「さくら」 サンドウィッチが評判の昔ながらの喫茶店
『サンドウィッチが評判の昔ながらの喫茶店です』
アルバイト情報にはそんなPR文が載ってた。
『昔ながらの喫茶店』
なんとなくその言葉に惹かれた私は喫茶「さくら」のアルバイト面接を受け、もう半年近くバイトを続けている。
「お昼は食べてきたの?」
「いえ、今日はまだです」
「なら食べてって、うちのサンドウィッチ。結構評判いいんだよ」
採用が決まった日にマスターの隼さんが言ってくれて、私は初めて「さくら」で一番人気だというミックスサンドを口にした。
これが創業四十年近い「さくら」の味。
確かに一度食べたらこの味が昨日今日のシロモノではないことがわかる。
シャキッ、サクッとした歯触りのレタスに、ぽってりと濃厚な卵のペーストとハムのバランス。
ほんのりと塩の旨味を感じる胡瓜やトマトに軽くトーストしたフワッと甘みのあるパン。
「美味しいです」心からそう思って自然と笑顔になる。
「でしょうとも」と隼さん。
美味しくって心までも満たされる、と思った。
使い込まれた木製のテーブルセットが並ぶ店の入口脇には小さい棚があり、街中で行われるコンサートやステージやギャラリーでの個展のチラシ類が置かれている。
そしてその上の壁には何枚かのチラシが入れ替わり貼られている。
それは大抵がここに足を運んでくれる常連さんの関わっているもので、隼さんに頼むと置いてもらうことができる。
今、私はそこのスペースがすごく気になっている。
それは今度私が準主役で出演することになっている大学の演劇サークルの公演チラシが置いてあるせいだ。
「それぞれでどこか置いてもらえるとこあったらお願いしてよ。バイト先とかでも」
刷り上がったチラシを前にリーダーの元がサークルの皆んなに言った。だから私も隼さんに聞いてみた。
「隼さん、お願いがあるんですけど」
「なに?エリちゃん」
「これ。私が入ってる演劇サークルの公演チラシなんですけど、入口のとこに置かせていただけませんか」
そう言ってチラシを見せた。
「はあ、何なに?いや、公序良俗に反するものでなけりゃあいいよ。エリちゃんのだしね」
舞台の内容は元の書いた創作劇で結構グッとくる内容だと思う。
「コウジョリョウゾク、ですか……舌噛みそう。でもそれなら大丈夫です」
「なるほど。まあ公序良俗ってのがわかるなら大丈夫。これ、壁にも貼っときなさいよ」
「ありがとうございます」
一枚でも手に取ってもらえたらいいなあ、そして一人でも多くの人に舞台を見に来て欲しい。私も皆んなも頑張ってるし感動してもらえたら。
午後遅くにカランカラン、と出入り口の素朴なベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
あ、あの人が今日も来てくれた。
その人はスーツ姿の男の人で歳は三十歳くらい、なのかなあ。
黒髪は短髪で手ぶらだったり黒い鞄を持ってる。店の近くに会社がある人だろうか。
常連さんの彼はランチタイムか午後遅くに来て、帰り際にはいつも「ご馳走さま」と声を掛けてくれる。
ランチはミックスサンドのセット、午後だと店のオリジナルブレンドかアイスコーヒーをいつも頼むのを私は覚えていた。
隼さんがカウンターに居て余裕がありそうな時はカウンターで少しだけ話して行く事もあるけど、私は洗い場に回るか賄いをいただくタイミングだから内容はわからない。
その人は今日も、お会計の時にレジに立った私に「ご馳走さま」と言った後で、あのチラシの棚から私が置いた演劇のチラシを手にして目を遣りながら店を出た。
「ありがとうございました」と、ドキドキしながら見送る。
チラシ、持って行ってくれた。あの人って演劇に興味があるのかしら。
大学の演劇サークルの舞台公演だけど。
もしそうなら来てくれたらいいな、頑張るから見て欲しい。
あの人に。
最初はレジで聴いた「ご馳走さま」と言ってくれる声が何だか好きだなと思っていたんだけど、私の中でそれはだんだんと『あの人が好き』の想いに変わっていたから。
公演の日。
渾身の熱演で無事に公演は終演し、ラストでは盛大な拍手の中を演者皆んなで舞台の上から観客に向かい挨拶した。小さなシアターでの公演だから同世代の仲間やスーツを着た卒業生の先輩方の顔が客席に見える。
「エリー!最高!」と友達のコールが聞こえて「ありがとう」と手を振った時、客席の一番後ろに居るスーツ姿の人に気付いた。
あっあの人だ。来てくれてたんだ。
視線がまっすぐにあの人を捉えた瞬間、目が合った気がして私は小さくお辞儀した。
するとあの人はちょっとだけ手を挙げてから会場を出て行った。
秋だからなのか、この頃は時々にわか雨の降る日が多い。
飲み物のオーダーもほとんどホットの物で、カフェオレやココアが出ることが増えている。
外が寒くなると皆んなまったりと濃度のある体を温めるものが恋しくなるんだね。
いつも通り「さくら」で私はサンドウィッチやコーヒーを運び洗い物をし、サンドウィッチの材料のレタスを洗ってシャッキリと水切りをする。
もうじき大学の試験だからシフトはちょっとだけ減らしている。
そのせいなのか、あの人と会わない。
いや、サラリーマン風の人だから出張なんかがあるのかも知れない。
そんな具合に彼の姿が見えない事への言い訳を自作してしまうくらいには気になっている。
大体、あの日は本当に私の挨拶に気付いてくれていたのだろうか。気付いて手を挙げてくれたっていう記憶は私の思い込みだったのかも。
店に来てくれたら、もしもあの人が本当に私に気づいてくれていたのなら。
「舞台観たよ」なんて言ってくれたとしたら、お礼くらい言いたい。
そう思っているのに、あの公演の日の後からまだ彼とは一度も顔を合わせていないのだった。
カランカランと出入り口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
彼が現れた!
かも、なら、たら、だらけの妄想が破られて私は飛び上がりそうになった。
大きめの黒い鞄と紙袋を持ったあの人が白い柄のビニール傘を傘立てに挿している。
「いらっしゃい」とカウンターから声を掛けた隼さんに彼は「マスターこれ。ちょっとだけどお土産」と紙袋を手渡した。
「わざわざそんな、なんだよ気ぃ使って」
「いやこれはマスターの好きなやつ。たまたま九州だったからさ」
「そうか。ありがとうなカオル君」
「どういたしまして。ミックスサンドのセット。飲み物はホットでお願いします」
席に着くのを見計らってオシボリとお冷やを出した私にカオルさんは言った。
カオルさんていう名前なんだ。
私の心に満ちてくる思いにはっきりと刻まれていく響き。他の誰でもなくこの人にだけ似合いの響き。
カオルって、どんな字を書くんだろう。
けれどそれを噛みしめる間もなく立て込んできて、あちこち別のお客さんの対応をしている時にカオルさんが帰ってしまった。
「あ、ちょっと。カオル君傘忘れて行っちゃったよ。エリちゃん、追っかけてみて」
「はい」彼の残したビニール傘を手に私は外に出た。
雨が上がった夕方の秋空は、風に流れる黒雲の間から急に日差しが降りて地上に梯子が掛かり、その向こうに黒い鞄を肩に掛けて歩いていくカオルさんが見える。
「待ってください、待って!」
声を掛けたけど気付いてくれない。
エリちゃんは明るくてハキハキして元気がもらえる子、隼さんはそう言ってくれるけど私はカオルさんを見るともう駄目なのだった。そう、舞台の上でもない限り。
名前を呼ぼうか。でも「カオルさん」としか知らない。
心だけが彼の後ろ姿に手招きされて先に行く。
まさか苗字じゃなさそうだけど呼んでみよう。
「カオルさん待ってください、傘をお忘れです!」
立ち止まって振り返ったカオルさんに傘を差し出した時、急にふうっと空が暗くなってザーッと大粒の雨が降り出した。
「あ、これはすみません。それにしても……」すぐに傘を広げながらカオルさんは私の大好きな声で言った。「まさかのタイミング。君も入って、ほら早く」
「でも、私走って戻ります」
「僕はもう帰るだけだし、君はまだ仕事中。グショグショになってもいいの?」
「それは……」困るけど、カオルさんの傘に入るのもすごく困る、嬉しくて。
私は口籠った、と言うよりあっと言う間に激しくなった雨音に声がかき消された。
すごい雨、これはゲリラ豪雨かな。
「おいで」
カオルさんは私を傘に入れて一緒に「さくら」まで戻ってくれた。
「ちょっと前の話だけど、君の出ている舞台観たよ。良かった、感動した」
「私、気が付いてました。だから店に来られたらお礼言いたくて」
「隼さんにきいたんだ。僕の大学の後輩で演劇やってる子だよって」
「私の大学の先輩なんですか」
「もう十何年も前の、だけどね。僕も演劇やってたから」
「そうだったんですか?」
カオルさんはうなづいた。
「俳優を目指したこともあったけど今は普通のサラリーマン。でも精一杯だった頃を虚しいとは思わないよ」
「私は、ただ楽しくてやってるだけ。でも精一杯ですよ」雨音のせいで自然と大きめの声で話せる。
ああ、でもたったそれだけ話すうちにもう店の前まで戻ってしまった。
「ありがとうございます、カオルさん。あの、カオルってどういう字を書くんですか?」
「ああ。ホウコウって、わかる?芳香剤とかの」
「はい」
「あの、ホウって書く」
「じゃあ、かんばしいって読む方ですね」
「嬉しいなあ、すぐに通じた。大体えっ?て顔されるのに」
香かな、薫かなって考えたけれど芳さん、か。勇気を出して聞いて良かった。
「君はエリさん、でしょう。どういう字?」
「私はそのまま、カタカナでエリです」
「そのままのエリちゃん、ね。ありがとう」
「芳さん、お気をつけて。あの、また……。またのご来店をお待ちしています」
そう言うのが今日の精一杯だった。
「さくら」はサンドウィッチが評判の昔ながらの喫茶店。
二十歳の私よりも一回り年上の芳さんは昔、ここでアルバイトしていたそうだ。
私と同じように、隼さんにミックスサンドをご馳走になったんだって。
それは芳さんが私の彼になってから、聞いた。
完