音が耳をつんざく。
視界が暴れ、身体に鈍い衝撃が走った。
「大丈夫!?」
アスファルトに倒れる自分の、ほんの数十センチ手前に停まった車から、女性が慌てて降りて来る。
「ぶつからなかったとは思うけど……怪我は? 痛くない?」
おろおろしながらも、私の状態を確認してくれている。
「恋!」
聞き覚えのある……でも聞いたことのない声が、私の名を叫ぶ。
見上げれば、彼が息を切らしながら、真っ青な顔で立っていた。
「ぶつかったのか!? 怪我は!?」
長いコンパスを折り、私を覗き込んでくれる。
目が合ったの……いつぶりだろう。
血の滲んだ膝以外は何も痛みがないことを確認すると、信号無視したことを女性に謝罪する。
どこかぼんやりする私の代わりに、彼が女性の連絡先を受け取ったり、仕事中の母に連絡したりと、色々対応してくれた。
女性から家まで送ると言われるが、保育園のお迎え途中であったことを知り、歩けるからと丁重に断る。
女性が去った後、彼はリュックを前に抱えると、しゃがんで広い背中を私に差し出した。
「乗って」
「……えっ」
「背負ってくから。乗って」
せお……おんぶってことだよね?
私はブンブン首を振り、歩けるから、擦り傷だけだから、痛くないからと断る。
だけど、「病院でレントゲン撮るまでは歩くな」と怖い顔で叱られてしまい……ほぼ強制的におんぶされる形になった。
いつもよりずっと高い視界。
うっすらと浮かび始めた月にも、手が届きそうだ。
重いはずなのに、さくさくと開く長いコンパス。
ずっと追いかけていた背に、簡単に届いたどころか重なってしまうなんて……
もしかしたら本当は車にぶつかっていて、天国に来てしまったのかもしれない。もし天国なら、この道が永遠に続いて欲しい……なんて考えていた時、背中越しに彼の低い声が響いた。
「付き合ってるの? 先輩と」
「え……」
「最近、いつも一緒に帰ってるし」
何で知ってるの?
彼にとっては、何よりも興味がなさそうなことなのに。
戸惑いながらも、私は正直に答える。
「まだ付き合ってないよ。でも、今日告白されたんだ」
「……何て答えたの?」
「少し待って欲しいって言った。……小さい頃から、ずっと好きだった幼馴染みがいるからって」
回した腕にキュッと力を込めれば、気のせいか、彼の背中が熱くなる。
沈黙が続く中、家まであと少しの所で、彼はピタリとコンパスを止めた。
燃えるような背の向こうから、泣きそうな声が響く。
「いつも……上手く話せなくて。いつも退屈させてごめん」
思わぬ謝罪に一瞬言葉を失うも、私は必死に否定する。
「ううん……ううん! 私こそ、りっ君に釣り合うような話が出来なくて」
「そんなことないよ。恋が楽しそうに話しかけてくれるのが嬉しかった。でも、いつも離れてくから……きっと俺じゃ退屈なんだろうなって」
────え?
「……違う。違うよ、りっ君。それはね……」
次の日から、私達の凸凹のコンパスは、並んで歩けるようになった。
不器用な手をしっかりと繋ぎながら。