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ファッションは宗教であるという考察

作者: 走るツクネ

ファッションは色々な意味合いがありますが、流行しているおしゃれ、というような意味合いで使っています。

 多くの日本人は、宗教に対して批判的なイメージを持っている。政府の意識調査などで出た確かな世論というわけではないが、私の数少ない人付き合いの中で交わした会話やネットのログなどを読んでいると批判的な価値観が伺えるし、信仰宗教を尋ねるのはタブーであるという風潮もある。なんらかの宗教に属している、と回答を行う人は2、3割だという。

 なろうで言えば、投稿されている小説や、感想欄に見ることができる。

 私の宗教に対しての認識は、一般的な日本人のものと異なるものであると自覚している。礼拝や拝観などでの説法や信徒との付き合い、欧州での生活や文化研究等の経験によって、多少なりとも宗教については理解しているつもりである。


 多くの日本人の意見を書いてみると、以下のようなものがある。少々乱暴かもしれないが、決して聞いた覚えがないことは書いていない。


日本人の多くは信仰宗教を持っていないし必要ない

しかし無宗教というわけではない

野蛮な事件を引き起こす一神教はけしからん

宗教に頼るのは心が弱い証拠

信仰とは騙されるということだ


 確かに日本人がこう思ってしまうのも幾つかは頷ける。

 新興宗教にはまって財産をつぎ込んだり、悲惨な事件を巻き起こすなど、宗教に属している人間の持つ不安定さが露呈する事柄があった。歴史上では宗教はいつも争いの中心にいるように見える。

 また、宗教はそれぞれが異なる起源を持つにもかかわらず、ほぼ全ての文明が持っている。それは宗教が未開であるという考え方もできるし、科学技術を始めとした近代思想は、分からないことを分からないままにしておく宗教とは対立している。現代では人の涙は、微弱な電気信号とアミノ酸によってできているのだ。


 一方でこの一般的な価値観を否定したいのか、「日本人は宗教を持っている」となぜか主張したがり、葬式などの宗教色の強い行事を引き合いに出す人もいるが、それは宗教の持つ力を理解していない見当違いな意見だ。信仰とは、価値観の大半を預けることである。

 神道については、それが日本の宗教だと考えられなくもないし、ある面ではその通りだとは思う。神道が根付いているから他宗教が入ってこないと考えることは妥当であると思う。他宗教の神に対して違和感を覚える理由付けになるからだ。しかしそれはただ単に、文化的生活を享受する中で受動的に培われた価値基準であり、他宗教の信仰生活と比べると能動的要素は希薄である。実際信仰宗教として回答していないわけだから、信徒と呼ぶことはできないだろう。



 多くの人は、この宗教に対するイメージから、宗教に頼らないことが自分の足で立っているということだ、と考えている。逆に、旧時代的で多くの欠陥を抱えている愚かな宗教を排除することで、さも自分が先進的な考えを持っているのだ、と"信じている"ようだ。

 もしくは、「自分が持つこの考え方は、本当にそうなのか」、という"検証や考察を一方的な立場からでしか行わず"、自らの立ち位置を定めている。


 強調した部分が一体何を指すのかという稚拙な皮肉や、神道云々のことは置いておくとしても、多くの日本人が信仰者という一面から全く脱却していないと私は考えている。



 その考えに至ったきっかけはファッションの様子である。


 日本の服飾には流行というものが存在する。街行く人々のファッションは異様な様相を呈しているように思える。

 服の形状や色遣い、それらの組み合わせ方、身につけ方、という部分で、年ごとにこの流行は変化していく。


 一説では流行会議というものが存在していて、生地やらデザインやらを決定づけるという。


 流行は雑誌などでそれらが紹介され、多くの人間がそれを買い求める。流行の最先端という一連のフレーズが表紙を飾ることはすくなくない。服屋に行けばやたらと流行だ流行だと言って、一昔前に買ったものを求めても手に入らないことが多い。


 この一連の流れは宗教そのものだろう。一つずつ例えていきたいと思う。


 流行会議は教団に相当する。そして彼らが定める流行ファッションという教えは、雑誌という聖典によって布教されるのだ。流行に乗り遅れまいとする信徒は、一斉にお金を払って新しい服を買うのである。

 どれだけ教えに従順か、というポイントは、そのファッションがどこまで流行に沿ったものか、という点で判断される。もし"イケてる"服装であれば、同じファッションに熱心な人々からは賞賛されるはずだ。逆に教義に属さず、ファッションに無頓着な人々のことを、蔑む、もしくは憐れんだりするという感情が生まれる。

 蛇足だと自覚しつつ更に例えるなら、ファッションデザイナーは聖典学者、コーディネーターは神父、モデルは騎士団に相当すると言える。


 この生活を続けていくと、ある程度の価値観が育つ。それは小さな意味ではファッションセンスであるし、大きな意味では何を買い何を着るかという生活習慣に影響を及ぼす価値観だ。


 ここには三つの有用な効果があると考えられる。


 何を着ていいか(どう考えていいか)わからないから、流行(教え)に従う人は少なからずいるだろう。そこに美意識に基づく選択はないが、美意識に自信が持てない人にとっては、救済となりうる。それがたとえ将来的に嘲笑の対象になっている可能性があろうとも、進んで受け入れるべき教義なのだ。


 ファッションセンスを示す、もしくはある程度ファッションに興味があると示すことは、自分の価値観を伝えるツールとして、簡易的ではあるが役立つ。ファッションに興味を持ち、そのファッションに身を包むということは、同じような価値観を持つコミュニティに所属するために必要なことだとも言える。


 服を買う、おしゃれをする、ということは、日常に彩りを与え豊かにすることだ、とも考えられる。数千円コーディネートなどはまさにそれだろう。


 あらゆることが購買意欲の促進につながるのだ。このようにしてファッション業界は物を回し、お金を得る。

 こう考えていくと、見事に宗教の構造や効果に合致する。決して無理矢理結びつけたわけではない。

 興味深いと思える点を一つあげるなら、金銭、物品の過剰消費という部分を、古い宗教は諌めているということだ。



 随分と攻撃的に書いてしまったが、何も服を標的にすることがこの話の目的ではないということは、分かっていただいけていると期待している。別に、ファッションに無頓着であれ、と言いたいわけではないし、流行にとらわれない人が偉い、という話でもない。

 ファッションについて言うなら、場にふさわしい格好や礼節としての服装が存在しているということは、社会にとって非常大切だし、その一端はこのサイクルが握っているのも確かだ。美的センスに基づいた服であれば、そもそもこの流れには該当しない。

 また、流行とは共通の話題が大規模になったものだから、社会性を強める効果も持っているだろう。


 問題にしたいのはファッション業界に踊らさている、ということではない。この価値観を形成する構造が確かに我々の中にあるということだ。



 戦後教育によって、我々は宗教を排した価値観を育てられた。

 妄信的な態度は思考を停止させる。民主政治にあってはならないことで、あまり成功しているとは思えないが、現在の学校教育ではその一面を更生すべしとの意志が見える。戦争は妄信的な人間が起こすものだと"信じて疑わない"人々もいる。


 一方で、我々は誰しもが妄信的な一面を持っているのは事実だし、それは自然な感性の営みでもある。

 各々、こうであるべきという価値観、行動基準があるだろう。それはそれぞれが個人か社会の利益につながることであるし、決して捨てることのできるものではない。道徳精神などはまさにそうだ。

 しかしそれを信じて疑わないままでは、他者が持つ価値観との衝突は避けられない。自己の正義を振りかざすその姿は、狂信者となんら変わりなく、むしろそのものである。


 宗教が妄信的態度を生むのではない。妄信的態度が備わっているから宗教が生まれたのだ。宗教を取り除いたからといって安心するのは間違いである。むしろ古い宗教にはそのことを自覚していて、その目を覚まそうと訴えかけるような文言が幾つも見受けられる。



 今の日本では公共の場でどのような行動をするか、社会に所属する他者とどう付き合っていくか、どう自己の利益を確立させるか、という問題が日々噴出している。


 自己の価値観を疑い他者の価値観を慮るという、緩衝材のような思考回路を持たないまま、もしも宗教という価値観統制の手段を捨て去るのであれば、このような問題が人と人の関わり合いの数だけ増えていくことになる。


 価値観の衝突が集団単位で起こったものが、真に宗教が引き起こした戦争だ。それを個人レベルに引き下げたものが、我々の現状なのである。

 非常に規模も範囲も小さい一方で、異常な頻度で発生するこの戦争は、感知することが難しい。気がつけなければ対処も出来ず、それゆえにひずみはじんわりと蓄積している。上辺だけの場当たり的な法整備で対応できる話ではないのかもしれない。


 他の考察でも度々書いていることだが、必要なのは自分の意見を捨てるということでも、全ての意見を取り入れるということでもない。異なる意見に出会った時に、それについて一考してみるということだ。

 相互理解と協力、発展は、まず自己の価値観を認識し疑うことによってのみ、始めることができるのだ。凝り固まった価値観のまま主張するだけでは(多くの論者がそうであるが)全く説得力を持てないことだろう。



 我々は宗教が起こした様々な問題をせせら笑った。現代は一見、人類史上最も豊かで問題がない生活を送れている。しかし、我々が座る個々の椅子の上の剣は決して消えていないし、その剣を支えるロープも決して強靭なものではない。


 そして、この考察を読んだ人間の何割が、自分の真上にぶら下がった剣を見ることができるかはわからない。残念ながら少数であるとは思う。なぜなら我々は奇抜な服装を好み、それに目を奪われるからだ。

以上、ファッション雑誌を一度も読んだことがなく、万年ワイシャツとスラックスを着用している筆者の主観的な意見でした。

他にも幾つか考察を書いております。よろしければそちらもご覧ください。

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― 新着の感想 ―
[一言] ファッションについて語っているのに、オシャレもせず、つまり本当に自分が考えてる通りなのか検証もせず論を張るのは凄く変。 それは考察ではなく手抜きの妄想でしょ。
[良い点] 納得できる内容じゃな。 確かに主の考える宗教とファッションは対応してるように考えられるのう。 ワシはファッションというものはあまり敏感じゃないが、分析は理解できたのうまた宗教に対する差別…
[一言] はじめまして。 たぶん気にしたことがない人が多いとおもうので、小ネタとして。 ファッションは、「ファッショ」、「ファシズム」と同系語です。
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