三 イオリ 優性論
ユカタが現れた場所はお祭り騒ぎだった。露店はないが、熱気が近い。だたでさえ、暑苦しい湿地帯だと云うのに輪を掛けて蒸し蒸しする。
イオリはシャツのボタンを外した。既に一つ外していたので、二つ目だった。額をつうっと汗が滴り、瞼を経て眼球に落ちた。生来の目玉持ちならば染むが、生体義眼は染みない。こう云うとき義眼であるのは便利だ。
資材置き場の中、首からストラップで籠を吊って、ジュースを売っている仕事熱心な商人の姿が目についた。蒸し暑いのでそこそこの量が掃けているようだ。太陽光に中てられ、脱水症になってはかなわんので、イオリも一つ購入する。市販されている普通の飲料罐だったが、値段は倍額近い。所謂ぼったくりだ。観光地化でもする気なのか。眠り姫降臨ポイントなら、その資格は十分だが。
濃厚な炭酸が舌の痛点を刺激する飲料を一口呷ってから、イオリは雑踏に近づいた。人垣を掻き分けるようにして、出現ポイントを眺めた。何の変哲もない場所だった。
使用されていない蟹型重機(塗装も赤い)が漫然と整列し、土壌改造には欠かせない万能資源薬の入ったズタ袋が山積みになっている。およそ、眠り姫が現れるにしては似つかわしくない。機械文明の芳香がぷんぷんする。
近場の男を一人見繕って訊ねる。「ここでいいんですよね?」
「あ、うん。そうらしいですよ」
男はにこやかに応えて、すぐにイオリから視線を外した。一瞬たりとも現場から目を離したくないのだろう。目を逸らした隙に、ユカタが顔を出しては困る。降臨の瞬間さえも瞳に焼き付けたいのだ。
けれども、イオリは識っていた。眠り姫は夜間に限ってしか姿を見せないことを。これは、過去五十年間に於ける信頼できる目撃情報のみを選抜し、算出した統計データの結果、判明していることである。ユカタを長年追っているマニアなら常識だ。
空を仰ぐと、まだ太陽は高く、夜は遠かった。携帯通信デバイスの時刻表示のよれば、まだ火星時間の二時半。日暮れまでは、とかく暇だ。イオリは早く着すぎたと思った。焦燥に追い立てられ、急き過ぎた。ユカタは逃げたりはしない。現れなくなるだけだ。急いでも意味がないと云うのに。
日差しから逃れるようにして、適当な木陰の下に陣取ることにした。空を這う蛇の如く繁茂する根を掻き分けた。適宜な場所を見つけて、居座る。
十七区画は湿地帯だと事前に調査済みなので、イオリは折り畳み椅子を用意していた。直接臀部を地面につけない為だ。シートでもよさそうなものだが、土に深くめり込み、水が入ってくるかもしれないので却下した。ザックから折り畳み椅子を取り出して拡げ、腰掛けた。水気の多い地面はやはり、足場が悪い。安定性は果々(はかばか)しくなかった。
現場を中心に円環を作って屯する群衆を遠巻きにしながら、『火星物語』をポケットから引っ張り出す。眠り姫の出現するであろうポイントで、彼女のことが描かれた物語を読む、と云うのは中々オツではないだろうか。表紙を捲った。ぱさりとページ同士が擦れて音をあげた。音は葉のざわめきに溶けた、
「こんな場所にいてもいいんですか?」
不意に背後から声がした。誰だろうと視線を寄越すとでっかいサングラスをした女が立っていた。年の頃は二十歳前くらいか。いや、もっと若いかもしれない。
二十三世紀現在、サングラスをしている人間は珍しい。地球時代はファッションとして流行ったものだが、今は違う。サングラスをしている人間には、何か後ろめたいことがある、と思われてしまうからだ。その所以は、一時期、網膜認証が一世を風靡したことに端を発する。サングラスのファッション性を利用して、グラス部分に読み取り機を騙す偽データを仕込む悪党が後を絶たなかったのだ。網膜認証自体、すぐに廃れてしまったので、今更サングラスにフェイクデータを仕込んだところで何の意味も利点もない。されども、一度こびり付いた負のイメージの払拭は困難だ。
世間一般の評価はそうであったが、イオリは特に偏見を持ってはいなかった。人間、それぞれ個々の事情があるし、ファッションとして身につける人もいたっておかしいことはない。おかしいのは勝手な憶測だけで、自分の妄想を正当化する人間たちの方だ。
「――きみは?」おずおずと語りかけた。
後方に倒れこむように、女は木立の幹に背中を預けた。上手い具合に根を避けた。ショートカットの髪が微風に揺れる。綺麗な黒髪であった。そして、髪の合間から紫色に煌く菱形ピアスが覗いていた。サングラス同様、むやみやたらに巨大だ。女の背丈は百六十センチもないだろうから、不釣合いだ。
「あなたと同じですよ。眠り姫を拝みに」
さも当然と言わんばかりだった。こんな場所にユカタに会いに来る以外に訪れる人間など、工事関係者くらいだろう。女の反応は当たり前過ぎた。
「そうかい。久しぶりのチャンスだからなぁ。待ちに待ったって感じだね。早く、姿を見せて欲しいもんさ」
「ええ。まあ。早いならいいんですけどね」軽く頷く。ピアスが揺れる。「ですが――眠り姫が夜にしか現れないって識ってます?」
「だから、ぼくもここにいるのさ」イオリは二百メートルほど離れた位置に屯する群集を眺めると、顎をしゃくった。「あの輪に加わるのは冷えた晩になってからで十分だよ。きみも中々詳しいようだね。マニアかな?」
女はくすりと笑った。「マニアですか?」
「眠り姫、ユカタのマニアってことさ。ファンって言った方が響きがいいかな?」
「ですね」
「ぼくは、昔から火星物語が愛読書でね」
「皆、そう言いますよ」
「はは。違いない。初等学校の頃から数えたら、何度読み返したことか」
「今も持ってたりします?」
「ああ」
イオリは本を閉じ、横に差し出した。女に翳して見せる為だ。彼女は一瞥もくれなかった。話し振りから察するに、興味がないことはないはずだから、わざわざ確認する必要もないと云うことなのだろう。
彼女もユカタのマニアなら、何度も『火星物語』を再読しているに違いないのである。全部の内容を暗記している剛のものだっているのだから、そもそも読む必要性もないかもしれない。諳んじれるのなら、脳内で再生すれば済む。
「座るかい? 夕暮れは遠いぞ」
「お気遣いなく」
「いや、二脚あるんだ。立ちっぱなしは疲れるよ」
思案顔になりながら、女は足を揺すった。サングラスの所為で細かい表情は伺えない。暫しして、彼女は言った。「それじゃ、お願いします」
イオリはザックから椅子を取り出し、自分の椅子と一メートルほど離した場所に置いた。「どうぞ」
「どうも」
女は背筋をバネにして幹を離れた。が、突然、足を滑らせた。泥に足を取られたようだった。前のめりに倒れそう。このまま引力の導きに従ったなら、顔面から泥塗れになるのは明白だ。
「うわッ」女は素っ頓狂な声をあげた。
「気をつけなよ」転倒せぬように彼女の腕――手首のやや上方を掴んだ。ぐっと引くと彼女は平衡を取り戻す。
「すいません……」肩を支えながら、椅子に座らせる。女は、ズリ落ちそうになったサングラスを整えながら居住まいを正した。「バランス感覚には自信がないもので」
申し訳ない風で、女は軽く礼をする。
「そんなんだから、優性論が幅を利かせる」低い声でイオリは吐き捨てた。
優性論の跋扈は火星が抱える社会問題の一つだ。
社会は技術的に日進月歩しようとも、思想面に於いては早晩、進歩しない。奴隷解放にしたところで、リンカーンの二千年も昔にキケローが熱弁したことだし、一度頓挫した社会主義も二十一世紀前半に復活した。高々三百年前のナチスや日本帝国の思想が、人類の新天地火星で復古しない道理はなかった。元々、火星は人類の棲める土地ではないことも、少なからず問題の発生に起因していた。
社会が抱える問題ではあったが、見ず知らずの相手に振るべき話題ではない。初対面の人間に話すべきではない、とされる話題は三つある。宗教、政治、野球だ。優性議論は政治的な問題だった。イオリは、自分の口が自分のものではない奇妙な感覚に囚われた。何故、こんなことを言ってしまったのか。口が滑ってしまったのか。
「優生学ですか。仕方ないかもしれません」泰然として女は言った。
「そんなことはないッ!」
自分の声のトーンが少し高くなったのが解った。自ら話題を振っておきながら、不覚にも取り乱してしまっている。指先が細かく振動している。優性論にまつわる、己のいやな過去が思い出された。黒い記憶がイオリを攻め立てた。
自分に自分で失言して如何するのだ。そんなの、単なる馬鹿じゃないか。条件反射で発言するなど、ちっとも理性的でない。
女を見ると、イオリの痴態に対し面食ったような顔つきをしている。非難する色は幸運にもなかった。「いや……その」言葉を探した。何と取り繕うべきか。弁が立つタイプではないから、困る。このまま黙っていては、優性論者に受け取られても無理はないだろう。しかし、それは回避したい。イオリの立場は賛成ではなく、反対なのだ。
イオリが言葉に窮していると、訥々と女が語り出した。「――気持ちは解ります。仕方がないってのは、あくまで社会のストリームとして考えた場合の意見です。個ではなく、全として解答を述べるなら、です。最近の優先論ってのは――間引きや疫病による病死がなくなったから、優性遺伝の不良因子が蔓延し、人類全体が虚弱の方向へ進みつつあるって話ですよね」
「すまない――。勘違いしたかもしれないが、別にきみが虚弱な存在と言いたいのじゃ……」
バランス感覚が悪いくらいが何だと云うのだ。先天的に盲人であった自分に比べれば随分とマシではないか。イオリは生体義眼の技術がなかった時代に生を受けていたら、《感情記号》を楽しむことすらままならないのだ。同じ虚弱的な人類でありながら、彼女の症状が比較的軽微なことに、嫉妬を抱いたわけだ。何と、浅ましい。先の自身の発言が、同類の臭いを嗅いだ所為だと云うことにイオリはようやく、考え至った。
けれども完璧に落ち着いたわけではなかった。蠕動する感情流は理性的な枷では不十分だった。ポケットから携帯通信デバイスを取り出す。本日二度目となる《落ち着きの象徴》を拝んだ。冷静さはすぐにやってきた。精神が冷えたところでポケットに戻す。取り乱し、混乱していた精神が嘘のように消し飛んでいる。
「ええ。解ってます。声から察っせましたから。立場的には優性論に反対なのでしょう? 確かに言葉が不足しているかもしれませんけど」やや棘ばった調子だった。軽蔑や憤怒はないようだが、気分を害したと見える。当然だ。彼女が虚弱のレッテルを貼られて生きてきたのならば、イオリと同じく優性論に駁する側なのだから。
「気を悪くしたら――」
「気にしませんって。人類皆、畸形なり。と云う言説もあります」努めて明るく振舞っているのか、本当に気にしていないのか、女は笑顔だった。「――ところで、環境ホルモンをご存知ですか?」
「テクノロジーが足りなかった時代の産物だな」
地球時代、エコロジストが槍玉にしていた環境破壊を担うとされた物質である。主だったものダイオキシンがあげられる。
「そう。ホモサピエンスってのは比較的、環境ホルモンに対する耐性が高いらしいですよ」
「初耳だな」
「地球の話ですけど――他の動植物が環境ホルモンによって催奇される中、人類は結構大丈夫でしたから。クジラ類と同じく、捕食のヒエラルキーの頂点にいたにも関わらず、です。クジラ類は相当なダメージを負ったと云うのに。でも――」女は一息吐いた。「――その時代に遺伝子が傷ついていない保障はありません」
「だから人類皆、畸形なのかい?」
女の話は興味を惹いた。優生学への、黒い情念は何時の間にか薄らいでいた。《感情記号》の世話になったからだ。それと同時に、イオリの様子を慮り、話の趣旨をズラした彼女にも感謝した。
「ええ。まあ、そんなところです」小さく首肯して、女は続ける。「それにですね――動物ってのはオーダーメイドなんですよ。遺伝子が同一であっても、指紋や静脈は各人で異なります。虫の話ですが、蝶の羽の文様って、遺伝子に該当するデータ群が存在しないんです。だから同じ文様の蝶は生まれない。例え、クローンであっても。
同一の文様が発生する確率は勿論、ゼロではありませんが、逆に遺伝子の管轄外である以上、別種の蝶同士が全く同じ文様を持つ可能性も、等しくあり得ます。文様の発生は、サナギのときに決まると云われますが――一つに、生命のランダム要素なんじゃないか、と私は思います。一個の種族に共通する根源的な要素が、果たして存在し得るのか。人格や個性と云うのも蝶の文様と同じような――」
「ちょっと待ってくれ」イオリは女を手で制す。彼女は黙った。「遺伝子がその根源的要素なんじゃないのかな? 身体の設計図ではないか? だから、脳内構造が一緒になる。脳内構造が一緒でなかったとしたら、コミュニケーションが可能なのかい? それに――《感情記号》ってものもあるんだ。やっぱり、何かの統一的基準はあると思う。何か――そう、イデア的なものがないとすれば、《感情記号》の持つコマンドに全人が反応するはずがない。《感情記号》が万人に等しく作用することは証明されているはずじゃないか」
「《感情記号》ですか」
「ああ」
「見たことがないので解りません」
「本当かい?」イオリは驚きに身を乗り出した。
火星人ならば、物心つき始めの幼稚園児だって《感情記号》のお世話になっている。《感情記号》を組み合わせた映画だって存在するくらいだ。
例えば、感傷に浸りたい気分になった場合、《悲哀の象徴》や《悲嘆の象徴》、《愁嘆の象徴》など、励起される感情流が少しだけ異なる《感情記号》だけで構成されたムービーを嗜む。これは至極一般的なことである。三次元グラフィックに比べて、遥かに簡易な構造の図形である《感情記号》のみで構成される映画はローコストであるにも関わらず、聴衆が望む感動を与えてくれる点で優れている。《感情記号》映画を楽しむのは、有機ELDの情報通信デバイスで毎朝新聞を読むくらいに普通の所作だ。
ゆっくりした動作で女は深く頷いた。「ないですね」
《感情記号》の効能を識らないとは! 女に地球人の疑いが生じた。地球では《感情記号》はサブリミナル的であり、マインドコントロールの一種として禁止されているのだ。だが、それを疑うには彼女の火星語(リンガ=マルティス)は完璧過ぎた。
「そうか。あれはいいものだぞ。見るかい?」イオリは通信デバイスを再び、ポケットより取り出そうとした。
女の反応は速かった。イオリがポケットからデバイスを取り出す前に先んじて、言った。「いえ。結構ですよ」
イオリは是非とも彼女に《感情記号》の素晴らしさを解らせたかったが、拒否されてまで強要する気は起こらなかった。《感情記号》を好まぬ火星人、と云うことだ。そんな火星人も広い火星にはいると云うだけの話だった。
「それは残念だ」
「私も残念ですよ」
自嘲気味に歪んだ女の唇の動きをイオリは見逃さなかった。だが、何に対する自嘲かは解らない。
「しっかし――きみは博識だな」
「ただの薀蓄ですよ。学術的なことはとっとも解りません。大学の専門は科学文学(サイファイ=リテラチュアー=スタディーズ)でしたから。微積分も怪しいレベルの、文型ですよ」
「きみは大学生なのか?」
「やっぱり、若く見えるのですね」女の顔に困惑が浮かぶ。それはすぐに諦めの色を帯びた。「これでも、二十八になるんですけど。今年で」
またしてもイオリは驚いた。十歳は若く見える。ハイスクールの制服を着ていても、何ら違和を感じないだろうと思う。サングラスをかけている理由に合点がいった。大人っぽさを演出する為、身につけているのだ。それでも、十歳若く見えることに変りはなく、少しも効果はないようであるが。
「名前を教えてもらえるかな?」
「ナンパはよしてください」
「そうじゃない。純粋に気になったんだ。それにぼくは公僕だ。なんなら、身元照会してもらっても構わない」
やましい気持ちはこれっぽちもない。公務員だから、身分もしっかりしているはずだ。地球や月からの密入国者や日雇いの仕事人とはワケが違う。レッキとしたホワイトカラーだ。イオリは自信満々だった。
「公務員とは、エリートなんですね」
「そんなことはないよ。文書係だからね。右の記憶媒体の書類データを、左のロムに移すのが仕事さ」自虐のニュアンスを音に乗せながら、イオリは告げた。
公僕は公僕でも、火星軍の人間将校(マン=オフィサー)やテラフォーム省の役人――もしくは研究職なら、間違いなくエリートだ。彼らは人間にしかできない仕事を担っている。自分が公僕であることに自負はあるが、エリート意識はなかった。
女は自分の指同士を絡ませて手遊びを始めた。やや顔を伏せるようにしている。イオリは彼女が名前を告げるのを待った。辛抱強く、待つつもりである。
彼女はイオリの身分照会をしなかった。通信デバイスすら手にせず、決心した様子で顔をあげた。「――カナタです。ヒエノ=カナタです。職業は――」もごもごと口を動かしている。「――秘密です。それで、あなたの名前は?」
イオリは名刺を出そうとした。職業柄、休日であっても、名刺ケースを携行している。ケースを探して、財布をまさぐっていると、咎めるような声でカナタが言った。
「名前は音に宿るものですよ。文字媒体での紹介じゃ、まるで商品のタグを見せ合うみたいじゃないですか?」
彼女の謂わんとすることは解った。文字での自己紹介など、確かに素気ない。イオリは彼女の意図を汲んで、口頭で告げることにした。
「タカシマ=イオリ。さっきも言ったけど、地方政府の書類係だよ。歳は、三十路だ。今年でね。だから、まだ二十台」
「よろしく」
「ああ、こっちこそ。――ま、眠り姫に会えるまでの短い時間だろうけど」
「ええ」呟くようにカナタは応えた。
二人は握手を交わさなかった。イオリはするつもり満々だったのだが、カナタが腕を差し出してくれなかったからだ。ナンパめいたことをしたのが仇となったようだ。少しだけ、口惜しいと思った。彼女とは仲良くなりたかったのだ。




