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 カナタと雑談しているうちに()が翳った。薄い青だった空の色は茜色に様変わりし、気温も大分低下している。結構気温が下がったとは云っても、暑苦しいことには変わり映えしない。湿度の高さだけは如何ともし難いところだ。

 巣に帰る途中なのだろう、何百羽もの野鳥の群が西の黄昏を背景にして、鏃型の編隊を組みながら飛んでいる。彼らは資材置き場の上を滑空するとき、整然としていた編隊を崩し、一斉に啼いた。何かを呼び出すように、全ての啼き声が寸分のズレなく唱和する。崩れた編隊は一見、意味がないように思えたが、《慕情の象徴》にとてもよく似ていた。実に不思議な光景だった。鳥が奏でるシンフォニーもミステリアスな響きを持っていた。

 イオリは鳥たちの意味深長な音色に、はたと我に返った。鳥の不可思議な仕草に感けている場合ではない。こんなものを見る為に出向いたわけではないのだ。

「あれ?」

 目の前の視界から、群集が忽然と消えている。誰一人としていなくなったわけではないものの、明らかに人数が減っている。百人近い人数が円環を形成していたはずが、今や両手の指で余るくらいしか目につかない。黒や金や青や赤などカラフルな髪が資材置き場に攪拌されており、各々の態度で眠り姫を待っている。

 皆、家路についたのだろうか。いや――そんなはずはない。火星人たるものが、ユカタを見ずして家に帰るなど及びもつかない考えだ。一晩はここで明かす覚悟で、イオリ同様彼らも出向いているはずだった。その証拠に、資材置き場からやや離れた場所にキャンピンギカーや、組み立て前のテントの骨が横たわっているのだ。テントの中から、楽しそうに酒を酌み交わしているアベックが覗いている。

「何かあったのかな?」傍らのカナタに訊ねてみた。

「いえ……解りません」

「そうか……」

「理由は解りません」

「理由?」

「さっき大挙して移動していったのは確かなんですけど」

「何だって!」イオリは目を剥いた。生体義眼の水晶体が必要以上に拡大する。視界に映ったカナタの姿が不必要に大写しになった。「如何して教えてくれなかったんだい?」

 群衆が移動した事実は、ユカタが出現の意味する。そう思うと、おじおじしてはいられない。安穏として椅子にふんぞり返っている場合ではない。すぐに向かわねば。うっかり雑談に夢中になっていた手抜かりな自分を呪った。

 イオリは立ち上がろうとした。

「大丈夫ですよ」

 剣呑な調子でイオリは言う。「何が大丈夫なんだ?」

「何処からも歓喜の声はしません。おそらく、まだ現れてはいないでしょう。眠り姫が現れたら、大騒ぎになるでしょうから」

 カナタは落ち着き払っている。口調も挙動も確信めいていた。折り畳み椅子から立ち上がる気配もないのだった。

 イオリは掌で覆いを作り、これを耳たぶに当てて、耳朶に神経を集中した。確かに人の声は何も聞こえはしない。が、それは群集が遠くに行ってしまった証とも取れる。周辺部から耳朶へとやってくる音と云えば、重機の唸りだけだった。自動運転の機械たちは二十四時間休むことなく稼動し続ける。邪魔なノイズだった。マシンの音の所為で群集の声が聞き取れない可能性だってある。

「教えてくれ。彼らは何処へ行ったんだい?」

「教えても構いません」カナタは困ったような表情をした。中空で指先を這わせる。「でも――いいんです? ここから離れてしまって。もしかすると、この場所に姿を見せる可能性だってあるんですよ?」

「それはそうだけれども……」

 カナタの発言にも一理ある。まだ、夜は到来していない。眠り姫は夜に現れる。統計上はそうだ。されど、何事にも例外はある。そんなことは百も承知だが、イオリは居ても立ってもいられない状態だった。無意識下で身体がわななき始めた。

「ぼくは行く。だから教えてくれ」

「あなた、公務員ですよね?」

「ああ」

 唐突に何を訊くのだろう。カナタの意図を()しかねた。眉を顰める。

「仮定の話をしましょう」

「仮定の話?」

「例えば、です。私が何がしかの外部アドオンを使用していたとします。ならば、憲兵に通報しますか?」

「それは……」

 わざわざこんなことを訊くからには、身体の何処かに外部アドオンを装備しているに違いなかった。外部アドオンは身体の外につける機械的な補助装置の総称である。

 外部アドオンの使用及び、装着は火星政府により、禁止されている。外部アドオンはマシンであるが、マシンではない生体臓器にしたところで、障碍を持つ場合に限り認可される。イオリも先天的盲目だったからこそ、生体義眼を埋め込むことができたのだ。五体満足の人間だったなら、生態義眼を埋め込む手術は人体改造として罰せられる。

 この規制を、人間性の保持が目的、と政府のスポークスマンはこの禁則を説明する。人間性――つまり、ホモ=サピエンスの《らしさ》を護持しようとするアイデアは、優性論の高まりと対をなす思想だった。

「私は、耳がいいんですよ」

 リズミカルに自分の耳たぶを軽く叩く。紫のピアスが共振する。銀のチェーンが振り子の吊り糸ようだ。

「つまり――。そのピアスが?」

 カナタはイオリの質問をスルーした。婉曲的に生体アドオンの使用を語るが、直接に認める気はないらしい。イオリが公務員であるから警戒しているのだろう。されど、本当に韜晦するつもりもないようだ。彼女の今の発言は語るに落ちたと云えるものだ。ひた隠す算段なら、わざわざ言うまい。

 取り敢えず、巨大ピアスが聴覚を拡大する機能を有する外部アドオンであることは明白そうである。耳飾にしては無意味に大きい理由も説明できる。尤も、昔からどでかい耳飾を纏う人間はいるのだが。

「耳がいいから、さっきの人たちの声も聞こえます。――信用してもらえましたか?」

「ああ……」

 彼女が耳がいいことは解った。けれども、如何して群集が移動したのかについては、やはり不明だ。不明だとしても、移動した人々が歓喜していないのだら、眠り姫は降臨していないことになる。少なくともカナタが嘘を言っていないと仮定すればだが。

「あっちの人に訊いて来るかな」イオリは椅子から立った。

 彼女は動かない。そっけなく「どうぞ」と言うだけだった。

 カナタも眠り姫に邂逅する為に、十七番区画の未開発地域くんだりまで出向いてきているはずである。だのに、座ったまま、動かない。つまり、彼女自身は眠り姫が出現していないと確信している。

 しかしながら、イオリは一応確認しないと気が治まらなかった。簡単な方法はある。《感情記号》のライブラリの中の、《誠意の象徴》を彼女に見せればいい。憲兵が尋問によく使用している《感情記号》だ。彼女は虚偽の発言ができなくなり、真実だけを語り出す。けれど、これはしたくなかった。しべきでもない。如何やら、彼女は何らかの信条を持ち、《感情記号》を忌避しているらしいのだから。使わなければ、お互いに嘘偽りなく語らう為の《誠意の象徴》も意味がなかった。

 資材置き場のズタ袋に腰を据えている年老いた男に話しかけた。居残っている群集のうちの一人だ。

「すいません」

 男はめんどくさそうに猫背を起こした。「何でしょう?」

「皆さん、何処へ行ったんでしょう?」

「ああ」男は顎をしゃくった。「向こうの、そうだな――五キロ位先かな、で光の筋が見えたんだよ。皆、ユカタの降臨だと決め付けて行ってしまったんですよ」

「なるほど……。で、あなたは如何して残っているのですか?」

「大方、ナノマシンの出した電気なんじゃないかと、私は思うんですがね――。若い者は識らんのですかねぇ。半世紀前はまだ第三次テラフォーミング中だったから、ああ云うこともよくあったんですよ」

「そうですか。ありがとうございます」

 イオリは一礼して、引き返した。如何やら、カナタの言は本当らしい。テラフォーミング中の時代に青春を過ごしたであろう年配の男がそう言っているのだから、間違いはないはず。テラフォーム中に光の筋が見えるとは初耳だった。数十年前にテラフォーム活動は終わりを迎えているので、それも仕方ないことである。尤も、テラフォーミング=デバイスが起こす現象ではなく、ナノマシン――分子機械が起こす現象であるから、工事現場ではよくある光景なのかもしれないのだが。

 イオリの足音を耳にして、カナタが首を回す。「如何でした?」

「ナノマシンの仕業らしい。遠くに光が見えたんだって?」

「いえ……。気付きませんでした。群集が移動したことしか……」

「そうか」

 再び折り畳み椅子に腰を預けて、夜が訪れるのを待つことにした。

 カナタが「妙な音がしますね」と何気ない様子で呟いたのは、お天道様は地平に消えてしまい、辺りがすっかり闇に暮れ、時刻は九時を回った頃だった。相変わらず重機は唸るをあげて開発に従事しているが、その姿はいまや把握できない。資材置き場の物品も殆ど見えなくなっている。白地のズタ袋が目につくくらいだ。明度が極端な色は夜に映える。反対に、重機は赤い塗装なので闇の中へ溶けてしまうのだった。

 火星の衛星二つは月ほど輝かないうえ、火星は太陽からも遠い為、夜間はかなり暗くなる。また他方、地球環境に近づくには太陽光から多くの熱を得なくてはならないので、地質が熱を帯び易く改良されており、簡単に冷えたりはしない。だから、火星の夜は地球ほど寒くならず、塗り潰されたように暗くて、無性に暑苦しい夜なのだ。しかも、赤道付近とくれば、膚に感じる温度は昼間と大差ないものだった。

 イオリは電子カンテラを弄り回しながら、カナタに問い返した。「妙な音?」

「眠り姫が出たのかもしれませんよ? 移動してみませんか?」

 頤近くの溝に指先を押し込みながら、イオリは考えた。果たして、この場所を移動してしまってもいいものだろうか。何処かへ行っている間にユカタが出現しはしないだろうか。骨折り損の草臥れ儲けだけは、御免蒙りたい。費やした路銀が無駄になると云う浅はかな意味ではなく、機会的な意味合いで、だ。

 応えに窮していると、衣擦れの音がした。

「ここで待ちます?」折り畳み椅子が軋った。「なら――私は行きますね」

 やにわに立ち上がると、カナタは歩き始めた。泥水に足を取られないように慎重な歩きっぷりだった。ゆっくりした移動速度だが、確実にイオリから離れていく。イオリは焦れた。外部アドオンを装備している彼女が妙な音を聞いたのだ。何かある。

「ぼくも行くよ」

 急いで椅子を蹴立てて、電子カンテラを引っ掴む。彼女に追い縋った。座面が過剰な圧力を受けて椅子が転覆したが、見なかったことにして、駆け足で追いつくと肩を並べた。

「そんなに急ぐと、転びますよ?」

「大丈夫さ。きみこそ、灯なしだと危ないじゃないか。昼間でも転倒するのに」

 電子カンテラを掲げて見せた。黄色いライトに照らされたカナタの顔は、昼よりも白く見えた。彼女はおかしそうに微笑んでいる。

「あはは。そうかもしれませんね。私も、焦っているんですよ」

 カナタはずんずん歩いていく。イオリは半歩後をついていく。

 資材置き場を迂回して、ジャングルに入るのかと思ったが、重機の作った轍を彼女は歩いた。蟹型重機ではなく、キャタピラ型の重機が生み出した轍は平坦だ。すっかり泥が押し固められて、足が泥濘に取られる心配もなさそうだった。カナタの足取りもやや速くなっている。

「何処まで行くんだい?」

「ま、ついて来てくださいよ」

 夕方に光の筋が見えた地点とは方角が真逆だ。あの光は分子機械の仕業と理解しているが、万が一を考えてしまうのが人の性だった。詮無いこととは識っていても、それを理性で押さえつけられるのならば、この世に《感情記号》なんてシロモノは生まれなかったはずだ。カナタは何処へ向かうのだろう。仄かな不安がないわけではなかった。

 電子カンテラの照らせる範囲が狭い為に、轍は何処まで続いているのか解らない。轍の幅自体はさほど広くなく、二人で横に並ぶとそれでいっぱいいっぱいだ。両脇はジャングルの木々が枝葉を繁茂させている。何時の間にか途切れ、ジャングルになるかもしれなかった。

 光を欠いた世界の中、ジャングルは際限なく不気味で、樹皮の色も葉の色も分け隔てなく漆黒だ。あたかも黒塗りの緞帳につつまれているかのようだった。両際(ぎわ)の帳は、妙な圧迫感と畏怖の感情を喚起させてくる。落ち着こう。

 《感情記号》を見ようと、ポケットをまさぐったが、ザックは木の下に放置してきてしまっていた。自分自身の器量でクールダウンせざるを得ない。横隔膜を激しく上下させる。口腔に闇が吸われていくような気がした。

 不意にカナタが立ち止まる。「こっちです」

 二人は右折した。すると、すぐに拓けた場所に出た。真ん中に沼があった。青白く明滅を繰り返しながら、夜光虫が飛んでいた。夜光虫は本来海生生物の一種である。小さな光点が飛行するさまに、海の中にいるような錯覚に襲われた。潮騒すら聞こえてきそうだ。沼が微風に煽られて、沸き立たせられた矮小な波も、大海原の浪打と遜色なかった。

 一匹一匹は小さな輝きしかないものの、何千と幾何学的残像を残し飛び交う夜光虫たちの生み出す輝きに対し、電子カンテラが発する光量など足元にも及ばなかった。夜光虫がイオリの鼻先を掠めた。人工網膜に炙り出された線状の飛蚊症の先っぽにいたのは、蛍のような蟲だった。蛍にしてはやや小ぶりで、彼が今まで目にしたことのない生き物だった。

「何だろう?」

「何かいましたか?」

「いや……」

 イオリは息を呑んだ。身を震顫させる躍動に、人の小ささを嘲笑うかのような吃驚(きっきょう)に、思わず電子カンテラを取り落とす。カンテラは音も立てずに泥に埋もれて、その輝きを失った。それでも沼地は少しも暗くなりはしなかった。イオリはカンテラを拾うことすら忘れた。そんなことなど、最早些事だった。

 夜光虫たちの輝きの中、茫洋として浮かび上がる拉がれたマシン。蟹型重機も蜘蛛型重機も、芋虫型重機もあった。様々な重機がオブジェのように沼に身を沈め、斜めになり、ひっくりかえっていた。全ての重機が廃棄されたものらしく、万全な状態ではない。装甲が剥げたり、あるべき部位が欠損したりしている。片輪ものの機械たちのユートピアだった。

 二機の蟹型重機の細い脚部が作り出す十字架があった。特に、そこに夜光虫が集中して飛んでいる。幻想的な風景だった。蟹の足の交差点を中心として、夜光虫が飛びまわり、円軌道や楕円軌道を描いている。生物と機械とか渾然一体となり、完全な調和を見せていた。宇宙の縮図が眼前に拡がっているようだった。文明と自然の二分法が通用しない世界だった。眠り姫が現れるとするならば、これほど相応しい場所などないと思えた。

 そして、眠り姫はいた。豁然とした風景がここにはあった。

 十字架の片一方の腕木に腰掛け、蟹型重機のカメラアイを乗せる支柱に手を添えている眠り姫。ゆったりとしたワンピースを身につけ、ウエスト付近まで伸びる黒髪。フリルの一つとてない簡素なデザインのワンピースは純白だった。泥の一滴すら、機械の錆すら、ついてなどいない。長い前髪が垂れ下がる顔面の、瞳は瞼に隠れて見えなかった。

 ユカタは安らかな顔をして眠っている。何度もテレビの特集などで繰り返し目にした通りの、姿だった。ドクター=シキシマの若い頃の写真そっくりだった。元々、シキシマ博士の擬装人格(フェイク)だったのだから、当然だ。しかし、容貌がドクター=シキシマであっても、眠っているのは眠り姫ユカタだった。それは間違いのないことで、火星人のイオリには明々白々だった。疑念を挟むどころか、疑義の情が生まれることすらなかった。

 眠り姫を目にしたなら、きっと歓喜の声をあげるに違いないとイオリは思っていた。それが如何だ。いざ、目撃すると動くことすらままならない。人工の網膜に焼きつくユカタの寝姿に、《感情記号》を眺めたときと似たような感覚を覚える。特定の《象徴》ではなく、全ての《象徴》を同時に見てしまった気分だ。そして、それは何も見ていないのと同義だった。そればかりか、《感情記号》ではない何かが、嘱目の中にある。その何かは、とても言語で説明が適うようなものではなかった。人間の理解の埒外にあるようだ。

「何か、いましたか?」

 カナタの声を聞いて、イオリは自分が眠り姫を凝視し続けていることに気付く。眠り姫と眼前の沼地が放ち、生み出し、奏でる、不思議で、捉えどころがなく、それでいて圧倒する美妙さの中に我を失っていたのだった。カナタの声を耳にしなかったなら、呑み込まれたかもしれない。我を取り戻したときには、朝日が昇っていたことだろう。

「……ああ」

 イオリは足を踏み出した。靴が沼に入り、靴下が水浸しになるのも構わない。十字架の上に眠るユカタ目指して進んだ。重機の屍を避け、(くぐ)り、乗り越える。夜光虫が導き手のようにイオリの周りを巡った。おいで、おいでと誘われているようだった。

 眠り姫が手の届く位置にくる。すやすやと眠るユカタへと手を伸ばす。彼女の清楚可憐な身体は、もう、すぐそこだ。

 イオリの手が届きそうになった瞬間、目がゆるりと開いた。ユカタの双眸が露になる。深い黒だった。周囲の闇よりも深淵にある漆黒の瞳がある。沼が海だとするなら、彼女の黒目は深海だ。そして、桜色の両唇が動いた。「――」

 眠り姫が何と言ったのか、イオリには解らなかった。確かに、彼女は音を発していた。言葉らしき何かではあったが、それは火星語でもなく、イオリの識る限りの言語ではなかった。言葉であって、言葉ではなかった。

 ユカタがイオリを見下げながら、微笑む。伸ばしていた腕が止まった。触れてはならぬ気がした。腕を引っ込めようとすると、掴まれた。ユカタがイオリの指先を軽く、包み込むように握っていた。彼女の手はほんのり暖かく、抱擁感が染み出す温もりで充ちている。火星の母に相応しいと思った。

 再び、小さく整ったユカタの口がゆっくりと開閉を繰り返した。今度は人間の言葉だった。イオリが生まれた頃から馴染んできた火星の言葉だった。地球由来の様々な言語が混交して生まれた、それだった。

「こんにちは。火星の子」

 風鈴のような涼やかな音色に、イオリは応えられなかった。眠り姫に邂逅できたら、何を言おうか、あれこれとこの三十年間思い巡らしてきたはずなのに、いざの瞬間だのに、頭の中は空っぽになっている。ぱくぱくと活け造りの魚のように、意味もなく口が上下する。上唇と下唇が協奏するぱっくぱっくと云う無意味な音だけが出た。

 ユカタは首を傾げると、イオリの指先を持ったまま、十字架から飛び降りた。引力など彼女には無縁だった。空気抵抗を受けて落ちる一葉のように、ワンピースをゆらゆらとはためかせつつ、彼女は沼の上に降り立った。水面に足をつけ、浮いている。夜光虫が水と彼女の境目に集まって、その光を泥水に反射させた。足の下からライトアップされた眠り姫は、異界の人だった。幻想郷が目鼻の届く間近にあるのだ。

「そんなに、驚かなくてもいいでしょう?」

 母性の宿った掌がイオリの頬を撫でる。彼女の膚が自分の膚と触れあい、心地よさに充たされた。どんな《感情記号》を用いても再現できそうもない感慨があった。ざらつくこともないすべらかな彼女の膚は、イオリの髭の剃り残しがある顎までをなぞった。

「私はずっと昔から、この星にいたのよ? あなたたちがこの星に来る、ずっとずっと昔から。五劫の擦り切れる時間とは言わないけど、それはそれは長い時間」

「あ――う」言葉にならない。感動の大海嘯に呑まれてしまったイオリには最早、人語を発することなどできない。肺から空気を送り出すことすら、ままならない。大海原の真ん中で、四方を水平線に囲まれながら、天空で微動だにしない北極星を見ているようだった。忘我の極地に、彼はいる。

「あなたは何を望む?」

 何を望む?

「あなたは、何?」

 ぼくは何?

「あなたは――何処へ行く?」

 ぼくは――。

「あなたは――」

 ぽちゃんと水が啼いた。低い水柱に続いて、小さな波紋が夜光虫の灯に照らされ、ユカタの足元で白い同心円を描いた。

「あらあら……」

 残念そうに柳眉をややさげると、ユカタはイオリから手を離す。撫でていた掌も顎の先から遠ざけた。ユカタの眼球が横へ動いた。視線はイオリの肩口を超えた先を向いている。彼女の両目が注がれる場所には、右手を僅かに前に掲げた状態で呆然と立ち尽くすカナタの姿がある。カナタはサングラスも外さず、睨むが如くユカタを見詰めているかのようだった。左手には石ころが幾つか握られていた。

「あなたが原子の存在に帰るまで、待っているよ」

 温もりに身体が包まれた。ユカタに抱擁されていた。首筋をさらさらの髪がくすぐって、仄かな湿り気を帯びた吐息がそれに追従する。イオリの頬と眠り姫の頬がほんの一瞬だけ触れ合った。腰から回した両手をイオリの肩甲骨の凹凸の上で滑らせてから、ユカタは身体を離した。とん、と胸を軽く突かれ、左足が無意識下でバランスを取った。反動のついた踵の所為で、水飛沫があがった。

「さようなら。また、会いましょう」

 見えない糸に吊り上げられ、浮き上がるユカタ。一定の高度で滞空してから、後方へ引っ張られるようにして滑り、長髪を扇状に広げながら、十字架の上に降り立つ。

 イオリは視線を上に向けた。ユカタの長髪に夜光虫が何匹も、群をなしてとまる。やたらときついフラッシュを炊いて撮ったカラー写真みたいだった。最後に白い歯列を見せて、笑うと、ワンピースの裾を翻しながら、優雅に反転する。ユカタの背中を拝むことはできなかった。最初からそこにいなかったかのように、彼女は消えてしまったから。霧か霞かの如く、あっさりと。後には何も残さない。

 沼地には飛び交う夜光虫と陶然とするイオリだけが取り残された。

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