土曜日の反乱
携帯のアラームのやかましい音で目が覚める。枕もとに手を伸ばして、アラームを止める。体が軽い。昨日の休養がよかったのだろう。
「ダル……」
いつも言ってるせいだろう。今日は逆に調子がいいはずなのにつぶやいてしまう。悲しい習性だ。おおよそ、一生涯なくなることはないだろう。
あ‼今日は土曜登校の日だった。ボーとしている場合ではない。準備をして、学校に行かなければならない。
布団を外そうとした瞬間、体が動かなくなる。腕が宙を舞う。糸を切られた人形のようだ。首から下を大きな手で押さえつけられているようだ。首から上は動くが、体が動かない。俗にいう金縛りというやつだ。
本当に何者かに体を押さえつけられているように動かない。人生で初めてだ。何となく不安になってくる。自分の体が言うことを聞かない。再度動かそうとするが体は全く反応しない。なんとも言えない、怖気が背筋から走る。
どうなるのかわからない。
コワい。
苦しい。
心が悲鳴を上げる。
早くここから抜け出さなければならない。でも、どうすればいいのか?体が動かない。心は恐慌状態。かろうじて正常なのは、私の意志だけ。
つんでいる……。
せめて心だけでも落ち着かせる手段はないか?今までの17年間、経験に乏しい記憶から探す。記憶を巡っていくとあっけなくその方法は見つかった。それもそのはずだ。今先までド忘れしていただけで、いつも行っていることだったのだから。早速、ルーティンをすることにする。魔法の言葉を念じる。
人は絶対に傷つく
恐ろしさが遠ざかっていく、一安心と思ったのが間違いだった。いつもと結果が違うのだ。普通は心と体との接続が切られる。今回は遠ざかった。おかしいと思うべきだった。
情けないことに、恐怖は不意打ちのように、近づいてきて私と肉薄している。
体が震え。
冷や汗が流れる。
だまし討ちをしてきた。心が私を攻撃してきたのだ。
(こいつは私の一部じゃない‼)
独立しているのだ。意志がある。現に私の意志を無視して、逆らっている。
ハッとした。
今動かないからだはどうなんだ?こいつも意思があって、私に逆らっているのじゃないのか?そうだこいつも私を裏切たんだ。
何故、私を裏切たんだ、こいつらは?しかも今?こいつらをないがしろにすることなど今までの人生の中でいくらでもあったんのに。何故今なんだ?記憶を再度たどる。ここ最近に遭ったことなどいつもの日常の繰り返しだ。ただただ傷つき続けただけ。傷つくことなど日常茶飯事にあることだ。そんなありふれたことで何故裏切るのか。まさか、もう傷つきたくないのだろうか。私だけ傷つかせる気になったのか。
自分だけ傷つくのを回避する。私とこいつらは共存しているというのに連帯感のかけらもないひどい裏切りだ。
自分の体をなじる私は何だか、既視感を感じた。自分だけ傷つくことを回避するという行為に。
もう一度
…記憶を手繰る。やっと気が付いた。私が裏切られたわけと何故今なのかを。
私がこいつらを裏切ったからだった。私は魔法の言葉を使って、自分だけ傷つくことから逃げたのだ。何度も何度も。一つの体を共有するこいつらは私に同情的であるはずだから、今まで我慢したのだろう。だが、私はいじめられていることでこいつらを常日頃から平気で裏切るようになった。頻度が爆発的に増えたのだ。我慢できるだろうか?しかも、私が裏切って、逃げている間にもこいつらは傷ついた。私のことを憎く思うはずだ。我慢し続けるはずもない。裏切り、心と体の痛みなど無視し続け、いじめの渦中に飛び込むことでこいつらに痛みを強制したのだから。
だから私は裏切られたのだ。今この場所で。ここならば、裏切た後、自分たちの痛みもないのだから。
こいつらはあとどれくらいの間、私を裏切り、この拷問を続けるのか?最悪な予感が背筋をめぐる。こいつらが私と同じ期間、私を裏切るというなら私は一年以上拷問が続くのだ。いやだ‼そんなことをされて耐えられるはずがない。
ごめん。ゴメン。ごめん。ゴメン。ごめん。――
何度もあやまったがそれで収まるはずもなく、裏切りは過去の私の行いを反復するように続いた。
もう何分経過したのか。もう何時間経過したのか。わからない。もしかしたら、何日も経過しているのかもしれない。体はうごかせず、恐怖を感じさせられる。この状態が継続させられている。なれることはない。不自然な停滞が時間の感覚を壊す。目に映る景色は白い天井だけ。何もかわるものなどない。故に意識は恐怖だけに向く。
生きたまま、俎上で調理される魚のような気分だ。むざむざと自分が切り刻まれるのを見ることしかできない。
こういうのを絶望というのだろう。自分が確実にダメになっていくのに、何もできない。確実にじりじりと破滅に向かっていく。
変わらない世界にひずみが生まれた。下手くそなギターの音が聞こえ始めたのだ。大きく揺らぎ、ひび割れるように軋む音。徐々に徐々に体が動くようになっていた。完全に体が動くようになってからも、私はしばらく動きたくなかった。どう考えても、おかしいのだ。なんでいきなり許されるのか。
順序通りに考えられば、ギターの音がきっかけで私は許されたことになるがそんなことはない。ギターの音になんの意味があるのか?ただこの音はあのギター男の音色に酷似しているだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
奇妙な解決に、泥水のような不安がせりあがってくる。体が動くようになっていた当初は福音のように聞こえたギターの音もおどろおどろしい悪魔のわめき声に聞こえる。
耐えられない。
やめさせよう。
妙にきびきびと動く、足で、音の根源に向けて歩を進める。
くぐもった灰色と色鮮やかなオレンジ色。陰鬱な曇り空とは真逆のように晴れ晴れとした太陽ような西洋建築。私はそいつを睨みつけていた。ここからギターの音は聞こえてるのだ。元凶はここにいる。少し緊張はするが、言わなければならないことを言わなければならない。
緊張で震える指で呼び鈴を押す。ギターの音が聞こえるだけで何の返事もない。五分経っても、何も起きない。イライラする。
(迷惑なことをやってるし、わざわざ順序なんぞ踏まなくてもいいか…)
ステンレスのドアを開けて、家に侵入する。玄関には小奇麗に革靴が整頓されておいてあり、タイル張りの床には汚れがなかった。うちの玄関とは真逆だ。いいところの家だということを感じる。
玄関の左側には、扉、右側には螺旋階段があった。螺旋階段を下るように音色が聞こえる。二階に奴はいるのだろう。二階を目指して、螺旋階段を登る。螺旋階段には色あせた家族写真やら、観葉植物やらが隅に置いてあった。階段を上がるとT字型の廊下が広がっており、突き当りの正面に扉があった。ギターの音はここから聞こえる。イライラでごまかしていた、緊張がまたぶり返す。扉を開けるのにひどく勇気がいる。
ドアノブは握れているというのに回すことができない。ドアノブを握りながら、冷や汗を流していると、ひとりでにドアノブが回った。いや、ドアノブはあちらから回されたのだ。
白髪の男がドアから肩まで出して、こちらを怪訝そうな顔で見つめる。
「勝手に人の家に上がり込んだら、いけないよ。君」
薄く笑みを浮かべて、壮年の男は優しい声でそう言った。私は悪いことをしたという罪悪感にさいなまれて慌てて説明を始める。
「ス、すいません。ベルを、鳴らしても、反応がないので……」
緊張のあまり、つかえつかえだが、男は相槌を打って親身に聞いてくれる。こちらがしゃべり終えると、本当に申し訳なさそうな顏をして、
「ごめんネ。ギターに意識がいっていて、ベルの音に気付かなかったんだ」
意外にいいひとだ。なんだか苦情を言いづらくなってきた。
男は、身とドアノブを引きながら、部屋の中に入るように促してきた。
知らない人というにのもあり、若干抵抗はあったが、促されるまま部屋の中に入った。
本棚が左右に広がっており、パソコンの置いてある机の横の床にギターが鎮座している。
ギターだけ浮いている。八百屋に魚を置いてしまったような。ないことはないかもしれないが、やはりないような感じ。
男は徐にギターのところまで行くと
「先のお詫びに少し何かうたた上げよう」
と言い、ギターを手に取り、横の机にある備え付きの回転イスに腰を下ろす。
男は、引き始めると破顔した。皺だらけの嬉しそうな顏だった。アッ‼
こいつは知らない人などでは全くない。ここ最近シャッター街で何度も合わせている。ギター男だった。遠くから見ていたから、実際より若く見えていたのだろう。白髪という特徴は同じなのに、年を取っていたから除外していた。
この男が、自分の知っている、あのどことなく情けない奴だと思うと、急にむくむくと怒りがわいてきた。
ギター男はこちらの内心の変化などつゆ知らず、気持ちよさそうに、前よりもましになった下手くそな歌を歌っていた。
歌が終わると
「歌の感想はどうかな?」
とギター男が心配そうに、眉根を寄せて聴いてくる。
「うまい、とは、いえないですね」
下手くそといってやろうかと思ったが、いざ本人の顔を見ると勇気がでなくなって、言葉を濁してしまった。
「やっぱそうだよねえ」
男は困ったような顏をして、うんうんと相槌を打つ。
「いつもシャッター街でもやっているけど評判がすこぶる悪いからねえ」
と少し小さくなったはずみのない声でいう。
自分の当初の目的である苦情は果たせそうにない雰囲気だ。半ば失礼をしたという罪悪感を持っている私には、自分のことを棚に上げて、ギター男を責めることなどできない。適当に話を合わせて帰ってしまおう。ここに来た言い訳は「干してあった洗濯物がここまで飛んでといて」ポッケのハンカチでも見せればいい。まずお暇を切り出しやすいように、答えにくい質問をしよう。
「じゃあ、なんで、ギターを、し続けるんですか?評判、が悪いなら、やめれば、いいのに」
おおよそ意地でやっているこの男には厳しい質問だろう。意地でやっている人間は意地だなんて言えるわけがないのだから。私の知るギター男は窮するはずだ。
「好きでやっているだけだからねえ、評判はいい方がいいけど、二の次だよ」
特に困る様子もなく、よどみなく男は答えた。
「この年で、ゼロから始めたんだ。評判なんて望むのはおこがましいし、そんなに必死なら独学じゃなくてちゃんとギター教室に行くよ」
つらつら続けていく。
「ただ意地でやっているような感じだからね」
もう聞きたくなかった。この男の言葉は、私をあざ笑うようにしか聞こえない。(意地でやっている)というのは、(意地でやっていない)といっているようなものだ。こいつは自分と似たような奴だと思い、親近感を抱いていたのにひどい裏切りだ。
知らずに、涙で視界がゆがむ。
どこかわからない部分がひどく痛い。思いのほかダメージが大きい。知らず知らずのうちに仲間だと思っていたのだろう。でも涙がでるほどのことなんだろうか?
ひどく違和感を覚える。
確かにひどいことだが、期待を裏切られるのは日常茶飯事だ。だから、悲しくて涙が出ているわけではないのだ。これは、悲しみよりもほの暗く、他者により依存するような感情。焼けるように熱く、汚泥のように粘着質な。
これは悔しさだ。
頭蓋を電流が走る。
私は悔しさを理解した途端、ここで今起こったことを正しく認識した。
止めを刺された。
希望を絶たれた。
完全に敗北した。
これがここで起きたすべてだった。
拷問を受けても抵抗し続けて、全く根を上げない私に業を煮やしたこいつらの最終措置を受けたのだ。
私に致命傷を負わせること。私が予防線を張っていない、思い寄らないとこからの不意打ち。
私の脆弱さを知っていたのだ。痛みに対してすこぶる弱いことを知っていたのだ。
ここまで、よちよちと引きつられるまま連れられていた自分が悔しい。なんだかんだ理由をつけて、こんな別物の男に助けを求めようとした自分の浅はかさが愚かしい。
自分のことを完全に熟知している心と体を軽く見すぎたのだ。与えられても苦痛が限界と高をくくっていた。やつらがどれほど本気なのかはき違えていたのだ。私の周りで使えるものをすべて使って私をつぶしてきた。全身全霊だ。本気の本気。
認めざるを得ない……。こいつらは私と対等以上なのだ。
私のことを私以上に知っている。どこをどう傷つければ、一番応えるのかがよくわかっている。自分が主導権を持っているからと言って、能力が優れているわけがなかった。
私がこの体を使えるのは、所持しているからじゃない、所詮は体の温情でしかなかったのだ。
情けなさに生まれたれの小鹿のように、打ち震えていると、男が目をしろ黒させてこっちに近づいてきた。
「き、君、泣きそうじゃないか、大丈夫かい?」
やさしい気づかいのある呼びかけをかけてくる。つらいことがあったすぐあとなので、簡単に涙腺が崩壊した。頬が涙で水びたしになっていく。
「あん、たの、せい、でしょ‼」
興奮そのままに、罵声を浴びせようとしたら、つかえつかえの情けない声が出た。
だが、男はかなり驚いたようだ。天地がひっくり返ってしまったような顔をしている。
「ご、ゴメンヨ。こんなことになるとは思わなかったんだ」
男は慌てて、慰めようとしてくれるが、私の涙はどうにもならず、頬を濡らし続けた。