歪んだ正義感
幾月か前にとある場所で事件が起こった。
被害者の名前が伏せられているのには理由があり、彼らは精神障害者であった為である。
日本では世間的に恥となるものは隠そうとする習慣があり、障害があるというだけで後ろめたい気持ちを持つようだ。
現代では保障もあるので一般人と変わらず生活を送ることができるのだが、やはり抜けきらないもので私の子供が障害者だと悟られたらいけないという強迫観念はついてまわっている。
テレビ番組で涙ながらに語る芸能人の子供が実は自閉症やらダウン症やらの話、涙を流し悲観するということは滑稽に映る。
悲劇のヒロインみたいでしょ?私を憐れんで欲しいってな具合に、別にそのままでいればいいもののやたら強調している。
やはり平然としようとも障害者というのは後ろめたい存在なのであろう。
幸運にも私にはそういったモノは無いようで、真に有り難いのだが、現在生まれる前に遺伝子検査で障害を予め知ることが出来るようである。
これについては是非とも全員にやってもらい、障害者のいない世界になってくれればいいと思っている。
誰しもが幸せであることは人として生きるのだから一番大事なのだ。
だが、この検診を阻止しようとしているのが障害者を親族に持つ人達である。
今後障害者が減っていくとその障害を持つ人への偏見が増えるということが懸念される。
確かにそれは有り得るだろうが、それ以上に「何故私だけが不幸な目にあっているのだ」という思いも含まれているだろう。
不幸の中にいる人間にとって、他人にも同じ苦しみを味あわせたいという気持ちが湧き上がる。
誰にだって妬みはあり、幸せそうな人を見ると死んでしまえと思ってしまうものだ。
自分だけが不幸で、他人の幸せは許せない、だから同じ目に合わせたい、こういった勝手な思いがほんの少しあるだけで健全である物が堕落してく。
その結果、精神障害者が増え何にも罪のない人々が死んでいくのだ。
障害を理由に裁かれず、また野に放り出し同じ事の繰り返し。
怖れる人は理解などせずただやるせない日々を過ごすだろう。
結局のところ障害者自身は幸せだろう、しかし親族は不幸せなのだろう。
献身的な介護は出来ても生活する金は無く、愛していてもいつかは憎悪に変わりゆく。
この過程は介護疲れからの殺人と同じで、正気を失うと言うかもう楽になりたいという本心からくるものだろう。
殺人にいくまでの過程は知ることが出来ないが、自らも死ぬつもりでやったはずだ。
私は以前老人ホームで働いており、介護の現場をある程度知っているつもりである。
介護度の高い人は会話することも出来ず、食べ物は口から流し込むように。
意識があるのか分からない、どうして生きているのか本人自体も分かっているのだろうか。
長く生きてほしいと願うのは誰でもきっとそう思っている。
だがホームに入れ、離れて生活するうちに関係性が薄れていき、死んだ時には挨拶もせず使われなかった残った年金の請求をする。
結局、行かされているのは残った家族の金蔓であると理解してしまったのだ。
全てが全てではないが、厄介払いの為の入居もあり、不義理な人も多い。
なんとも悲しい事だが現実とは非常だと思ってしまった。
人が人である為には自ら考え行動する力を持っていなければ人とは言えないと思う。
ただなすがままに過ごして、喋らず動かず食べ物は口から流し入れる。
何故生きているのか、それは誰にも分からない。
理解できているのだろうか現状を。
出来た所で自ら命を絶とうなどと考える事もできず、放っておけばナイフを手に誰かに危害を加えるかもしれない。
今はただでさえ少ない真人間に足枷をつけてしまい、一生の奴隷として扱われていくのだ。
これが不幸と言わず何という。
甘んじて自らを差し出す若者はいったい何を考えているのだろうか。
テレビのアナウンサーが発した「理解に苦しむ」という言葉に私は違和感を覚えた。
世間一般向けではごく当たり前な発言だと思うが、だからといってその中に理解できない事象が含まれていると言われるとそうではないはず。
誰もが抱える闇、先に述べた障害者への偏見、身分の低い者への高慢、隣国への猜疑心、口には出さない悪口も全てを知らなければ理解など出来るはずもない。
お役所仕事をしている人間が一般人の生活など知ることはできず、カップラーメンを1000円とか言いだしたり、どんなに頑張って勉強しても不合格であれば結果だけで判断するだろう。
否定することは簡単で、肯定すれば自らの立場を危うくするかもしれないという保身的な姿に反吐が出る。
正しい事を言えば誰かに嫌われてしまうだろうが、それを隠して過ごすのは私には耐えることはできない。
殺人を犯した人間を擁護することは無いが、それが間違いであると断言できはしない。
通り魔的な殺人者には死刑が相応しいが、介護疲れの老人には恩赦があってもいいだろう。
一般的に、この世の中には死んでもいい人なんて居ないらしいのだが、私は違うと思う。
死んでもいい人は沢山いて、例えば殺人を犯した人は死んでもいいし、貧困なにの子だくさんで食料が無く餓死してしまうどこかの国の人も日本が手助けしなくてもいいと思っている。
自ら生きる意志を持たないものは死ぬしかないし、無計画な人生を送る人も死んで然る者である。
死は傍から見ればエンターテインメントで悲観するものではない。
未開の地にデジタルな通信が溢れ殺人の様子が映像として残されている。
息も絶え絶えの人もいれば、抵抗するも力尽き燃やされる人もいる。
ただ、そこにある「彼らは犯罪者である」という説明だけで可哀想という感情も無くなってしまう。
むしろもっとやってしまえという傍観者の狂気が渦巻き喜びさえ感じてしまう。
本当かどうかなどどうでもいい、彼らは犯罪を犯した裁かれる人間ならば死んでも問題はない。
改めて言うが、残酷な出来事であるが実際に起こっている事実なのである。
法で裁くことが出来ないなら自らの手で行動に移すのは仕方のないことなのかもしれない。
それが正しいのか間違いなのか、その時その場所にいなければ誰も知ることはできないだろう。
知った人が死に逝く時に今まで述べた感情などは一気に覆ってしまう。
これが私の歪んだ正義感であることは間違いない。
誰もが理解出来る事ではない、ただ、行動に移さないだけでストレスとして私の中に積み重なっていくのである。