#001 43年後の目覚め
『ねえお兄ちゃん。空って、どのくらい高いの?』
——誰の声だったか。耳の奥に残るその声は、ひどく遠く、温かかった気がする。
視界を覆う闇の中心に、ぽつりと滲んだ朱がじわじわと明度を上げながら、ノイズ混じりに広がっていく。 泥のように重い瞼を引き剥がすと、どこまでも無機質な白い天井がぼんやりと目に映った。
「……ゲホッ」
静かに吸い込んだはずの酸素は、まるで久方振りに呼吸を許されたかのような違和感で、乾いた喉を裂く。
肺に満ちた冷たい空気に、思わず咽せ込んだ。
ぐるりと回る天井を見上げながら、朦朧とした意識を必死に手繰り寄せる。
不意に、誰かの影が視界に差し込んだ。
「やあ、おはよう。自分の名前を言えるかな?」
力なく瞼を持ち上げると、隣に立つ男の影が視界に入った。
後ろで纏めた白髪に灰色の瞳。冷たさを湛えた美しい彫刻のような骨格に白衣を纏った男が、穏やかな——しかし、感情の気配を一切感じさせない——笑みを唇に浮かべて、スクエア型の眼鏡の硝子越しにこちらを見下ろしていた。
遠くで聞こえる電子音がピッ、ピッ、と不規則に鼓膜を打つ。
「……しののめ、れい」
喉から搾り出した声は、酷く掠れていた。眉をしかめた己とは対照的に、男の目がにぃと細まる。
「素晴らしい、記憶も正常だ。東雲零、年齢は二十三。肉親は妹が一人——君がなぜここにいるのか、覚えているかい?」
(そうだ、俺は東雲 零、二十三歳。妹と二人、物心ついた時には親の顔を知らない孤児だった。一緒に教会で育った、歳が十は離れた妹が……?)
妹の名は、何だったか。どうしても思い出せない——名も、顔も、声すらも。思い出そうとすればハンマーで鈍く叩かれたように、ずきりと頭が痛んだ。 そもそもの話、何故ここにいるのか。ここは何処だ、病院?
ぐるぐると忙しなく巡る思考を読んだか、男はこの場には不似合いの穏やかな口調で言葉を続けた。
「君は死んでいたんだよ、そして43年ぶりに生き返った。“ANKHER”、生存確率0.02%の適合者としてね」
「……は?」
呆けたような声が、自分の喉から出たことにさえ気づくのが遅れる。いまいち咀嚼の難しい言葉の羅列に、驚愕より先に頭が追いつかず見開いた目をぱちりと瞬く。
無意識に強張って握り込んだ右手は、掌に食い込む指にあたたかい体温を伝えた。確かに生きている人間のそれだった。
(死んだ? 俺が? つーか、アンカー? 適合者?)
何を言っているのか本気でよく分からない。一度死んで生き返ったとか、適合者とか、言っていることは現実離れしていて、まるで冗談みたいに聞こえる。
それでも、“アンカー”という響きだけは、どこかで耳にした覚えがあった。しかし、思い出そうとすればするほど記憶の輪郭はぼやけて、まるで煙のように指の隙間からすり抜けていく。
男はしばし観察するように黙ってこちらを見ていたが、記憶のはっきりしない気持ち悪さにただ眉根を顰める零の姿に、やがて小さく息をついた。
「……記憶をいじり過ぎたかな。まあ、無理もないか……記憶の回復には時間がかかることもある。じきに思い出すはずだよ、この世界……エデンのことをね」
こちらへの興味を一切失ったように背を向けた男は、ポケットから小さな機械を取り出し、耳元へ当てて呟いた。
「アッシュ。00のお目覚めだ、施設内の案内を頼みたい」
手短に通話を終えて、白衣の男がベッドの脇にある端末の操作を始めると、音もなくスライドした壁の一部に新たな通路が開かれる。
それを横目に、零は軋む診察台のベッドに肘を立てて上体を起こした。使い古された診察台のギシリという悲鳴に等しく、動くたびに全身がまるで筋肉痛のように痛む。何十年も眠っていたのはあながち本当の事かもしれないと思えるほどの身体の重さだった。
右手の五指を目の高さに掲げ、握り開きしてみたところで自分の甲に数字が刻まれているのが視界に入った。“00-3”と刻印されている。男が電話口で言った数字を思い出して、零が顔を上げた時、軽やかな足音を連れて誰かが入ってきた。
「はいはーい、失礼しますよっと。あ、君が新顔くん?」
歳は二十代前半ほどだろうか、目に掛かる程の長さの銀灰色の髪は強めのスパイラルパーマで毛先を遊ばせ、サイドを刈り上げた清潔感のあるツーブロック。耳にはいくつかピアスが空いていて、若干チャラ男くさい。端正な顔立ちに反して、どこか気の抜けた空気を纏う男だった。透き通って異彩を放つ水色と琥珀色の印象的なオッドアイが、興味深く零を覗き込む。
「俺はアッシュ・クロフォード、アンカーでの立ち位置は情報屋みたいなもんだよ。今日は君のベビーシッターだってさ。クラウス先生のありがた〜い命令でね」
ふざけたような軽い口調で人懐こく笑うが、その目の奥に宿る観察者の色が、まるで新参者を品定めするように探る。零の動きや体温、微細な表情の変化ですら目で測っているような、妙な鋭さがあった。
「じゃ、行こうか。ほら、立てる?」
当然のように差し出された手を取ることを躊躇してしばし眺めた後── 思考はいまだ目の前の現実に追いつかないまま、身体は起き上がろうとしていた。
誰の手も借りたくなかった。それが東雲零という人間の負けず嫌いな性分なのか、この孤島の崖に一人で立たされているような心地から目を逸らすためか、自分でもよく分からない。
零はぎこちなく足をベッドから下ろし、ひやりとした床に素足を着けた。立ち上がると久し振りの自重にぎしりと骨が軋む気がする。
顰めた眉を戻して平然を装いながら、アッシュに向き直ってどうだとばかり強気に顎を持ち上げてみせる。
「立った。……東雲零だ、よろしく」
ひゅう、と口笛を吹いて、唇の片端を持ち上げたアッシュが踵を返し歩き出す。言わずもがな、ついてこいと語る背中に押されて、ベッド脇に揃えて置かれていたスリッパに素足を通す。
ふと、アッシュの後を追い掛けるべく足を踏み出した零の背後から、思い出したように『ああ』と声が掛かった。
振り返ると、重厚な革張りの椅子に190cmはありそうな大きな体を沈ませていた白髪の男が、すらりと伸びた足を組んだまま、椅子ごとこちらへ滑らせるように回転させた。
人の良さそうな微笑を唇に讃え、緩やかに首を傾ける。
「私はクラウス・ハイルマン。君の所属する第六研究室の室長だ。大体ここにいるからね、何かあれば気軽に声をかけてくれて構わないよ」
感情の乗らない業務的な、しかし柔らかな声音に合わせて、眼鏡の奥の鋭い眼光が柔らかく弧を描く。底の読めないクラウスの顔を横目に一瞥したあと、零は今度こそ部屋を後にしたのだった。
「適合おめでとう——ようこそ、エデンへ」
音をよく反響する無機質な治療室、独り言めいてクラウスが最後に落とした言葉が、零の鼓膜にいやに残っていた。