2、宵闇の王、イシュバランケー
「まさかそなたが、この俺を殺そうとするとはな…。」
シバルバーの心臓に深く刺さったように見えていた刃は、しかし次第にその姿が浮かび上がってきた。
同時にシバルバーの身体が黒い霧のように消えて行っていたのだと、イシュタナは気付いた。
神殺しは、失敗した。
イシュタナはすぐさま、刃を戻して、代わりに自分の心臓へと突き立てようとした。
生け贄としての自らの心臓の血で、神の怒りを鎮めるために。
「まだ死ぬ時ではない…。」
けれど、よく研ぎ澄まされていたはずの刃は、イシュタナの心臓を貫く前に、まるで土くれのようにボロボロと崩れてしまった。
「勇敢な姫よ…、俺を殺すことで、生け贄の悪習を終わらせようとしたか…。」
シバルバーは、再びイシュタナから少し離れた場所に、その姿を表していた。
黒いフードを深く被った姿から、その顔を伺うことはできない。
ただその声からは、思ったよりも若い男性だと推測できた。
「勇敢で愚かな姫よ、俺の怒りが、そなたの国や家族に向かうとは考えなかったのか?」
「私の心臓を持ちまして、どうか家族にだけは災いの向かわぬよう、宵闇の王におかれましては、祈るばかりにございます…。」
イシュタナは歯噛みした。家族に災いが向かうこと。それは一番恐れていることだった。
けれど、家族には、手紙と一緒に今まで貯めた金子を置いて家を出た。
もしも何かがあったなら、すぐに国を出て遠くに逃げて欲しいと、手紙にはしたためてある。
「コカは飲んでいないのか?」
イシュタナの受け答えがしっかりとしていることに、シバルバーは疑問を抱いたようだった。
今まで生け贄に選ばれていた姫達は、生け贄になる一年以上前から、大量のコカの葉とリュウゼツランの酒を与えられていた。
生け贄当日には、意識は朦朧とし、夢見心地のまま黄泉の国へと旅立てるように。
けれどイシュタナは、そのコカの葉とリュウゼツランの酒を、秘密裏にお金に変えていた。
コカの葉と酒は、普通であれば庶民の口には入らない高級品である。
口の固い商人と内緒で取引をし、もしもの時の母と妹の逃走資金のために、イシュタナはこっそりと資金を作っていたのだ。
「はい、飲んではおりません。」
イシュタナは、与えられたコカと酒を全て金に変え、飲んで酩酊したフリだけをして、ここに来ていた。
「毒に侵されていないのは重畳だ。」
シバルバーはその返事に満足そうに頷いた。
その様子に、イシュタナの頭に疑問が浮かぶ。
シバルバーの様子は、聞いていた話とどうも少し違いがあるようだった。
シバルバーは、太った巨漢の男で、酩酊した生け贄を頭からバリバリと食べるのを好んでいると、イシュタナはそう聞かされていた。
けれど見たところ、黒いフードに包まれた身体は細身のように見えたし、何よりコカを飲んでいないのを喜ぶのは奇妙だった。
けれどもしかしたら、ただ痩せただけかもしれないし、たまたま活きの良い餌が食べたい気分なだけかもしれない。
「脱げ。」
次の言葉に、イシュタナは身を固くした。ついにシバルバーは、私を頭から食べる気なのかもしれないと思った。
「辰砂の服は、身体に良くない。」
けれどシバルバー、上質で清潔な麻の服を投げて寄越すと、毒である辰砂のドレスを脱ぐように再度促した。
「はい…。」
シバルバーの意図は分からなかったけれど、辰砂のドレスを脱げるのは素直にありがたかった。
替えの服を渡すということは、今すぐ食べようというわけでもないのかもしれない。
イシュタナは警戒しながらもドレスを脱ぐと、与えられた麻の服に袖を通した。
麻を丹念に柔らかくして作ってあるその服は、着心地も良く、デザインも可愛いものだった。
「そなたに見せたいものがある。」
着替え終わったイシュタナに、シバルバーはそう切り出した。
「はい。」
気が付くと、隣に一人の黒い翼の生えた神が立っていた。
「ご案内いたします。」
黒い翼の神は、恭しく頭を下げると、そのままイシュタナを先導してくれた。
イシュタナは翼の神とシバルバーに案内され、洞窟の奥へと進んで行った。
洞窟の奥には広い球技場があり、その端には大きな木が生えていた。
そしてその太い枝には、今切られたばかりのように血を滴らせている、大きな生首がぶる下げられていた。
「ひっ…!!」
あまりに凄惨な光景に、イシュタナは思わず悲鳴を上げた。
「もう死んではいるが、危険なので近付かない方が良い。」
シバルバーは、生首から距離を起き、イシュタナを庇うように前に立ちながらそう言った。
「あれが、昨日までシバルバーの王であった、フン・カメーの首だ。」
「え……?」
「長く宵闇の国に君臨していた王は、昨日この私が倒した。今日からこの国の王、シバルバーは、この俺、イシュバランケーである。」
フードを取ったシバルバーは、黒と金の神に金の瞳をした、まるでジャガーをそのまま青年にしたような精悍で愛嬌のある顔立ちをしていた。
「え…?」
後ろで翼の神がイシュバランケーにかしづくのが見えた。
私も慌てて宵闇の国の新しい王、イシュバランケーに跪きつつ、あまりの出来事にただ驚いていた。




