カモミールの理想郷探し
空は快晴、陽射しが痛い。
カモミールは袖なしのシャツを着てきたことを後悔していた。文書館の事務員として働きだして数年、すっかり白くなった肌は夏の陽にじりじりと焦がされている。
暑い。暑いが、素直に暑いと言うのはしゃくだった。自分でも意地っ張りだと認めているカモミールは、木の葉の裏で涼むウミウシを見つけて恨めしげに睨みつつも陽射しの中をぐんぐん進む。
何だってあいつらは、あんなに派手な色をしているのか。
オレンジ、青、黄色、紫に赤。派手なだけでなくひらひらとフリルのような飾りがついていたり、水玉などの模様まで備えている。
かつては青い海の底におり、今では空の底であるこの地上を徘徊するだけの生き物のくせに、そんな色鮮やかである必要性がわからない。自分と同じで地べたを這いつくばっているはずなのに、妙にきらびやかで腹がたつ。
カモミールは洗いざらしの黒い長ズボンと白い袖なしシャツという自分の格好を見下ろし、八つ当たりをやめてため息をついた。
職場と家との往復ばかりで過ぎていく日々に、服装に頓着しなくなって久しい。以前は華やかなワンピースやおしゃれなスカートなどを好んで身につけていたけれど、いつからか仕事に着ていけるように白いシャツと黒いズボンばかりを買うようになってしまった。
そのせいかはわからないが、異性との出会いがまったくないまま日々を過ごしている。
朝から晩まで働いても給料は安く、一生をひとりで過ごすかもしれない将来のために貯金をすれば、自由になる金はあまりない。たまの休日に遊ぶ金も無いのはさみしく、けれども何も考えず散財できる年でもない。
同年代の友人たちは次々と結婚をして子を持ち、幸せそうな様子を見るたびに祝福する気持ちと、自分の足元が狭まるような気持ちとを味わう。家庭を持った友人を誘うのは迷惑かな、などと思ってしまって、ほとんどの友人とは疎遠になってしまった。
たまには親の顔を見ておくか、と実家に帰ればやれ結婚はまだか、やれ実家から通える仕事に変えろ、と親がやかましい。
自分なりに頑張っているのに、迷惑はかけていないはずなのに周囲からそれを否定され続けて苦しくて、悩んで悩んで悩み続けて、なんだかすべてが嫌になってしまった。
だから、カモミールは久しぶりの休日に、理想郷を探すことにした。
探すと言っても空や海に続いて広い大地だ。やみくもに歩いたところで見つかるわけがない。理想郷や王子さまが迎えに来てくれるなんて夢を見られるほど、もう若くはないし純粋でもない。
だから、カモミールはカメがよく見られると言われている山あいの村まで、荷馬車に乗せてもらいやってきた。
かつてカメが海にいた頃、カメを助けた男がカメの背に乗って海の底の理想郷へ行った、という文献があるらしい。史実なのか創作なのかもわからないほど古い話ではあるけれど、現実に嫌気がさしたカモミールはとにかくカメを探すことにしたのだ。
そうしてやってきた村の人に聞くと、山の峠を越えた先でよく見られる、とのことだった。見られるといいね、と送り出してくれたその人に頭を下げて、陽射しに焼かれながら山道を登る。
登り始めこそ暑さと久しぶりの運動のきつさに腹をたてたカモミールだったが、全身に汗が噴き出る頃になると山道を囲む木が陽射しをさえぎり、吹き抜ける風が涼しささえ感じさせてだんだん気持ちよくなってきた。ときおり目にする葉陰のウミウシも、風景をにぎやかす一部と思って気にならなくなってきた。
久々に体を動かしたためか森林の癒し効果でか、不満や不安で煮えていた頭がすっきりして気持ちも落ち着いている。爽やかな汗もかけて、思いつきではあるが今日の遠出は有意義なものになった。
せっかくだから空を行くカメでも見上げてから帰ろう、とカモミールが峠から周囲を見回せば、まさにこちらへ泳ぎくるカメの姿が見えた。
薄べったいヒレでゆったりと宙をかき、流れるように近づいてくる。だんだんと大きくなるその姿に、カモミールは落ち着きをなくす。
腹側は白いのかと新しい発見があり、タイルのような皮膚の模様が見えて、意外につぶらな瞳と目があった瞬間。
カモミールは駆け出して、泳ぎ去ろうとしたカメの甲羅に飛びついた。飛びつくと同時に、自分は何をしているのだ、と我に返ったが、もう遅い。驚いたカメは手足のヒレをがむしゃらに動かし、一気に速度をあげて空へと泳ぐ。
ぐんぐん離れていく地上に、カモミールの血の気が引いた。人は空を飛べない。体を支えてくれる地上ははるかに遠い。手を離せば、間違いなく死ぬだろう。
風を切って飛ぶカメから手を離すものか、と必死で甲羅にしがみつくが、格別に鍛えてもいない軟弱な腕はすぐにしびれてきた。甲羅をつかむ指も、もう感覚がない。
それでもこの手を離せば死んでしまう、と力を振り絞って甲羅を握りしめていたが、カメが薄い雲の中に入ってしばらくすると、ついにぽろりとカモミールの体は宙に投げ出された。
吹き付けていた風が止んだのは一瞬で、まばたきをする間もなく耳元で風が渦を巻く。
遠ざかるカメの後ろ姿を見ながらカモミールは雲の間を落ちていく。体は地上へ落ちているが意識だけ空に取り残されたような錯覚に、妙に頭が冴えていく。
ああ、これで死ぬのか。
他人ごとのように冷えた思考がそう考えて、ならば最後の景色を目に焼き付けておこうと開けた目に、飛び込んだのは青い空。そして、猛スピードで突っ込んでくるマンタ。その背にまたがるひとりの男。
驚きは一瞬。目に見えた生きる希望に、カモミールの中で死への恐怖が湧き上がる。
「……っ助けて!」
声を上げる間に間近に迫った空魚乗りの男は、救いを求めて伸ばした腕ごと、カモミールの体全体を抱え込んだ。
体を襲う衝撃に勝る安堵感。目じりににじんだ涙は、緩やかに速度を落としたマンタの羽ばたきにはじけて消えた。
恐怖、安堵、後悔そして感謝と胸に迫り来るさまざまな感情を整理する間もなく、マンタは地上すれすれに舞い降りた。
腰の抜けたカモミールを小脇に抱え、男は山に降り立った。無人のマンタはあたりをゆったりすべるように旋回している。
「あんた、なんだってあんな所にいた」
不機嫌さを隠しもせずに、男が問う。詰問するような声の調子にたじろぎながらも、カモミールは座り込んだままで口を開く。
「カメを見つけて。とても近かったから、つい甲羅にしがみついてしまって、そうしたらあんなことになって……」
言っていて、どんどん自分が情けなくなってくる。恥ずかしさと情けなさでうつむきたくなるけれど、せめてお礼の言葉だけは伝えねば、と顔を上げたカモミールに、男の怒号が飛んだ。
「馬鹿か! 人は飛べないんだぞ。空に投げ出されれば、落ちて死ぬだけだ。聞いていると、別に空に憧れたわけでもないらしいな。空に行きたいわけでもないなら。ついうっかり出来心で空から落ちて死ぬなんて間抜けた真似はやめてくれ!」
男の言い分は正しい。自分が間抜けだった。けれど、正面切って間抜けと言われると、腹が立つ。
「なによ、そんなに怒鳴らなくたっていいじゃない。それに空に行きたくなかったなんて誰も言ってないでしょう。あたしは空にある理想郷を探そうと思っただけよ!」
腰を抜かして座り込んだまま、威勢だけは良くカモミールは怒鳴り返す。可愛げのないカモミールの反応に、男はますます顔をしかめた。
「だったら、ただの馬鹿よりなおたちが悪い。空に焦がれたわけじゃないなら、地上で探せ」
そう言って、何も言い返せないカモミールを見て男はため息をついた。
「それだけ騒ぐ元気があるなら、もういいな。俺は行く。いいか、失敗しようが間抜けていようが、大地の上なら落ちようがないんだ。死ぬわけじゃないんだから、好きなだけ馬鹿やって好きなだけ時間をかけてあんたに合った理想郷とやらを探せばいい」
じゃあな、と去っていく男の背に、カモミールは慌てて声をかける。
「……っあの、助けてくれてありがとう!」
久しぶりに素直に口にした感謝の言葉は照れ臭かったが、マンタに乗って遠ざかる男が片手を上げたのを見て、その照れ臭さもなんだか悪くないような気がした。
名乗りもせずに行ってしまった男を見送って、座り込んだまま木陰を見上げたカモミールはぽかんと口を開けた。
「あ」
木の葉からぽろりと落ちたウミウシが、ふわりふわりと風に乗って空に登っていく。決して速くはないけれど、確かな意志を持って進んでいる。
「……なんだ、あんたたちも飛べるんじゃない」
自分と同じで地べたを這い回るばかりだと思っていたウミウシがゆっくりとはいえ飛ぶ様を見て、カモミールはなんだかおかしくなって、くすりと笑う。
こんなちっぽけな生き物がおしゃれをして、空を飛ぶのだ。自分だって、もっと好きに生きてもいいのかもしれない。がむしゃらに地上を走ってもいいのかもしれない。
名も知らぬ空魚乗りも言っていた。大地の上なら失敗しても落ちようがない。馬鹿やって、時間をかけて、自分の理想郷をこの地上で探してみてもいいじゃないか。
手始めに意地っ張りをやめて、少しだけ素直になってみようか。両親に自分の思いを素直に伝えよう。疎遠になった友人に、久しぶりに会いたいと手紙を書こう。
理想郷は見つからなかったけれど、少しだけ軽くなった気持ちを胸に、カモミールは大地を踏みしめて微笑んだ。
カモミール。花言葉は逆境に耐える、逆境の中で生まれる力。
作中には出ませんが、空魚乗りの男の名前はルドベキア。花言葉は公平、正義。