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訊きたいことがあったのに、訊ねることができなかった。積年、胸に抱いてきた疑問を打ち明けることができなかった。唯、呆然と立ち尽くすことしかできず、沼の縁で馬鹿みたいに佇んでいた。
眠り姫に心酔するイオリと云う名の男を、怖いと思った。熱病に冒された人を見たことはない。ないけれど、彼の行動は高熱に苛まれ、自我を失した人間の行動にしか思えなかった。愚かしいと同時に、彼の挙動は狂気じみていた。ブレインウォッシュされてしまったような、ロボトミーで大脳に傷がついたみたいな、脳幹が焼ききれた人のような――何と表現したらしっくりくるのか。自らが覚えた感情の因子を上手く説明する言葉がない。
だけれど、カナタは確かに聞いた。調律されていないピアノが奏でるような不穏のメロディを、拡大された聴覚で聞いた。音楽理論や平均律の規則から外れた不協和音ではなく、不愉快ではないし、不快でもないのだが、唯々不穏当な音色だった。この音こそが、椅子に座ってたとき耳に届いた妙な音の正体だと、一発で解った。不穏当過ぎて、鳥肌すら立たなかった。危うさで満ち溢れていたのは確かではある。
危惧を覚えてすぐ、「行かない方がいい」と言い、強引にでも腕を取り、沼地へ挑む彼の思惟に抗えればよかったのだろう。けれども、狂信者に差し伸べる手をカナタは持っていなかった。彼が完璧に狂気の深淵に堕ちてしまう前に、拾った石ころを音の聞こえた地点へと投げることだけが、唯一できたことだった。
音の聞こえたその場所に、眠り姫はいたのだろうか? 解らない。たった一言、奇妙な言葉を外部アドオンが捉えただけだ。その言葉は、不穏の音色の中で異彩を放ち、カナタの耳へ届いた。言葉が終わった後も、不穏の音色はやまなかった。暫く、続いた。
シニフィエとシニフィアンの結びつきのない言葉は記号ですらない。それを言葉だと識る手段などないはずだった。にも関わらず、意味論の外で、語用論の外で、二十七年間の言語的経験の外で、奇妙なメロディの中に混じる、これまた奇妙な音を言葉だ、と判断できた理由は定かではない。直感だとか、閃きだとか、シックスセンスだとか、曖昧模糊としたものでしか言い現せられない。
現行の人工知性は《感情記号》で、その精度及び完成度を測られる。《感情記号》に正しく反応した人工知性は、人間と同一の存在と認定される。ユカタは人類が最初に生み出した人工知性だ。だったら、人間的な何かを感じてもいいはずだ。なのに、何も感じることができなかった。なら、何が、沼の中心にいたのだろう。いや――あったのだろう。
長年追い求めてきた眠り姫は、おかしなノイズの集合体のことだったのか。最初から眠り姫なんか何処にもいなかったんじゃないか。火星人たちは夢を見ていただけかもしれない。大きな『火星物語』と云うストーリーの夢の渚を、皆で、たゆたっていたのかもしれず、だったら、如何して自分はその夢に加わることができないのだろう?
火星人(ネイティヴ=マーシャンズ)の存在を識る為には、眠り姫の思念に会う以外に方法がなかったと云うのに、望みは裁断されてしまった。思い返すと、思念などと云うものが存在しえると考えていた自分のアイデアが馬鹿馬鹿しくなる。幽霊などいない。幽霊は、外にいるんじゃない。人の脳味噌の中にある。故に、幽霊の正体見たり枯れ尾花、と云うのだ。
『眠り姫神話』は誰かの――願望の表出だったのに。
カナタはサングラスの縁を指でなぞった。フレームはぞっとするほど、ひんやりしていた。
戻ろう、と思った。もう、やめにしよう。今まで追い続けていたのは蜃気楼だったのだ。――違う。蜃気楼なら、本体が何処かにある。蜃気楼は実体のない幻だが、本体は存在する。なら――逃げ水だ。追い縋っても追い縋っても、決して追いつくことの適わない存在だったのだ。
逃げ水を好き好んで追うような人間など、幼稚だ。幼弱で未熟な、度し難い馬鹿ヤローだ。サンタクロースがいないと知らされて、それでもいるかもしれないと言い張るのは、物分りに乏しいだけだ。
踵を返して、キャタピラ重機の作った轍の道へと向かう。木々が枝葉を風にぐわんぐわんと靡かせながら、ざわめき立てている。阿呆な考えに凝り固まって、十七番区画くんだりまでやって来た自分を嘲笑っているような気さえして、無闇な早足で踏み固められた泥を蹴った。何度も転びそうになる。転んだら、もっともっと嘲笑の的になりそうで、気が気ではなかった。聴覚が拡大されていることがここまで苦痛に思えたのは、初めての体験だった。
タクシーは翌朝まで来れない、と受付センターのやたらめったら声が高いコールガールが言った。カナタは嘆息した。通信デバイスを畳んで、シャツのポケットに突っ込む。田舎町なのでサービスの不備は致し方ないと思いながら、昼間から陣取っていた場所に戻った。折り畳み椅子に座って、ぼうっとしていると、馴れ馴れしく肩を叩かれた。
「おいおい。如何したのさ。先に帰って」
イオリの声だった。生まれて初めての家族旅行に行った少年みたいに彼の声は弾んでいた。彼は眠り姫を見たのだろうから、さもありなんだった。彼の念願が叶ったわけだ。喜びを発露しない方がおかしい。
カナタは応えなかった。拒否するわけでもなかったが、首を左右に軽く振った。傍らで、泥水を蹴り上げる音がして、折り畳み椅子を立て直す音が続いた。
「ありゃぁ……。濡れちまったなぁ、やっぱり」
「これ、使います?」自分の背を預ける椅子の背凭れをカナタは叩いた。
「いや、いいよ。それよりも――きみは、如何して先に戻ったんだい?」
布同士が擦れる音。泥だらけになってしまった座面を拭っているのだろう。
「何か――あの場所に、いましたか?」
「え?」素っ頓狂な声をあげるイオリ。「何を言ってるんだい? 眠り姫が――ユカタがいたじゃないか? きみは何を見ていたんだ?」
「あそこには――何も、いませんでした」
「そんな馬鹿な! ぼくは彼女の声を聞いた」
イオリの声量は大きく、その調子は憤慨に近い色があった。自分の体験を否定されたのだ。怒るのも無理からぬ話だった。カナタ自身は否定したつもりはない。自分の体験を素直に述べたまでだ。
イオリが何と言うともカナタの体験では、沼地には何も居はしなかった。あったのは気色の悪い、それでいて、拒めない圧力を秘めたノイズだけだ。しかし、声のようなものを聞いたのはカナタも同じだった。そこは否めない。理解不能な言葉を、耳にした。外部アドオンは捉えていた。
「声かは解りません。でも――、言葉じみたものなら、私も聞きました」
「言葉じみたもの?」
「何語なのでしょう……。聞いたためしのない言葉でした。唯、一言だけ」
「一言だけ? そんなはずない。ぼくは彼女に色々訊ねられた」
「――何を訊かれたのです?」
カナタの声は震えている。押し殺した名伏しがたい感情があることをイオリは暗に感じた。触れない方がいいだろう。
「あなたは何処へ行くのか? とか、何を望むのか? とか。きみには聞こえなかったのかい?」
「はい」
「外部アドオンがあるのに?」
「ええ――。何故でしょうね。やっぱり――何もいなかったんですよ。集音レベルは最大にしていたはずですから」
唸るような響きをあげてから、イオリが言った。絶対の自信の篭った物言いで。「ぼくは抱擁も交わした」
「おめでとうございます」
「何か、馬鹿にされている気がするんだけど?」
「そんなつもりはありませんよ。でも、私は何もいなかったと、思います。――石を投げたんです」
「石?」
自分が投擲したことにイオリは気付いていなかったようだ。怪訝な様子で問い返してきた。
「ええ。石です。エコ=ローケーションってのがあるんですが――イルカとかコウモリとかが超音波で周囲の状況を把握するようなものですね」
「それで?」
背凭れが軋る。座面を拭い終わり、座ったようだ。
「だからですね、私はイオリさん、あなたの顔の造りや背丈、そう云ったものも音だけで識ることが可能なんです。その力を使っても、あの場所に何か――人間サイズの生物はいませんでした」
「あはは」
「如何して笑うのですか?」
「当たり前じゃないか。眠り姫は生物じゃない」
「しかし――人工知性は人間と同等の――」
「精神的には同一だろうけど、人間だったら死して姿を見せたりはしないだろう?」
「では――何だと言うのですか?」
「ナノマシンだよ」
「ナノマシン? ユカタの残留思念をナノマシンが媒介していると?」
「残留思念って云い方が正しいかは置いとくとして、ユカタのデータを持ったナノマシンが周辺の原子分子構造を書き換えて彼女の似姿を作っているんじゃないかな」
「しかし――」カナタは唇を噛んだ。自分の言い方が不味かった。誤解を招いた。うっかり、生物などと言うべきではなかったのだ。人工知性が人間と一緒だからと云っても、彼らは電脳の中で生まれたニューラルネットに過ぎないのだから。「私は――人間サイズの物体そのものも、感じませんでした」
「ぼくが見たのはホログラムとでも言うつもりなのか?」
「ええ」
「でも、ぼくは彼女の温もりを感じた。確かに、そこに物質はあったんだ」
「水掛け論ですね……」
「そうだな……。でも、最初にきみがぼくを連れて行ったんだぞ? そのことは感謝しているけれども」
「はい。あのときは、その――いえ。もしかするとナノマシンが彼女の似姿を精製した、と云うのも一理あるかもしれません。私が訊いたのは、余剰エネルギーが空気を燃やした音だったかもしれませんから」
「そう云えば、昼。他のやつらが光の筋を見たらしい。それもナノマシンの仕業だ、とか」
「そうですか。でも――私はこれでやめにします」
「眠り姫に会うのをかい?」
「ええ。本当は訊きたいこと、あったんですけどね」
自嘲気味にカナタは笑った。咽がひくつくようなくぐもった音が口腔から漏れた。
「何を?」
「火星人です」
「は?」
「私たち人類が、火星にくる以前に、先住民はいたのだろうか。それが私は識りたかったんです。眠り姫に訊ねたかった」
「何故、眠り姫なんだ?」
「彼女がテラフォーミング=デバイスのコマンダーだったのは識っていると思いますけど、それって、火星全体が自分の身体のようなものですよね?」
「そうなのかな……」
「だったら、まだ人類の気付かぬ先住民の痕跡を彼女は把握していたかもしれない。そんな風に思ってたんです。でも、もう諦めました。眠り姫なんかいなかったんです」
「きみは如何してそこまで、否定するんだ? また、次の機会を見つければいいじゃないか」
「だから、言ってるじゃないですか! 何もいなかったんです!」
出会ってから半日、ずっとクールだったカナタが突如として発狂したように喚いたので、イオリは面食った。
「――きみがそこまで言うのなら、証明しよう」
「如何やって?」
「彼女がホログラムではないことが解ればいいんだろう?」
「ええ、まあ……」
「なら、物理量計測機を使えばいい。今度、彼女が現れたときに試すよ。そして、きみに報告する」
「結局、ナンパですか?」
「軽口はよしてくれ。ぼくは彼女のファンだ。彼女が存在しない、と言われて黙っていられるほどタフじゃないんだよ」
「そう――ですか」
「と、云うわけで、電子アドレスを教えて貰えるかい?」
「解りました」
「そして、眠り姫に実体があったなら、訊いてみるといい」
「馬鹿な質問をする、とは言わないんですか?」
「そうだな――。この火星で火星先住民のことを訊きたい、識りたい、なんて言ってるのはきみだけだろうね。寧ろ、何でそんな疑問を抱いたのかを識りたいよ」
「何となく、ですよ。人生とは死ぬまでの暇潰し、と云うじゃないですか。いえ――単純に何時までもサンタクロースを信じる無垢な少女でいたかっただけかもしれませんね」
「てっきり、人間がイヤになったのかと思ったよ」
「はい?」
「ほら、文明の否定ってのは大抵、他の文明を引き合いにだして行うだろう? ヨーロッパ文明が優れているが、メソアメリカ文明は優れていない。その理由はネイティブ=アメリカンは生贄を捧げていたからだ、とか」
「つまり?」
「人類を否定したくて、火星人に憧れているのかな、とね」
「ははは。一理あるかもしれませんね。あながち、間違いとは言えないかもしれません。よく、そんなアイデアが出ましたね?」
「ぼくはね――。ちょっと辛い過去があってね」
「――優性論に憤った所以、ですか?」
「ああ。ぼくは生体義眼をつけている」
「怖くないですか?」
「怖い? 何が?」
「えっと――気にしないでください」
「確かに、そうだね。生体義眼は視野拡大とかの機能があるし、人によっては生体義眼で見る《感情記号》は真ではない。生体義眼ユーザーは演技しているのだ、とか言われるしね」
「もういいですよ。シリアスな話は。取りあえず――次の目撃情報があったらお願いします」
「ああ。勿論さ。ちゃんと計測するから、きみも火星人への憧れは忘れない方がいい」
「ええ。そうします。あと一回くらいは――」
朝まで雑談で暇を潰して、スクエア市まで相乗りし、二人は別れた。
リニアカーゴに乗るイオリを見送ってから、カナタは反対方向へ向かうカーゴに乗った。




