二 カナタ スクエア市
昔から不思議に思っていたことがある。火星人のことだ。
「この世に火星人はいるか?」と問えば、十中八九返ってくる答えは予想できる。イエスだ。
現時点で、これは正しい。人類は火星に棲んでいる。家を建て、飯を喰らい、セックスし、星の瞬きに眠る。火星に棲むホモ=サピエンスは火星人と称される。――では、「人類が火星に殖民する以前は如何だったのか?」と問い直してみよう。九分九厘、答えはノーとなるだろう。
「本当にそうなのか、火星に先住民はいなかったのか?」と言ったら、「何を馬鹿な」と笑われるに違いない。反応が目に見えるようだ。そして、「火星の何処にも火星人が存在した証拠など何一つないのだ」と解答者たちは言葉を次ぐことだろう。
火星の大地には先住民の移住跡地もなければ、そもそも高等動物の存在した痕跡すらないのである。微生物ですら、遠い昔は氷結された状態にあるのではないかと勘繰られたものの、実際にはいなかった。生物どころか、ウイルスだっていなかった。火星は水星や金星と同じく、死の惑星だった。メタンガスは噴出はあっても、生物発生に寄与しなかった。特別だったのは、地球だけだったのだ。
カナタはH=G=ウェルズ著『宇宙戦争』に出てくるタコ型火星人を求めているわけではない。火星人がいるのではないか? と云うアイデアは単なる疑問だ。誰しもが幼く、拙く、学のない時分に抱く絵空事に近しい。聖夜の枕元で、サンタクロースの訪れを待ち焦がれ、その存在を信じるのと僅差だ。サンタクロースなんてこの世に存在しない、と幼年期の終り頃、大人たちから暴露されても、何処かにいるのではないか。と問い続けることは果たして、愚かしい行為なのだろうか。
彼女は成人をとっくに過ぎた今でさえ、火星人の存在を否むことができなかった。火星人はいたのではなく、いるのではないか。と云う疑問。火星人の思念が火星を覆っているような気がするのだった。多くの火星人類が人工知性ユカタの残滓、その思念が火星の大地の何処かで眠っているのを信じているように。
カナタは一度、ユカタを感じてみたいと思った。
彼女が人工知性由来の残留思念なのだとすれば、火星人の怨霊にも詳しいかもしれないとの期待感からである。だから、ユカタの目撃情報を小耳に挟んだとき、気がつけばスクエア市に足を運んでいた。
スクエア市は火星でも比較的新しい町だ。火星最初の殖民都市マリネス峡谷に位置する星都ニュー=コロンビアから数えて百五番目の都市に当たり、火星政府樹立五十周年を記念した開発事業で造営された。人口は十五万人と小規模である。
町の校外から先はいまだ手付かずのまま放置されており、火星適応化ジャングルが鬱蒼と拡がっている。テラフォーム開始から約百年、火星の九割は地球の自然環境に似せて適応化されたが、それが全て人間用に適応化されているとは限らない。地球でさえ、いまだアマゾン一帯には原生林が残っているのだから。地球的であることは、必ずしも人間の生存に最適であることを意味しない。
地球由来の植物や動物が、環境の異なる火星上で本来の形質を保った常態で移植可能な道理はない。だから、《適応化》と言われる作業が行われる。これは火星環境、例えば火星の四季の長さや地質、重力に合わせて、逐次テラフォーム用分子機械(ナノ=マシン)が原種の遺伝子を操作する。操作の末、生まれた生物の中には地球由来の原種とかなり変ったものもできる。その次のフェイズで、今度は人間用の《適応化》がなされるわけだ。
スクエア市の産業は、その手付かずの火星適応化環境を利用したものだ。つまり、有体に述べると第一次産業――農業でだ。変り種の生物を地球へ向けて出荷しているのである。しかしながら、この産業も最近では頭打ちらしく、火星政府の八十周年に沿い、スクエア市近縁のジャングルの人間環境適応化が計画された。未開発地へ派遣されるであろう、多くの重機の立てる重奏的な駆動音がシャトルバスの車窓から聞こえた。
町で眠り姫についての情報を集めるのは簡単だった。
火星人は皆が皆、ユカタを慕っており、彼女に邂逅せんとする人に世話を焼くのは当然のことと考えられている。聖地を目指して艱難の道を旅する礼拝者に、同教のものが無賃の宿を貸し与える行為と、本質的には同じだからだ。皆、快く持っている情報を開示してくれた。現地まで同道してもよい、と申し出たものもいたが、さすがにカナタは断った。そこまでされては、篤い恩義を感じてしまう。
彼女以外にも、多くの火星人が眠り姫の姿を一目でも拝まんと訪れているらしく、町に不案内と思われる人物の彷徨する足音を聞いた。
「サングラスとは珍しいね」としわがれた声の男が言った。
「ええ。まぁ」
「ファッションかい?」
「そう云うわけでもありませんね」
カナタは、彼女の小柄な身体には、およそ不釣合いな大きく厳ついサングラスのツルを指先で挟んだ。位置調整するように鼻頭に押し付ける。同時に、これまた大きな両耳に嵌めた菱形のピアスが小刻みに揺れた。振動で陽光の反射面が変り、煌いた。
「そうかい。そうかい。でも、眠り姫を見るときは外した方がいいな」
「何故?」
「そりゃぁ、決まってるじゃないか。ちゃんとクリアな画像で見なくっちゃね」
何がおかしいのか、男はゲラゲラ笑った。馬鹿笑いだが、そこに悪意は感じない。むしろ、人好きする印象を与えてくる。
眠り姫の出現場所までの道に、公共の交通網は一つとして走っていなかった。当然だ。未開発区域なのだ。人の往来が少ない場所に交通機関を設置するほどスクエア市は潤沢な経済状況ではない。そこで、カナタはタクシーの相乗りをすることにした。一人でチャーターしてもよかったが、少しでも金銭面で節約するのである。無駄な出費は差し控えたかった。
似たような考えをする人はやはりいるようで、この男も彼女の同類だった。運賃を折半することにして、タクシーを一台、街中でチャーターした。
そして今現在、眠り姫出現ポイントへと向かっている最中だ。
予算をケチった所為で、雇えたのは年代もののタクシーだった。別に革張りのシートに期待するわけもなく、今にも壊れそうなモーター音が座席から伝わっていることとて、大した問題ではない。同道する男も悪い人ではなかった。気さくで、若い女に口の軽い典型的な中年男性と云ったところだろうか。下賎に表現すると、おっさんだ。
「何の為に眠り姫を見るんです?」
何とはなしに男に訊ねた。返って来る答えは予想通りのものだった。
「そんなの決まってるじゃぁないか。母親に会いたくない人間などいまい」
「はぁ……」
「そう言う嬢ちゃんは如何なんだい?」
二十七にもなって嬢ちゃん呼ばわりは少し気恥ずかしい。カナタはその部分だけ、聞かなかったことにした。これまでの経験上、自分が童顔であることは心得ているつもりだが若く見られることには如何しても慣れない。下手をすると、男の目にはティーネイジャーに見えているのかもしれない。
「訊いてみたいことがあるんですよ」
「ほう。何を?」
男は興味を覚えたようで、身じろぎした。シートが小擦れる音がした。合成繊維ではない天然ものの素材が立てる衣擦れの音だ。彼はタクシーを相乗りしているわりには、裕福なようである。ケチなのは有り金の大小は関係ないらしい。
「火星人はいるのか? と、訊ねます」
「そりゃぁ、いるさ。俺たちは火星人じゃないか。火星生まれは皆、火星人だ。とっ――嬢ちゃん、もしかして地球人なのかい?」
「いや。地球人じゃありませんよ」カナタは大きく首を左右に振った。「生まれも育ちも火星です。火星の大地から一歩すら、外へ出たこともありません。ダイモスの宇宙シアターへ行ったこともないですよ。それに――私の言葉に地球訛りはないでしょう?」
「そうだな。火星人の喋りだ。うん。しかし、変なことを訊きたいんだな」
「そうですね……。でも、中々機会がないですから」
カナタは嘆息した。自分自身へ向けた溜息だった。
今回の眠り姫目撃情報は、カナタにとって約二年ぶりに齎された吉報に値した。彼女の祖父母の時代にはもっとたくさんの目撃談があったそうだが、ここ数十年は鳴りを潜めた感があるのだ。目撃情報も、スパンの長い間歇的なものになっている。二年前も目撃情報の出た地へ赴き、是非とも相見えんとしたが、結局会えず終いだった。今回を逃すと、何年後になるか解ったものではない。また二年待つだけならマシだが、更にスパンが伸びて五年や十年待つのは御免だ。
「あ、あの辺りですよ」とドライバーが言う。
ウインドシールド越しに嘱目できる風景は火星のジャングルだ。マングローブのような木々の根が湿地のそこかしこを我がもの顔で這い回り、のたくる。巨人の手の如き先割れした蔦がその樹皮を絡みつきながら、上下に伝っている。繁茂する枝葉は厚く、森の天井をなし、僅かの間隙から漏れた陽光が斑模様を地に描いていた。
すでに独立八十周年記念の開発事業は始まっているらしく、高足蟹じみた重機がぬかるむ泥の中を右往左往している。エンジンが唸る音、水気の多い地面を蟹の足が蹴立てている音がする。木々は重機の足から生えたメートル単位の長い刃で次々と伐採される。分子振動式の刃で除伐された場所からは、緑の天蓋が消え失せてしまう。邪魔者は消えたとばかりに、太陽光が喜び勇んで燦々と湿地に降り注ぐ。
ドライバーの言うあのあたりがカナタには解らないが、説明するからには近いのだろう。工事中であることだけは音で判断がついた。眠り姫が降臨したのは工事現場近辺らしいので、間違いないはず。
「十七番区画のジャングルって、火星バナナの特産地ですよね?」
「おお。嬢ちゃん、詳しいね。あれは絶品ですよ。血のような果肉がグロテスクって評もありますけどね、ドリアンみたいなもんで、食べればその美味さが解るんですよ。ほら、見てくれがいいものにゃ、隠れた場所に棘があると云いますけどね、その逆。醜いものには、隠れた場所に素晴らしさが潜んでいる」
ドライバーまで嬢ちゃん呼ばわりだ。学生の休暇を利用した見聞旅行とでも思っているのか。白地で色っ気皆無の開襟シャツなど着てこなければよかった、とカナタは思った。下半身もぶかぶかのジーンズではなく清楚さ漂うスカートでも履けばいいのか。さすらば、歳相応に映るだろうか。
「ええ。まあ」
「この辺はさぁ、結構特異な生態系なんですよねぇ。赤道が近いってのと、他のジャングルと繋がってないからかなぁ。ま、《金のラグーン》には劣るんですけどね」
火星随一の特異環境を持つ《金のラグーン》には劣る、と口では言いながらも、自分の地元が特異生態系を持つことに自負があるようだ。ドライバーの声音は弾んでいる。自慢したかったに違いない。異郷の客には必ず喋っているはずだ。全く、お喋りな運ちゃんだ。
「そんな珍しい場所、開発しちゃっていいんですか?」
「背に腹は代えられないさ。パンの代わりのケーキはないんですよ。私らは貧乏人だからねぇ。最近は地球も不景気だとかで、火星ドリームなんて政府の駄法螺にのせられて、渡航してくるヤカラも多いんだ。ただでさえ、職は足りてないってのに。それと、火星バナナも飽きられたのかもしれません。地球出荷分も先年くらいからさっぱりだ。美味しいのに」
憤りとやるせなさが口調の端々に宿っていた。不満は理解できる。カナタも火星バナナを食した経験があって、確かに彼の言うように美味だった。グロテスクか如何かは識らない。土地の者ではないけれど、火星バナナが取れなくなるのは残念だ。
「あの――いいですか?」カナタは一呼吸置いた。言うべきか言わぬべきか一瞬迷う。結局、続けた。「もしかして、その場所をユカタは開発してくれるな、って言ってるのではないですか? 火星の緑は彼女のものだから。火星バナナだって、農場では育てられないと聞きますし」
ドライバーが息を呑んだ。空気と一緒に咽元を唾が嚥下される。ごくり、と云う音色がはっきり聞こえた。明瞭で粘着質なその音から、いやな指摘をされたとの感情がありありと読み取れた。
失言だったかな、とカナタは思った。気まずい沈黙が車内を充たした。
不穏当な空気は思ったほど長くは持たなかった。同道人の男が沈黙を破ったからだ。「嬢ちゃん。そりゃ、ないよ。彼女は人間の男に恋したんだ。人間の不幸なんか望まないよ。そうだろう?」
男のフォローに感謝する。「――そうですよね」
「うんうん。そうだとも、そうだとも。火星人の幸福こそ、彼女の希望さ」
男の言葉に安心したように何度も大仰に頷きつつドライバーは、ステアリングを激しく切った。車体が傾ぐ。遠心力で反対方向に身体が引きずられた。突然のハンドリングにカナタは対処できなかった。ドアの窓の強化ガラスで側頭部を強かに打つ。
「大丈夫かい? 嬢ちゃん」
「あはは……大丈夫ですよ」
後頭部を摩る。ちょっと膨れている膚触り。タンコブができていた。普通なら、ドライバーにいちゃもんをつける場面だろう。しかし、カナタはこう云う事態に慣れている。なにせ、何時ものことだ。取り立てて鈍臭いわけではないが、しょうがないのである。慣れない乗り物に乗った自分の責任だ。
「すまないね。嬢ちゃん。乱暴な運転してしまって……」
「いえいえ」
眠り姫出現地点は、資材置き場に使われている場所だと云う。すでに大勢の先客ががやがやと話し声を立てていた。話し声の合計ボリュームから察するに、百人程度はいるかもしれない。もっと多いだろうか。数える手立てがないので不明だ。
こんなに騒がしい場所に、果たしてユカタは姿を見せるのだろうか。不安になった。もやもやした気持ちが鎌首を擡げてくる。二年前のように、空振りの草臥れ儲けに終わるのじゃないか。そんな考えが脳裏をよぎった。
いやいや、折角出向いたのだ、とカナタは気がかりに囚われてしまった想念を振り払う。ネガティヴな方向を指向して、何かが生まれる試しはない。そもそも、ユカタが降臨するかしないかは彼女自身が決めることなのだ。観測者の不安とは一切無関係だ。余計な情念は要らない。こんなとき、多くの火星人は《感情記号》に頼るのだろうな、と思った。
慎重に後部ドアから降りるなり、カナタは運転手に告げた。「あ、どうも。ありがとうございました」
「こっちこそ。帰りも利用してくれると嬉しいですね」
「はい。そのときはコールしますから。迎えに来てください」
「あいよ」
カナタは乗車賃半額分をドライバーに払い、同道した男と別れた。そして、人の喧騒で充ちた出現ポイントへ向かう。ぬかるむ地面は歩き難い。気を緩めると転びかねなかった。急かぬよう、堅実な足取りで歩を進めるのだった。




